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アルファロメオの隠れた名車アルファスッドとは?
『さいたまイタフラミーティング2023』の会場を散策していると、1台のアルファロメオ製コンパクトカーが目についた。そのクルマの名は「アルファスッド」。スッドとはイタリア語で「南」を意味する言葉だ。
このクルマの生産はアルファロメオがイタリア産業復興公社(Istituto per la Ricostruzione Industriale:IRI)傘下、つまりは国営企業だった頃の1971年に始まった。当時、イタリアでは南北の経済格差が大きな政治問題となっており、IRIはイタリア南部の雇用創出と経済発展のため、アルファロメオに対してナポリ近郊のポミリアーノ・ダルコ工場を再整備して小型大衆車の生産を命じたのだ。
アルファロメオは創業以来、イタリア北部のミラノで自動車を生産しており、多額な投資をしてまでイタリア南部でクルマを作ることは決して本意ではなかっただろう。だが、国営企業である以上、お上の意向には逆らえない。了承する以外に彼らに選択肢はなかった。
こうしてナポリで生産されることになったアルファスッドは、それまでのアルファロメオの系譜とは異なるFWD小型大衆車として生産されることが決まった。設計・開発の指揮を執ったのはオーストリア人エンジニアのルドルフ・ルスカ氏で、美しいスタイリングと巧みな空間デザインによる実用性を両立させることに定評のあったジョルジェット・ジウジアーロ氏がスタイリングを担当している。
アルファスッドは控えめに言っても素晴らしいクルマであった。アルファロメオらしく走りには妥協することなく、比較的安価な小型車だったにも関わらず、低重心の水平対向エンジンやフロントをインボード配置とした4輪ディスクブレーキの採用などの高度なメカニズムが奢られており、シャープなハンドリング、優れた運動性、広い居住空間とトランクルーム、大衆車らしい経済性、機能美を感じさせる清廉なスタイリングなどの美点を多く持ち、登場時は市場から喝采を持って受け入れられた。その結果、生産が終了する1983年(スポーツモデルのスプリントのみ1989年)までに100万台以上がラインオフしている。
アルファスッドの唯一にして最大の弱点……それは錆によるボディの腐食!
しかしながら、そんな商業的にも成功した傑作と評しておかしくはないクルマでありながら、今日の旧車イベントでその姿を見かけることは極めて稀だ。その理由は数々の美点を打ち消しにする唯一にして最大最悪の欠点をこのクルマが孕んでいたことに他ならない。
その欠点とはズバリ「錆」である。昔からイタリア車の鋼板はお世辞にも質が高いとは言えないが、アルファスッドの場合は、当時イタリアで相次いでいた労働争議により鋼鉄の生産が不足したことからソ連(ソビエト連邦、現・ロシア)製の質の低い車両鋼板を輸入して使用したことで輪をかけて酷いものになった。しかも、トリノ工場の労働意欲の低い工員と杜撰な生産体制(海に近い工場でありながら在庫の鋼板は野外に放置された)に加えボディの防錆処理も不充分で、ラインオフから数年も経たずしてアルファスッドの車体が錆に蝕まれたのだ。腐食に弱いとされるイタリア車の中でもアルファスッドのそれはまさしく“段違い”のレベルで、ボディが「錆びる」のではなく「溶ける」と言わしめたほどだった。
ミーティング会場で見かけた初期型のアルファスッドは、オーナー曰く「近年欧州から並行輸入した個体」とのことでボディのコンディションは抜群に良かったが(おそらくは以前のオーナーがレストアをしたか、何らかの防錆処理を施していたに違いない)、これは例外中の例外であると言える。ボディが激しく腐食し、車体強度が失われて安全性に問題が生じた個体から惜しげなくスクラップにされて行き、現在では五体満足な車両(とくに初期型)は本当に珍しくなっているのだ。
そんなクオリティではさしもの理想的な設計も美しいスタイリングもすべてが台無しになってしまう。本来なら歴史に残る名車となるハズだったアルファスッドは、現在では人々の記憶から半ば忘れ去られた存在となっており、ときには「レモンカー」と揶揄されるなど、その評価はあまり捗々しいものとは言えない。1980年に登場した後期型では錆の問題もある程度解決しているが、もう少し品質がまともなら……と思うと返す返す残念でならない。
アルファスッドがスバル1000を参考に作られたという説……その真偽は?
もうひとつアルファスッドの評価を微妙にしているのが、百瀬晋六氏が設計したスバル1000の設計を参考に作られたという説だ。実は世界的にはほとんど聞かれない噂なのだが、わが国ではアルファスッドが現役であった当時から、まことしやかに囁かれてきた。
たしかに、エンジンとトランスミッションを横一列に配置したジアコーサ式のFWDが等速ジョイントの信頼性の問題から普及する以前、1960年代中頃から1970年代中頃にかけては、水平対向4気筒エンジンを用いたFWDこそが「小型車の理想的な設計」とされた時期があった。低重心かつシンメトリカルなパワートレインを採用したFWD車は、不快な振動が少なく、走行安定性に優れ、ドライブシャフトを通すトンネルがないことで広い車内空間とトランクルームを実現しており、合理的な設計は車体の軽量化にも繋がることから、当時としては大変優れたパッケージングと言えた。
その嚆矢となったのが、1966年に発売さた日本のスバル1000だった。その4年遅れでシトロエンGSが、さらに5年遅れてアルファスッドが同様のメカニズムを提げて登場している。この3台のうちシトロエンGSは水平対向エンジンを採用してはいたが空冷であり、さらに言えば、2気筒ながら水平対向エンジンを搭載車したFWD車の2CVという存在がすでにあったことと、ハイドロ・サスペンションなどの独自メカニズムを持つことから類似性を指摘する声はほとんどない。
しかし、問題はアルファスッドのほうで、スバル1000の登場後に開発プロジェクトが始動したことと、それまで後輪駆動しか持たなかったアルファロメオがまったく系譜の異なる設計やメカニズムのクルマとして開発したこと、さらに両車の基本設計があまりにも酷似していたことが、「参考にした」との疑惑を招く結果となったのだろう。
当時の欧州ではFWDはまだまだマイナーな存在であり、ミニに代表される英国車の一部とシトロエンがFWDの存在感を示すに留まっていたに過ぎなかった。そうした状況にあって「コンベンショナルなFRレイアウトにこだわりを見せていたアルファロメオがなぜFWD車を?」という疑念を持つことは無理からぬことかもしれない。
そんなことからわが国のクルマ好きの間では「アルファスッドはスバル1000を参考に開発された」との都市伝説がまことしやかに囁かれるようになったのではないだろうか。
その説の出どころは……巨匠・徳大寺有恒氏!?
この話の出どころを辿って行くと、2014年に亡くなった自動車評論家の徳大寺有恒氏へと行き着く。1976年に刊行された『間違いだらけのクルマ選び』を筆頭に、たびたび自著で「アルファスッドはスバル1000を参考に開発された」ことを指摘している。
その根拠として徳大寺氏が挙げていたのは「アルファスッドの発表前にミラノのテストコースを訪れたところ、何台ものスバル1000が並んでいるこの目で見た」という自身の体験談であった。わが国のモータージャーナリズムの第一人者だった徳大寺氏が車種を見間違えるとはとても考えられず、状況証拠としてはたしかに有力な証言と言えるかもしれない。
徳大寺氏が同地を訪れた時代は、まだまだ日本は自動車後進国であり、大手メーカーでも恥ずかしげなく外国の技術やスタイリングを模倣していた時代だ。そんなときに現れたのが世界水準をも超える設計のスバル1000であった。この当時、欧州ではスバルはまったくの無名な存在で輸出もほとんどされていなかった。それが思いがけず名門・アルファロメオのテストコースで見かけたとしたら、それはどれほど感慨深いものだっただろうか? 「参考にした」とした徳大寺氏の原稿からはネガティブな印象はまったく受けず、「東洋の島国のクルマが欧州の名門メーカーに認められた」という、日本人としての誇りと喜びを感じさせるのはそのためなのだろう。
矢吹明紀氏による両車の比較検証とルスカへのインタビュー
この説については『J’s Tipo』2002年4月号(ネコ・パブリッシング刊/2010年1月休刊)にて、モータージャーナリストの矢吹明紀氏が、実際にスバル1000とアルファスッドを並べて比較検証した上で考察をしている。記事の中で矢吹氏は両車が酷似していることを認めつつ、開発に当たったルドルフ・ルスカ氏が、かつてポルシェでエンジニアを務めていたことを指摘し、「自身の経験からまず水平対向エンジンを選び、将来性が見込まれるFWDを採用したのではないか」(要約)との自説を述べている。「アルファスッドはスバル1000を参考に開発された」との説に対しては「スッド開発陣がスバル1000の存在を知らなかったとは思わないが、これまで世間で噂されたほどの直接的な関係性がないというのが事実だろう」(要約)と結論づけている。
事実、1995年に刊行された『スーパーCG』No.29(二元社刊/ 2007年休刊)で行われたルスカ氏へのインタビューでは、彼はアルファスッド以前に登場したFWDレイアウトのランチア・フルヴィアとロイト・アラベラの名を挙げて「これらなどに影響されたわけではない」と述べていた。問題は“など“にスバル1000が含まれるか否かだが、この場合は含まれていると考えるのが妥当だろう。
元・日英自動車メカニックによる新証言! 両車が酷似したのは共時性から!?
ただし、ここで焦点となるのが矢吹氏も指摘しているルスカを含めたアルファスッド開発陣のスバル1000への認知である。これについては、徳大寺氏がミラノ・テストコースで見たというスバルの存在が読み解く鍵となり、筆者は数年前にひょんなところでこの件について新たな証言を得ている。
それは以前に中古のプジョーを購入した輸入車の整備・販売店でのことだった。その店の社長兼メカニックと雑談に花を咲かせていると、彼が若かりし頃にアルファロメオの販売を手掛けていた日英自動車に勤務していたときの思い出話を聞かせてくれた。話の中でたまたまスッドの名前が出たときに彼は「徳大寺さんがアルファロメオ本社で見たっていうアレね。じつはオレがイタリアに輸出手続きをしたんだよ」とだしぬけに言い出したのだ。
どういうことかと詳しく話を聞くと「昔のことなんで細かいことは忘れちゃったけど、あれはたしか……1960年代後半(筆者注:おそらくは伊藤忠自動車が撤退し、日英自動車がアルファロメオの販売を引き継いだ1968年以降だと思われる)のことだったと思う。ある日、アルファロメオの本社から『大至急、日本のスバル1000を送ってくれ』って依頼が舞い込んできたんだよ。それで富士重工の販売店に急いで注文して、納車された新車をすぐにイタリアへと輸出したんだ。その手続きを任されたのがオレでね。記憶では5~6台は送ったと思う」と彼は語ってくれた。
アルファスッドにまつわる例の説についても尋ねると「『スーパーCG』の記事はオレも読んでるよ。インタビューの中でルスカはスバル1000には触れなかった。車名を挙げて聞かれなかったから答えなかっただけで、存在を知らないってことはなかったんじゃないかな。だけど、オレがイタリアにスバルを送った時期を考えれば、アルファロメオが丸パクりしたとは考えられない。ある程度開発が進んだ段階で、スバル1000の存在を知ったんだろうね。それで試作車の比較評価用に実車が欲しかったんだと思うよ」との見解を示してくれた。
今となってはルスカを始め当時を知る関係者の多くが鬼籍に入ってしまい、あらためて真相を聞き出すことはできないが、おそらくは矢吹氏の見立て通りなのだろう。
ルスカ氏と百瀬氏。ふたりの天才が当時の技術水準で理想のベーシックカーを求めた結果、完成したのがスバル1000とアルファスッドという傑出した設計のFWD車だったというのがのが事実なのだろう。カール・G・ユング風に言うなら「共時性」ないしは「非因果的連関の原理」、つまりは「シンクロニシティ」というヤツだ。すなわち、ほぼ同時に電気を発明したトーマス・エジソンとニコラ・テスラ、電話の発明特許を数時間差で出願したグラハム・ベルとイライシャ・グレイのようなことが、多少のタイムラグがあったとは言え、当時の新車開発でも起こったということなのだろう。両車に「パクり」や「マネ」のようなことはなかったのだ、と筆者は考える。