少々時間が経ってしまったが、2024年10月13日に栃木県足利市の渡瀬川河川敷で開催されたヒストリックカーヘリテイジカーミーティングで、非常に珍しいクルマと遭遇した。日産が1975年に発売した2代目シルビアのことで、初代の生産が終了してから7年も経っての後継モデルだった。当初はロータリーエンジンを搭載する予定で開発されていたが、オイルショックや排出ガス規制の強化により発売を断念。ブルーバードなどに採用されていた1.8リッターの直列4気筒であるL18型へ搭載エンジンを変更して発売された。
発売された1975年頃というと世相はスポーツカーを悪と捉える傾向が強かった。2ドアクーペのみだった2代目シルビアの販売はそのため苦戦するが、ダットサン200SXの名前で輸出されたため海外、特にアメリカでは一定の台数が販売された。だが国内市場での販売台数は当初から伸び悩み、起爆剤を欠かしたまま低迷。新車登録台数が多くないうえ、中古車市場でも人気薄だったことから昭和の終わり頃には立派な希少車と呼べる存在になっていた。
ところが2代目シルビアに子供の頃から憧れ続けた人がいる。それが今回取材することになった栗山永吾さん。現在58歳で、小中学生時代にスーパーカーブームを経験した世代でもある。ところが栗山さんはイタリアン・エキゾチックカーなどに憧れたものの、近所にあった2代目シルビアに心奪われてしまう。遠い異国の美人より身近にいるキュートな存在に惹かれたのだ。
それ以来シルビア一筋で他のクルマに目移りすることはなく免許取得年齢になる。18歳で運転免許を取得すると、当然のように2代目シルビアを探し始める。当時はシルビアも4代目のS12が発売されていたため、中古車市場には3代目のS110やS12が豊富に流通していた。ところが探しても探しても納得できる状態の2代目S10に巡り合うことができず、別のクルマを所有することになってしまう。
それでも諦め切れない栗山さん。それから数年が経ち旧型車が見直されることになる。いわゆる旧車ブームが盛り上がり始めた。世の中がバブル景気に踊り出した頃で、古いクルマを扱う専門誌が複数出版されることになる。すると栗山さんの愛読書となり、隔月での刊行サイクルが長く感じられるようになる。古いクルマの魅力が伝わる誌面を楽しむのはもちろんだが、もう一つ旧車専門誌を読む目的があった。巻末に掲載される個人売買コーナーだ。
その当時はブームになりつつあったとはいえ、20年も前のクルマを正当に評価する販売店は少なく、買取に出してもロクな値段が付かなかった。そこで古いクルマを手放そうと考える人の多くが、雑誌の個人売買欄を活用したもの。だが、ここでも2代目シルビアの売り物にはなかなか巡り会えない。ようやく見つけられたのは今から30年前のことだった。すでにバブル景気は崩壊していたものの、旧車ブームが途絶えることはなく、むしろ本格化していく頃のことだ。
栗山さんは神奈川県にお住まいだが、シルビアが売りに出されたのは遠く離れた愛媛県。インターネットが普及した今と違い、当時は誌面に掲載されたモノクロ写真を頼りに先方へ電話するしか交渉手段はない。それでも栗山さんは電車を乗り継ぎ愛媛県まで遠征。こうして20年来の夢だったシルビアを手に入れることに成功した。
手に入れたのは2代目の後期型である1977年式。購入時で新車登録からすでに17年が経過していたわけで、その後何事もなく過ごせるわけもない。高速道路を走行中にラジエターホースが破れて水蒸気がモウモウと立ち込めストップしたり、なぜか走り始めて1時間ほど経過するとエンジンが止まる症状に悩まされた。さらにはラジエター自体がパンクしてしまうことまで経験。だがすでに補修部品はほとんど製造廃止になっていたため、やむなく部品取り車として現車のほかに2台も同型車を所有することになってしまう。
謎の症状は改善され10年ほど前には全塗装により化粧直しをした。今ではトラブルも出尽くし安定した状況になったものの、家族が同乗してくれることはない。以前に奥様を乗せて高速道路を走っていたらエンジンが止まってしまい、それ以来シルビアは栗山さんが1人で乗る完全な趣味グルマになってしまった。だからシルビアを走らせるのは休日だけで、今回のようなイベントに参加することを楽しまれている。とはいえ、旧車イベントで2代目シルビアを見る機会は少ないから、今回は幸運だったと感じられた。