マツダMXの原点に迫る!「MX-81」フルレストア深堀り。第二章「搭載エンジンはWRC用の試作エンジン」イタリアに向けて出発

船積みの前に、MX-30とのペアショット。
81年の東京モーターショーでデビューしたマツダMX-81。2019年まで広島のマツダ本社の倉庫で長い眠りについていたMX-81は、2020年のマツダ100周年に向けてレストア計画を開始。広島本社でとりあえず動く状態まで修復した後、生まれ故郷のイタリア・トリノに送り、フルレストアすることになった。

TEXT:千葉 匠

81年の東京モーターショーでデビューしたマツダMX-81。イタリアのベルトーネがデザイン/製作したこのコンセプトカーは、翌年春のジュネーブショーにも展示されるなどしてお役御免となった後、2019年まで広島のマツダ本社の倉庫で長い眠りについていた。

それを蘇らせることになったきっかけは、マツダブランドのアンバサダーを務める山本修弘(元NDロードスター主査)にマツダ・イタリアから届いた一通のメールだった。マツダとイタリアを結ぶ「人と人とのつながり」がMX-81に結実したことに気付いた山本は、2020年のマツダ100周年に向けてMX-81のレストア計画を始動。というのが第一章の概要だ。第二章ではいよいよ本格的なレストア作業が開始される。

マツダとイタリアの縁を振り返り、MX-81のレストアが始動する

ジェルジェット・ジウジアーロがベルトーネルーチェを離れた後も、ベルトーネルーチェとの契約を続けたマツダだったが、ルーチェ以降しばらく、マツダ車にベルトーネが関わった事例が公表されることはなかった。そこに突然のように現れたMX-81だったが、筆者にとってそれがベルトーネの作であることに驚きはなかった。1980年前後の5年余り、筆者は商用車メーカーのデザイン部署で働いていており、特許庁で特許/実用新案を調査するなかでマツダとベルトーネが共同出願した公報をいくつも目にしていたからだ。

松田恒次と宮川秀之との出会いから始まったマツダとイタリアの縁(えにし)が、20年近い時の流れを経て、MX-81としてひとつの結実を見た。それはマツダの100年に渡る轍を振り返るうえで、まさに心を震わせるテーマだ。

2020年2月、山本修弘が倉庫で確認したMX-81は、長年の保管でタイヤが大きく変形し、内装に汚れやカビがあるなどを除けば、ボディにとくに傷もない良好な状態。サイドやリヤの、曲げ加工が施された特徴的なガラスも無事だった。

乗り降りしやすくするため助手席シートは回転可能。
サイドとリヤの曲げ加工された大きなガラスは、ベルトーネのガラス成形技術を物語る。当時のベルトーネは傘下にガラスメーカーを持っていた。

「タイヤを履き替えて、淵崎地区にある試作部門の倉庫から本社地区のレストア工房に運び込んだ」と山本。倉庫とレストア工房は距離的には目と鼻の先だが、その間には川がある。キャリアカーに載せ、宇品工場まで大きく迂回して橋を渡った。

とりあえずのレストアの焦点はエンジンだった。「クランキングはできるが火が付かなかった」と山本。「点火系と燃料系をひとつずつチェックし、燃料ポンプを修復するなどして、ようやく39年ぶりにエンジンを目覚めさせることができた」。

インテリアでひときわ目を惹くのが、CRT(ブラウン管)のメーターとそれを取り巻くキャタピラ状のステアリングである。エンジンがかかれば、ステアリングのパワーアシストが効く。山本によれば、「動きに渋さはあったが機能する。渋さは分解清掃すれば解決できるレベルだった」という。

デジタルメーターの時代を先取りしたCRTメーターと、キャタピラ状のステアリングはMX-81の先進性をアピールする大きな特徴だった。

等長吸気管や水冷インタークーラーを備える1.5ℓターボ。それはWRC参戦を目指して開発した試作エンジンだった

MX-81はBD型=5代目ファミリア(80年発売の初代FF)のフロアをベースに製作されたコンセプトカーだが、搭載されたエンジンは当時まだ市販車にはない1.5ℓのターボ。しかも等長吸気管や水冷インタークーラーなど、83年発売のファミリア・ターボより高度なチューンが施されており、その最高出力は140psと、市販型ターボの115 psを大きく凌ぐ。いったいなぜこれを?

エンジンは1.5ℓターボ。カムカバーに一体化したサージタンク、EGI=電子制御式燃料噴射、等長吸気管、水冷インタークーラー、フルトランジスタ点火など、83年に発売されたファミリア・ターボのエンジンにはない先進的なスペックを持つ。

この謎のエンジンについて、マツダの広報担当者に調べてもらったところ、当時を知るエンジニアから「WRC参戦に向けて試作したエンジンだと思う」との証言を得ることができた。マツダは81年にベルギーにラリーチームを作り、翌82年から323(ファミリアの海外名)でWRCに参戦。当初は1.3ℓのNAエンジンだったが、83年は1.5ℓのNAで始まり、323ターボが発売された中盤以降は1.5ℓターボで戦った。

マツダはWRC参戦にあたって当時のトップカテゴリーのグループBではなく、改造範囲の狭いグループAを選んだ。欧州の草の根モータースポーツを支援するのが狙いだったからとされる。しかし81年時点で、もしこれをラリーカーに搭載すればグループBになる1.5ℓターボがWRCに向けて開発されていたというのは、新発見の事実だ。

「想定していたほどの性能が出ず、採用されなかったのではないか」とのことだが、当時からグループAの枠を超えてノウハウを積み重ねていたことが、87年以降の活躍につながったと言えるかもしれない。WRCがグループAで争われるようになった87年のスウェディッシュラリーで、BF型=6代目323のGTX Turbo(1.6ℓターボ4WD)が初の総合優勝。そのルーツにMX-81を位置付けると、このコンセプトカーに新たな意義が見えてきそうだ。

イタリアでのフルレストアを踏まえ、リスクを避けて吸気系や点火系を量産パーツに交換した。

そんな貴重なエンジンではあったが、MX-81を「確実に走れるようにしたい」と考えた山本は、オリジナルのスペックにはこだわらずにレストアを進めた。等長吸気管やEGI(電子制御燃料噴射)はあきらめ、BD型ターボの部品を使ってキャブレターに変更。フルトランジスタの点火系もシンプルなデスビに置き換えた。

とりあえず「動く」ところまでレストアされたMX-81

こうして2020年3月、本社敷地内で簡単な試運転を行うまでに漕ぎ着けたMX-81は、隣接する宇品港で船積み。ベルギーのアントワープ港を経て、イタリアと送られることになった。マツダイタリアの協力で、生まれ故郷であるイタリア・トリノでフルレストアが開始される。

船積みの前に、MX-30とのペアショット。MX-81は”MX”を初めて名乗ったマツダ車だった。そこから幾多の”MX”を経てMX-30に至ったというのも、マツダ100年の歩みの大事なエピソードである。

レストアを指揮したフラヴィオ・ガリッツィオの父親が、かつてベルトーネで働いていたという奇遇

2020年3月にベルギーに向けて船積みされ、そこから生まれ故郷のトリノに送られた。レストア計画の第二段階である。マツダイタリアがMX-81のフルレストアを依頼したのは、スーパースティーレという会社。2015年に設立されたまだ若いカロッツェリアだが、トリノの職人技の伝統に3Dプリンターなど最新技術を融合し、フェラーリやステランティス、BMW、GFGスタイル(ジウジアーロの現在の会社)など多くのクライアントのためにショーカーやプロトタイプを製作している。

スーパースティーレのモダンな工房。

レストア作業はフラヴィオ・ガリッツィオが指揮した。トリノ大学で経営学を学んだ彼は、父親のアリゴと共同でフラーテックという会社を設立。フラーテックが自動車メーカーなどに営業し、モデリングやプロトタイプ製作、レストアなどの実務はそれに必要な設備を備えるパートナー企業のスーパースティーレで行う。父アリゴが2017年に他界した後も、このスタイルを続けてきた。

そんなフラヴィオの営業努力によって今回のMX-81のレストアを受注したのかというと、必ずしもそうではなさそうだ。彼の父アリゴはかつてベルトーネで働いていた。山本は「マツダイタリアはそうした縁を知っていたのではないか」と話す。

80年にベルトーネを辞めたアリゴ・ガリッツィオ。MX-81との関わりは微妙だが・・

アリゴ・ガリッツィオは1966年、線図工としてベルトーネに入社した。ボディ形状を断面線で表現するのが線図で、それを引くのが線図工という職人だ。

線図の断面線を写し取って木型を作り、木型の形状に合わせて鉄板やアルミ板を電動ハンマーで叩いて成形し、出来たパネルを治具にセットして溶接。そうやってワンオフのボディを作り上げていくのが、トリノのカロッツェリアの往年の流儀だった。MX-81の作り方も同様だったことが、この写真から窺い知れる。

MX-81製作当時の記録写真。上段中央がデザイナーの線図を写し取って作った木型。その右は、叩き出したパネルを治具にセットしたところ。

実はアリゴはジウジアーロと親戚関係なのだが、ジウジアーロがベルトーネを辞めた後に入社し、後任のガンディーニを支えた。そして1979年にガンディーニがルノーとの5年間独占契約を結んでベルトーネを去ると、翌80年1月、ベルトーネの同僚だったピエランジェロ・マッフィオードと共に独立してトリノにGステュディオを設立。Gステュディオの「G」はガンディーニを意味する。自宅でスケッチや線図を描くガンディーニにとって、立体モデルやプロトタイプを作る拠点がGステュディオだった。

MX-81の開発にアリゴが関わったかどうか、いささか微妙なタイミングではある。80年代の常識として、広報写真の撮影など自動車メーカー側の準備を考えると、秋の東京モーターショーの3ヶ月前にはコンセプトカーを完成させる必要があった。MX-81の場合はそこにトリノから広島への輸送日数が加算される。船便なら1ヶ月だ。そしてデザイン開始からプロトタイプ完成までを1年半と推定すると、アリゴのベルトーネ在任中にMX-81の開発が始まっていたと言えそうだが・・。

いずれにせよ、アリゴ・ガリッツィオがベルトーネで14年に渡って働き、その息子のフラヴィオがMX-81のレストアを手掛けたというのは、たんなる偶然を超えたエピソードに違いない。ベルトーネが作ったMX-81を、その血脈を受け継ぐ人物が、39年前の姿に蘇らせたのだ。

前編で触れたように、そもそもMX-81のレストア計画は、マツダ100周年に向けて「人と人が出会い、つながって、心震わせる出来事になる。そんなエピソードを史実を辿りながら見つけたい」という山本修弘の思いからスタートした。アリゴとフラヴィオという親子関係もまた、印象的な「つながり」と言えるだろう。

最終回となる第三章では、いよいよレストア作業が完了。どのような仕上がりになっているのか、お楽しみに!

マツダMXの原点に迫る!「MX-81」フルレストア深堀り。第一章「倉庫でMX-81が『発掘』された!」

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著者プロフィール

千葉 匠 近影

千葉 匠

1954年東京生まれ。千葉大学工業意匠学科を卒業し、78〜83年は日産ディーゼル工業でトラック/バスのデザ…