歴史から紐解くブランドの本質【アルファロメオ編】

アルファロメオが雰囲気あるスポーツカーとなった転機【歴史に見るブランドの本質 Vol.14】

1967年型33ストラダーレ
1967年型33ストラダーレ
自動車メーカーは単に商品を売るだけではなく、その歴史やブランドをクルマに載せて売っている。しかし、イメージを確固たるものにする道のりは決して容易ではない。本連載では各メーカーの歴史から、そのブランドを考察する。

ロンバルダ自動車製造会社

1925年型P2グランプレミオ。
1925年型P2グランプレミオ。

アルファロメオ。非常にロマンティックな響きを持つ名前だが、その名の前半分であるアルファとは1909年にミラノの資産家によって設立された「ロンバルダ自動車製造会社」を略したALFAである。トリノのフィアットに対抗してミラノの資本家達が設立したものだが、その母体となったのはフランスの自動車会社ダラックがミラノに設立したイタリア工場だった。

第1次世界大戦中の1915年にALFAは採掘機械で財をなしたニコラ・ロメオに買収され、アルファロメオとなったのだ。こういう背景を考えると、あまりロマンティックな成り立ちの会社ではない。

ALFAは名声を得るために設立間もない頃からレースに参戦していたが、ニコラ・ロメオもモータースポーツへの関心が高く、第1次世界大戦が終わると積極的にレースに参加した。そのドライバーのひとりにエンツォ・フェラーリがいた。フェラーリはアルファロメオの性能を高めるべく、1923年にフィアットから若いながらも頭角を現していたエンジニアであるヴィットリオ・ヤーノの引き抜きに成功する。

世界恐慌を経て1933年に国有化

アルファロメオはヤーノにグランプリレース用レーシングカーの開発に集中させる。そして生まれたマシンが歴史に名を残すことになる名車、P2である。P2はデビュー戦で勝利を飾り、その後グランプリで14勝、タルガフローリオでも勝利を飾る。ヤーノはその後も6C 1750や8C 2300、8C 2900といった戦前のアルファロメオを代表する高性能スポーツカーも産みだした。

しかし高価な高性能車中心のラインナップだったため、世界恐慌で経営が立ちゆかなくなり、1933年に国有化の憂き目に遭ってしまう。

第2次世界大戦で工場は壊滅的な打撃を受け、敗戦国となったイタリアでは小型の大衆車が求められていた。国有企業であったアルファロメオはイタリア復興のために小型車中心の生産にシフトしたのである。1950年、その魁となる1900が登場する。小型大衆車とはいえ、そのエンジンには当時はまだ大衆車に採用されることはほとんどなかったDOHCエンジンが搭載されていた。

ロメオとジュリエッタ

現在に至るアルファロメオのイメージを形成するきっかけとなったのが1954年に生まれたジュリエッタである。1300ccの小型車であったが、1900同様DOHCエンジンを搭載していた。ネーミングの由来は「ロメオとジュリエット」(イタリア語でジュリエットはジュリエッタとなる)であり、極めてロマンティックなネーミングであった。

1962年にはジュリエッタの後継モデルとしてジュリアが登場する。ジュリアはDOHCエンジンを踏襲するだけでなく5速トランスミッションを備え、グレードによっては4輪ディスクブレーキも装備するなど、当時の最先端の技術が投入されていた。1963年に追加されたジウジアーロデザインによるスプリントGTは流麗なスタイリングで1960年~1970年代前半を代表するスポーツカーとなった。

スプリントGTはその後2000GTVにまで発展しつつ1977年まで生産された。日本においても伊藤忠オートが当時としてはまとまった台数を輸入し、現在の日本におけるアルファロメオイメージの礎はこのスプリントGTから始まるジュリア系クーペにあるといって良いだろう。

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著者プロフィール

山崎 明 近影

山崎 明

1960年、東京・新橋生まれ。1984年慶應義塾大学経済学部卒業、同年電通入社。1989年スイスIMD MBA修了。…