なぜスバルに入社したのか?スバルのモータースポーツを牽引した辰己英治元総監督トークショーで明らかに!?【東京オートサロン2025】

2025年1月10日(金)〜12日(日)に幕張メッセ(千葉県)で開催された『東京オートサロン2025』。今回も多数のメーカーやショップがブースを連ねた。各出展社のブースでは、クルマやパーツなどの展示はもちろん、ステージイベントなども催され多くの来場者を集めていた。F1やスーパーGTでも使用されるエアフィルターを製造する「BMCエアフィルター」は今回がオートサロン初出展。そんなBMCフィルターブースでは、スバルのモータースポーツ活動を牽引した辰己英治元総監督がマイクを握った。
REPORT&PHOTO:MotorFan.jp

東京オートサロン2025の会期2日目となる11日(土)、北ホール11のBMCエアフィルターブースではスバルの開発者であり、STIではコンプリートカーの企画、スーパーGTやニュルブルクリンク24時間レースへの朝鮮では総監督を務めた辰己英治氏のトークショーが開催された。

トークショーの会場となったBMCエアフィルターブースだが、同社がスバルのニュルブルクリンク24時間耐久レース(NBRチャレンジ)車に採用しているのが縁となった。

司会は赤井邦彦氏。F1ファンにはおなじみのモータースポーツジャーナリストだ。

スバルに入ったのはたまたまだった?

辰己英治氏といえば初代レガシィの開発に携わり、STIではコンプリートカーの企画・開発、そしてモータースポーツではスーパーGTとニュルブルクリンク24時間レースで総監督を務めた、スバルファンにとってはまさにカリスマ的存在。その辰己氏が50余年を過ごしたスバル/STIから2024年で勇退した。

BMCブースでのトークショーで色々な話を披露した辰己氏。

トークショーでは簡単な来歴から始まったのだが、辰己氏が富士重工(現・スバル)に入社したのが1970年。特に富士重工に入りたかったわけではなく、学校の先生の勧めもあって試験を受けたら受かったので入社したというエピソードが語られた。スバルファンのカリスマにしては意外なスタートだ。

BMCエアフィルターブースでのトークショーの様子。

スバルのAWDをオールラウンダーに

そして転機となった初代レガシィの開発だが、当時のスバルの主力車種であるレオーネはパートタイムAWDで、階段は登れて荒地や雪道を走れても、とにかく曲がらず気持ちの良い走りとは無縁のクルマだった。そこからスバルのクルマを世界一にすべく初代レガシィの開発が進められるわけだが、趣味でダートトライアルなどに参戦していた辰己氏に白羽の矢が立つ。

レガシィ登場前のスバルの主力車種であった3代目レオーネ。ツーリングワゴンやAWDが一部のコアなユーザーには支持されていたが、メジャーにはなりきれなかった。

辰己氏を含む開発陣は、とにかく曲がらないAWDであるレオーネを先行開発車として、曲がる四駆、気持ちよく走るクルマを模索。当時の本部長や開発責任者も「費用がかかってもやれることは全部やれ!」という体制でレガシィの開発にあたったそうで、如何にスバルが危機意識を抱いていたかがわかる。

当時のスバルのことを語る辰己氏。曲がらないと評判のレオーネも、辰己氏がダートライアルで使用していたレオーネはちゃんと曲がったので、そのセッティングもレガシィ開発の力になっているという。

よく言われることだが、当時のスバルはヒット車が無く日本が謳歌していたバブル景気から完全に取り残され、下手すれば会社が無くなるのでは……という厳しい状況だった。だからこそ、起死回生を目指した乾坤一擲がレガシィだったのだ。

これまでのスバルの印象を一変させた初代レガシィ。その走りは「四駆は曲がらない」という常識を覆した。

とはいえお金が無いことにはかわりなく、当時各社が建設したような大きなテストコースをスバルは持っていなかったそうだ(栃木県葛生にテストコースも含む研究実験センターが完成したのは初代レガシィ発売後の1989年11月)。そのため、テスト走行にはニュルブルクリンクや谷田部(かつて存在した日本自動車研究所のテストコース)を含むクローズドコースに加え公道も使用され、あらゆる状況の実践的なセッティングで煮詰められたという。

優秀性をアピールするべく10万km速度記録に挑戦。見事新記録を達成し、発売に花を添えた。

ニュルブルクリンクでのテスト走行ではポルシェ関係者もその走りっぷりに興味津々だったとか。そういう意味では、ニュルブルクリンクでのテスト走行やその重要性に、日本メーカーとしては早くに気づいた方になる。
斯くしてレガシィはそれまでのAWDの常識を覆す”曲がる四駆”としてその走りを高く評価され、ツーリングワゴンのヒットもあってスバルの危機を救う救世主となったのは、よく知られた話である。

スバルの救世主となった初代レガシィ・ツーリングワゴン。日本自動車市場に”ワゴンブーム”を巻き起こすほどの大ヒットに。

ちなみに、Q&Aタイムでは今回のオートサロンでスバルが発表したコンプリートカー「S210」についてに質問があったが、同車は辰己氏退職前に企画されたクルマだけに、少なからず関わっていると回答があった。

スバルWRX S4をベースとしたSTIコンプリートカー「S210」初公開!500台限定で春頃に発売か!? そのチューニング内容は?【東京オートサロン2025】

2025年1月10日〜12日に掛けて開催される「東京オートサロン2025」。SUBARUのブースは“挑戦の遺伝子、日常へ”を掲げ、ニュルブルクリンク24時間耐久レース参戦車両を筆頭に、レースで培った技術をフィードバックさせた市販モデルも数多く展示されている。

WRX S4がベースで、マニュアルトランスミッションでもないことから一部のファンからはその「Sシリーズ」の資質を訝しむ声も聞かれるが、在職中に「Sシリーズ」に深く携わってきた辰己氏もが関わっていると知れば、少しは安心できるだろうか。

レースでスバルAWDの実力を証明する

2008年にスバルがWRCから撤退し、STIがそのアイデンティティが問われることになるのだが、これまでプライベートチームを支援する形だったニュルブルクリンク24時間耐久レースにワークスとして参戦を決定した。モータースポーツをやらないSTIに未来は無いと参戦を主導したのも辰己氏であり、以降、総監督として陣頭指揮を執った。

2008年のニュルブルクリンク24時間耐久レースのインプレッサWRX。(PHOTO:STI)

ヨーロッパ中の自動車メーカーが多く参戦する同レースだが、意外なことにAWD車のエントリーは極めて少ない。優れたAWDシステムである「クワトロ」を持つアウディですらスバルと同クラスで争ったアウディTTはFFだったのだ。

ニュルブルクリンク24時間耐久レースに投入されたアウディTT RS。写真は2014年のSP3Tクラス優勝車。(PHOTO:ETAS)

そもそもサーキットレースでAWD車を使用するケース自体が稀。グループAで無敵を誇ったスカイラインGT-R(R32)がその筆頭だが、それすらトルクスプリット型で通常はFR駆動であり、フルタイムAWDとなるとさらに少ない。
ニュルブルクリンク24時間レースでもフルタイムAWD車はほとんど存在せず、実質、WRXが同レースのフルタイムAWD最速というわけだ。

ニュルブルクリンク24時間耐久レース挑戦から4年目、初優勝を遂げた2011年(PHOTO:STI)

2008年からのNBRチャレンジでは、辰己氏の指揮のもとで2011年・2012年・2015年・2016年・2018年・2019年・2024年と優勝を果たし、スバルAWDの優秀さを証明することに成功したわけだ。

辰己氏が最後に指揮を執った2024年のニュルブルクリンク24時間耐久レース。見事有終の美を飾った。(PHOTO:STI)

トークショーの後にはサイン会も実施

そんな辰己氏の軌跡を1冊の本にまとめたのが『Mr.SUBARU/STI 辰己英治の軌跡』だ。同書では、NBRチャレンジだけでなく辰己氏のレースとクルマ作りの哲学などを網羅しており、辰己氏のファンはもちろん、スバルファンならずとも興味深い内容となっている。

同書についてはこちらの記事で紹介している。

トークショーの後には同書の発刊記念として辰己氏のサイン会も行われ、『Mr.SUBARU/STI 辰己英治の軌跡』にその場でサインを入れてくれるという大サービス。すでに購入済みの本を持ってきたファンも、その場で購入したファンもいただけでなく、辰己氏とニュルブルクリンクで共に戦ったメカニックマンや、同書のにも携わった自動車ライターといった業界人もサインを求め列に並んだほどだった。

サイン会の様子。
ファンが持参したニュルブルクリンク車のミニカーにも快くサインを入れる辰己氏。
辰己氏と共にニュルブルクリンクを戦った名メカニックもサインに並ぶ。

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