【自動車ブランドエンブレム秘話02:アウディ】4つの輪が語る物語

4つの輪が語るアウディ “フォーシルバーリングス” 誕生のドラマ 【自動車ブランドエンブレム秘話02:アウディ】

1932年に誕生した「アウト ウニオン」の "フォーシルバーリングス" 。その歴史的背景とは?
1932年に誕生した「アウト ウニオン」の “フォーシルバーリングス” 。その歴史的背景とは?
アウディといえば、4つの輪を横に並べたエンブレムが思い浮かぶだろう。それぞれのリングが、前身となった会社を表すことも自動車ファンには知られている。今回は、その4社を取り上げて “フォーシルバーリングス” 誕生の物語を紹介する。

ホルヒ氏の高品質な自動車への野心

アウディの起源はアウグスト・ホルヒ氏が設立したホルヒ社に遡る。
アウディの起源はアウグスト・ホルヒ氏が設立したホルヒ社に遡る。

ホルヒ社の創立者、アウグスト・ホルヒ氏は、フランクフルトからクルマで北西に1時間半ほどの所にあるヴィニンゲン(Winningen an der Mosel)の町で生まれた。もともと鍛冶屋だったホルヒ氏だが、1890年にエンジニアリングの学位を取得。自伝には、「何が何でも、ファーストクラスの素材で高品質な大型自動車だけをつくると心に決めた」とある。

同氏はマインハイムにあったカール・ベンツ氏の会社で生産部門のマネージャーを務めた後、1899年に独立し11月には「ホルヒ&チエ」社(A. Horch & Cie.)をケルンで創業。馬小屋を改造したワークショップでエンジンの開発をはじめた。

ホルヒ社との決別とアウディの誕生

2気筒エンジンの最高出力は4~5馬力ほどだったと言われている。
Horch No. 1に搭載された2気筒エンジンの最高出力は4~5馬力ほどだったと言われている。

翌年12月には早くも「Horch No. 1」を誕生させたが、事業としては失敗に終わった。さらなる開発のために投資を募る目的で、1902年にザクセン州へ移転し1904年には株式会社化した。この戦略が功を奏して販売台数が急速に増えると、ホルヒはモータースポーツにも参入して知名度を上げた。

事業は順調だったが、やがて取締役会とホルヒの間で経営方針に関する意見が対立。1909年に職を辞すると、「Horch」のラテン語訳を冠した新しい会社を立ち上げる。これが「Audiwerke」(アウディ ヴェルケ:Werkeはドイツ語で工場などの意)の誕生だ。1914年には株式会社化されて「Audiwerke AG」となる(「AG(アーゲー)」は「Aktiengesellschaft」の略で「株式会社」を意味する)。

アウトウニオンの誕生とフォーシルバーリングスの意味

4つの輪はアウディとホルヒ、DKW、Wandererの4社を象徴している。
4つの輪はアウディとホルヒ、DKW、Wandererの4社を象徴している。

アウグスト・ホルヒが設立した2つの会社「ホルヒ」と「アウディ」が再び運命を共にするのは1932年のこと。1929年に始まった世界大恐慌の影響でドイツ経済も悪化。ザクセン州立銀行の主導でアウディとホルヒが合併する。同じザクセン州にあったDKW(※1)とヴァンダラー(※2)も合流し「アウトウニオン(Auto Union) AG」が誕生した。

この時に生まれたのが、今日まで続くアウディのエンブレム「フォーシルバーリングス」である。それぞれの輪がアウトウニオンを構成した4つの会社を表している。リングの一部が重なっているのは、「決して離れることのない団結」を意味する。

4つのブランドがドイツ第2位の自動車メーカーを構成

1936年型の「ホルヒ 853」。
1936年型の「ホルヒ 853」。

それぞれの社名はアウトウニオンのブランドとして残り、DKWはオートバイと小型車、ヴァンダラーは中型自動車の製造を行った。高級車部門はホルヒがトップエンドの大型モデルを担い、アウディは中型車を受け持った。

ホルヒは高級車ブランドとしての地位を確立。ドイツの量産車として初めて8気筒エンジンを搭載した「ホルヒ8 タイプ303」や、12気筒エンジン搭載の「ホルヒ 670」(1931年発売)など、革新的な高級車を生み出している。

敗戦による解体から復活

戦後初、「アウトウニオン アウディ」がオフラインする。
戦後初、「アウトウニオン アウディ」がオフラインする。

アウトウニオンAGは第二次世界大戦後に解体されたが、1949年には「アウトウニオンGmbH」として復活する。インゴルシュタットでDKWブランドのバイク製造と乗用車開発を再開するが、DKWの2ストロークエンジンでは時代の流れに乗れず業績が低迷。1958年にダイムラー・ベンツAGの子会社となった。

ダイムラーの技術を基に、アウトウニオンは起死回生を図る。1965年に同社初の4ストローク4気筒エンジンを搭載したニューモデルが誕生。DKWのイメージを払拭するため、期待のクルマには別のブランド名が採用された。これが「アウディ72」である。

ピエヒ博士によるアウディブランドの確立へ

1985年に登場した「アウディ スポーツ クワトロ S1」。
1985年に登場した「アウディ スポーツ クワトロ S1」。

この年、アウトウニオンはフォルクスワーゲン(VW)の傘下に入る。1969年にはVWが買収したNSU(※3)と統合し、社名は「アウディNSUアウトウニオンAG」となる。1974年からはフェルディナンド・ピエヒ博士(※4)指揮のもと、5気筒エンジンやターボチャージャー、「クワトロ」全輪駆動などの導入でアウディのブランド価値が高まった。

1985年にはブランディングや販売などの体制刷新が行われた。その時に社名も「アウディAG」に改められ今日に至る。1932年に生まれ、一度は解体されながらも復活した「アウトウニオン」だったが、この時、その名前は完全に消滅。なお、ホルヒは現在、中国市場で「アウディA8」の最上級グレードにその名が残っている。

今日まで息づく創業者ホルヒ氏の精神

“Vorsprung durch Technik” のコピーが使用されたロータリーエンジンを搭載したセダン「NSU Ro 80」が
“Vorsprung durch Technik” のコピーがプロモーションに使用された「NSU Ro 80」。ロータリーエンジンを搭載したセダンだ。

アウディといえば “Vorsprung durch Technik”(技術による先進)のキャッチコピーが有名だ。もともとはロータリーエンジン搭載車「NSU Ro 80」の宣伝などに使われたフレーズだが、今日ではアウディのブランドバリューを表現している。先進性を追求するこの姿勢は、実はNSUの統合よりも遥か昔、生みの親であるアウグスト・ホルヒ氏のパイオニア精神にまで遡るののかもしれない。

※1 DKW:Dampfkraftwagen (蒸気自動車)の略
1902年に設立された「Rasmussen & Ernst (ラスムッセン&アーンスト)」社が起源。発電所用の蒸気油分離機やクルマ用のライトなどをつくっていたが、1916年から蒸気自動車の開発を始めた。1919年には玩具用の2ストロークエンジンを製造。1922年からはオートバイの製造販売に参入した。

※2 ヴァンダラー:Wanderer
1885年創立の自転車修理会社が起源。ヴァンダラーブランドで自転車製造を始めると、1902年にはオートバイ、1913年には自動車の生産を始めた。

※3 NSU:Neckarsulmer Strickmaschinenfabrik (ネッカーズルムの織機工場)の略
ニットの織機メーカーとしてネッカーズルムの街で創立。1800年代後半からオートバイの製造を行い、その後、自動車にも進出。世界大恐慌の際に四輪部門をフィアットに売却するが、1950年代に自動車製造を再開。1964年にヴァンケル(ロータリー)エンジンを搭載した「バンケル スパイダー」を発売。1967年には中型セダンの「Ro80 (ローエイティ)」の製造・販売も開始した。

※4 フェルディナンド・ピエヒ博士:フェルディナント・ポルシェ博士の孫で、ポルシェのテクニカルディレクターを経て1972年にアウディNSUアウトウニオンAGに移籍。1975年から1988年までAUDI AGの技術開発部門のトップ、1992年まで取締役会会長を務めた。

PHOTO/AUDI AG

ひと目で「ポルシェ」と分かるエンブレムだが、そのデザインには歴史に基づいた深い想いが込められている。

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著者プロフィール

石川 徹 近影

石川 徹

PRエージェンシーやエンジニアリング会社、自動車メーカー広報部を経てフリーランスに。”文系目線”でモビ…