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懐かしエイプリルフール企画 「ロードボンバー」|レース参戦、順位はどうなった?#8(最終章)

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1977年、4月のエイプリルフール。バイク誌モト・ライダーは、一つの嘘をついた。「ヤマハから新型カフェレーサーが登場する」、ロードボンバー事件である。これをきっかけに編集部では、実際にそのカフェレーサーの制作を決断し、連載企画とした。前回#7では鈴鹿耐久レース参戦決定までの経緯を報告。モト・ライダーの鈴木編集長は、山田 純(当連載の筆者)のペアライダーに「堀ひろこ」さんの起用を提案。しかしレースではマシンの押しかけ(エンジン始動)が必須である。果たして彼女はXT500のエンジンをプッシュスタートできたのか!? 今回はその続きをお伝えし全8回に渡った連載を締めるとしよう。

テキスト⚫️山田 純(YAMADA Jun) 編集⚫️近田 茂(CHIKATA Shigeru)

エイプリルフールのタイミングで公表されたヤマハ・XT-S 500「ロードボンバー」(1977年4月号に掲載)

・前回の記事を簡単に振り返っておこう。

 バイクの扱いに慣れている者(体力的に有利な男)でさえも、ロードボンバーの押しかけは、そう簡単な物ではなかった。スリムで華奢な堀ひろこさんが、500cc単気筒に押し勝ってエンジンを始動できるのか!?
 ロードボンバーの製作者である長さん(島 英彦)は、「レース中にいつ何処で止まっても一人でエンジンを掛けられなければペアライダーとしては認められない」と明言していたのである。(以上・編集部注釈)

非力なノーマルエンジンでの大健闘に誰もが驚かされた。

 鈴鹿耐久参戦が決まってからも、その準備に専念できるわけではなかった。ロードボンバー担当と言うことで、いくつかの仕事は分担されたが、通常の編集業務は平行して普通に仕事をこなしていく必要があったからだ。
 しかし、逆に好都合な良い面もあった。モト・ライダーでは主力企画として、いつも数台を集めた比較テストを行っていた。それは谷田部の日本自動車研究所、筑波サーキット、そしてツーリングの3本をこなして徹底的に走り回っていたからだ。つまり筑波サーキットで占有走行できる機会に恵まれていた。
 
 記憶が定かではないのだが、その時も400ccか750ccだったかの4、5台を筑波サーキットに持ち込んでいた。そのテストライダーの中にゲストとしてひろ子(堀ひろ子)もいた。
 私は、ロードボンバーのテストに専念していたが、1台しかない貴重なバイクだから、抑えて走っていた。それでも、1分14秒くらのラップタイムは簡単に出た。エンジンはXT500 そのもの。完全なノーマルである。優れた操縦性が発揮できるそのポテンシャルの高さに改めて驚かされてしまった。
 
 ほかの企画の撮影も一段落したみたいだったので、ひろ子に「ちょっとこれ(ロードボンバー)乗ってみる?」と聞くと、「えっ、いいの? 乗る乗る」(笑)ときた。
 マルチ・エンジンのバイクとは異なるビッグシングルのシフトタイミングやエンジン特性に最初は戸惑っていたが、すぐに気持ち良さそうに走れるようになり、ピットに戻ってくると、「ヘェーッ、面白いねコレ!」と嬉しそう。
 
 それなら、と僕が「ひろ子、コレ押掛けでエンジン掛けられる?」と聞くと、「何かコツあるの?」と聞いてきたので、「普通のバイクより倍くらい押してから飛び乗りながらクラッチミートしないと掛からないよ」とアドバイス。
 「フーンッ、そうなの?」とかいいながら僕からロードボンバーを受け取ると、いとも簡単に押し掛けでエンジンを掛けて走って行った。長さんが、「やるね、あの子」とびっくりした顔をして、これなら乗せてもいいよ、とうなづいていた。
 
 舞台は変わって鈴鹿サーキット。復活の鈴鹿6時間耐久レース開催の地である。とても暑かった事を覚えている。鈴鹿(サーキット)は、ホームストレートが第1コーナーに向かって、思いのほかに下っている。だから、ピットとその裏側の歩行スペースには、段差が連なるほどだった。
 
 ひろ子は誰に言われたわけでもないのに、そのピット裏のパドッスペースで、下り坂になっている1コーナーに向かってではなく、登り坂になる最終コーナー側に向かって、黙々と押し掛けの練習をしていた。やらなくちゃいけないことを、きちんと理解していたのだ。

 耐久レース(6時間だが)の本番でロードボンバーは、何のトラブルもなく、淡々と進んでいく。僕らのペースは決して速くはない。直線では大きなマシンに先行されてしまうが、コーナーでは多くの相手を抜き去ることができ、ひろ子もいいペースで順調に走っていく。
 
 当時は、ピット裏のパドックにエアコンの効いた部屋などない。ピットの端に子供用のプールを置き、水を張って走り終わると革ツナギを脱いで飛び込み、ほてりきった体を休める。
 女性のひろ子は、流石にそんなことはできず、走行が終わるとトランポのバンのクーラーを効かせて涼んでいた。これでは疲れは取れないはずだが、弱音は一切吐かなかった。
 
 そして、我々とロードボンバーは、6時間を無事走り終え、総合18位に入ることに成功。非力で転けられない制約の中、その成績は十分賞賛されるものだった。女性ライダーの参戦で敢闘賞の栄誉にも輝いた。
 
 もちろん、誌面を飾る写真は山ほど撮影、記事のネタもあふれんばかりあったから、創刊したばかりのバイク雑誌としては大きな成果だったといえる。(書き手:山田 純)

連載を振り返えって、編集部より。

1978年の鈴鹿8耐で好成績をおさめた「シマ498ロードボンバー」
 エイプリルフールの時期になると今も思い出されるロードボンバー登場のインパクトは実に大きなものだった。ライトウエイトなビッグシングル・スポーツの提案は、ブームを駆け上り出したバイク市場と業界に貴重な一石を投じたのである。
 
 余談ながらロードボンバーには続きがある。翌年の鈴鹿8時間耐久には、競技用にチューニングされて黒塗りに変身した「シマ498ロードボンバー」で参戦。石井康夫/山田純ペアのライディングで総合8位、プロト・クラス6位と言う見事な結果を残した。おおかたの予想を超える好成績に、業界は再び騒然となったのである。
 
 改めて、モト・ライダー創刊時の編集会議で立案された企画と、それに応えて見事な「ロードボンバー」を創り上げてくれた「島 英彦」氏、そして諦める事なく企画を遂行した鈴木脩巳編集長の功績は実に偉大なものだった。関係者はもちろんの事、誌面を通して話題を共有した大勢のファンは、今でもエイプリルフールと共に、あの黄色い「ロードボンバー」を思い起こしてくれる事だろう。

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