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聞くプロ、聞かれるプロ
こういう仕事をしているとインタビューをする機会が結構あって、場数を踏んでいくうちにだんだんと慣れてはくるものだけれど、お相手が自動車メーカーのトップともなれば、話はちょっと違ってくる。こっちが(僭越ながら)インタビューをするプロならば、向こうは(間違いなく)インタビューをされるプロだからだ。
勉強不足はすぐにバレるし、ありきたりの質問だと退屈そうな顔をされるし、NGの事案をうっかり持ち出してしまった暁には、逆鱗に触れるかインタビューはそこでジ・エンドとなり、今後2度と応じてもらえなくなるだろう。だからこちらとしては予習はもちろん、万難を排して挑まなくてはならない。
「ポートレートの写真だけなら、手持ちのカメラ1台だけでいいっすよね」と同行してくれるカメラマンにインタビューの前日に確認されたとき、「いや、ストロボとかライトとか傘とかレフ板とかフル装備にして」と頼んだ。なんとなく、こっちのやる気というか真剣度というか気構えみたいなものを、カメラ機材でもアピールしておいたほうがいいのではないかと思ったからだ。
とりあえず、まさしく付け焼き刃の予習はしたしテープレコーダー(2台)の作動確認もしたし、ホテルに借りたアイロンでスーツのシワも取ったし、あとできることといったら「(カメラ機材で)はったりをかます」くらいしか思い付かなかったのである。
ものづくりの現場を束ねた頭脳派トップ
「いちおうドアには私のネームプレートがついていますけど、ここにいるのは年に数日です」と、会社の自室でのインタビューに応じてくださったのはユルゲン・フベルト氏。1999年当時、メルセデスは簡単に言えば設計開発/商品企画部門と営業/マーケティング部門のふたつに会社組織を分けており、それぞれに統括責任者を置くツートップ体制を敷いていた。
その設計開発/商品企画部門を率いていていたのがフベルト氏である。ちなみに、営業/マーケティング部門のボスはディーター・ツェッチェ氏で、のちにフベルト氏はメルセデス・ベンツ乗用車部門統括責任者、ツェッチェ氏はクライスラー部門最高経営責任者となり、ツェッチェ氏は2019年までダイムラーAGのCEOを務めた。
フベルト氏は銀縁のメガネを愛用していて、見た目にはちょっとクールで冗談など通じないような雰囲気を持っていた。笑顔を見せても目は笑っていないタイプである。インタビュー前半は、彼も自分もお互いに相手の出方を探るようなやりとりが続いた。印象的だったのは、こちらのどんな質問に対しても考えたりする間もなくほぼ即答で、その内容も極めて論理的かつ具体的だったこと。
こういう返答だと、インタビューする側としてはそれ以上その質問を膨らませることができないので、次の質問へいくしかない。多めに用意していた質問は見る見るうちに少なくなっていき、内心かなり追い込まれてきた。ところがインタビューが終盤に差し掛かったあたりから、彼の返答に変化が見られるようになる。これまでは会社のトップとしての発言のみだったのに、「でも個人的には」と私見を交えてくれるようになってきた。
イチか、バチか
インタビューする側としてみれば、これは絶好のチャンスである。わずかながらでも、フベルト氏が心を開いてくれたサインだからだ。でもここで調子に乗ってセンシティブな質問を放り込むと、途端にレッドカードをくらって即退場という場合もある。
同席していた本社広報マンが腕時計に目を落とす頻度が増えてきた。もうあまり時間もない。イチかバチか、1番聞きたかった質問を投げてみることにした。1999年といえば、前年にメルセデスがクライスラーと合併した直後だった。「世紀の合併」とも言われた背景についてさまざまな憶測が飛び交っていたけれど、本当の理由が知りたかったのである。
「どうしてクライスラーとの合併に踏み切ったのですか」
彼は一瞬上を向き、初めて間を置いた。そしてゆっくりと話し始めた。
「正直に言うと、あの時クライスラーと合併していなかったら、メルセデス・ベンツというブランドは消滅していたかもしれなかったのです。いくつかの企業が、メルセデスの買収を企てていることは知っていました。それを阻止するには、会社を巨大化するしかなかった。ドイツとアメリカの文化や慣習の違いは大きいので、将来的にうまくやっていけるのかどうか不安があったのも事実です。でもメルセデスを存続させるためにはそれしかなかった」
ここまであからさまで生々しい答えはまったく期待していなかったので自分は面食らったのだけれど、広報マンも同じような表情を浮かべていた。そして「いまの発言はオフレコでお願いします」と慌てたものの「いいよ大丈夫。そのまま書いてください」とフベルト氏はOKを出してくれたのである。
どうにかインタビューを終え、部屋に撮影機材を広げていると、フベルト氏が広報マンに「こういうのがプロの仕事なんだよ」と言った。「どういう意味ですか」と尋ねたら、「最近は、インタビューを受けて撮影の段になると、おもむろに鞄の中から小さいデジカメを取り出してパチッとやるメディアが多くてね。それまで散々かなり突っ込んだ質問をしてきたのに、写真はそんなに安直でいいのかって思っていたんです。やっぱり写真も手を抜かないで欲しい」とウインクした。これがフベルト氏との記念すべき最初のインタビューだった。
客を愛し、スポーツカーを愛した
それからというもの、フベルト氏は事あるごとに自分に目を掛けてくださった。試乗会やパーティでの会食ではよく彼の隣の席に座らせていただいたし、モーターショーの会場では遠くからでも自分のことを見つけると、それがたとえ囲みのインタビューの最中でも他の記者をかきわけて「シンタロー!」と向こうから歩み寄ってくださることさえもあった。
何回か思い出せないくらいたくさんの彼へのインタビューの中には、こっちがちょっと図に乗って「シンタローはいつも答えにくい質問を用意してるな(笑)」と苦笑いされたこともあった。それでもフベルト氏はいつも必ず真摯に答えてくれた。
AMGのS65の試乗会で「ガソリンをごくごく飲みながら1000Nmも出すクルマを、これからは燃料電池自動車の時代ですって言ってるメーカーが売ってもいいんですかね」と尋ねたら「本音を言えば矛盾していると思いますよ。でもね、S65が欲しい人もいれば燃料電池自動車が欲しい人もいて、どっちもメルセデスのお客様なんです。お客様の期待に応える商品を提供するのがメーカーの役目だとしたら、どっちかひとつだけというのはあり得ない。でもS65はほんとにエキサイティングなクルマですよ(笑)」と親指を立てた。彼は無類のモータースポーツ好きでもあり、メルセデスのF1やル・マン参戦の後押しをした張本人でもあった。
もしもメルセデス・ベンツが人間だったら
モーターショーでのメーカー首脳陣は、インタビューのスケジュールが15分とか30分刻みで朝から晩までみっちり入っている。そのスロットのひとつに自分もよく組み込んでもらった。部屋に入ってきた彼は「あーシンタローか」と言い、「ちょっと待ってて」とミネラルウォーターを一気に飲み干してひと息つき、「今日も朝からずっと同じ質問に答えてるよ。なのでここではそれ以外の質問にしか答えません(笑)」と本音とジョークが半々の挨拶をもらったこともあった。
そして彼はいつもそうなのだけれど、終了時刻の1分前に退出できるようにインタビューを締める。そうすれば、次のインタビューは約束通りの時間に始められるからだ。ショー会場でのインタビューは時間が押すことが常態化している中で、彼はとても律儀であり、時間もインタビュー内容もきわめて正確だった。
フベルト氏は「ミスター・メルセデス」と呼ばれていたけれど、もしメルセデスを人間にしたら、きっと彼みたいになるだろうと思う。無駄がなくきちんと確実に仕事をこなし、慣れてくるとジワジワと温かみを感じるようになる。彼もメルセデスもどことなく似ているのである。
たいていのお願いはしてきたつもりだけれど、ひとつだけ遠慮したことがあった。それは彼との2ショット写真の撮影。いまとなってはそれがなんとも悔やまれる。2021年1月12日、81歳のユルゲン・フベルト氏はこっちに2度と帰らぬ人となってしまった。「1番好きなメルセデスは?」という質問に、「300SL!」とやっぱり即答した彼。あっちで300SLのドライビングを楽しんでいることを心から祈っています。
REPORT/渡辺慎太郎(Shintaro WATANABE)
投稿 ミスター・メルセデスは永遠に不滅です。追悼、ユルゲン・フベルト氏 【渡辺慎太郎の独り言】 は GENROQ Web(ゲンロク ウェブ) に最初に表示されました。