パンダのバンだ!『さいたまイタフラミーティング』で見つけた初代フィアット・パンダの超希少モデル!! 車名の由来は動物じゃない?

埼玉県吉見町にて、2024年11月17日(日)に開催された『さいたまイタフラミーティング2024』には、関東を中心に新旧のイタリア車とフランス車が600台も集まった。筆者はその中に初代フィアット・パンダのちょっと珍しいモデルを発見した。そのクルマは商用モデルのバン・キットを備えた「ハーフ・バン」仕様とでもいうべきパンダだ。今回は初代パンダの歴史をおさらいしつつ、この「パンダ・ハーフ・バン」とオリジナルの「パンダ・バン」について紹介する。
REPORT&PHOTO:山崎 龍(YAMAZAKI Ryu)

参加台数600台!?『さいたまイタフラミーティング』はイタリア車&フランス車だけでなくイギリス車や国産車でもOKで希少車も多数エントリー!

2024年11月17日(日)に『さいたまイタフラミーティング』が埼玉県吉見町にある吉見総合運動公園で開催された。今回で11回目を数えるこのイベントには、関東一円を中心に新旧さまざまなイタリア車とフランス車が600台以上も集まった。昨年に引き続き、今回はミーティング当日の様子をリポートする。

デ・ベネデッティの発案&ジウジアーロの設計により生まれた初代パンダ

初代フィアット・パンダ……このイタリアの傑作車については、今さら多くを語る必要はないだろう。1979年の年末に発表されたパンダは、オイルショックの余波で燃費性能に優れたコンパクトカー需要の高まりから、ウンベルト・アニェッリによりフィアット副社長に招聘されたカルロ・デ・ベネデッティの肝いりで開発された小型大衆車だ。

フィアット126、および127に代わる次世代の小型大衆車を求めていたデ・ベネデッティには明確なビジョンがあった。それは大人4人が快適に移動できる広々とした空間を持ちながらも、インテリアや装備は簡素で、合理的な設計により経済性や生産性に優れ、重量と価格は126並というものであった。

フィアット500の後継として1972~1980年(ポーランドでは2000年まで)にかけて生産されたフィアット126。
フィアット850の後継として1971~1983年にかけて生産されたフィアット127。

「そんな相反する要件を満たすクルマなど作れるものか!」。凡百の自動車設計家ならそう言って彼のオファーを断ったかもしれない。だが、デ・ベネデッティが白羽の矢を立てたのは、創業からわずか8年足らずのイタルデザインだった。ここは鬼才と呼ばれたジョルジェット・ジウジアーロが起こしたデザインスタジオだった。フィアットが基幹車種の設計を社外に委託するのは前例のないことであった。

ジョルジェット・ジウジアーロ(1938年8月7日生~)
ピエモンテ州クーネオ県ガレッシオ村の芸術一家に生まれる。14歳のときに画家を志してトリノに移り美術高校へと進むが、そのときに描いたトッポリーノの絵がダンテ・ジアコーサの目にとまり、彼の誘いを受けて高校を中退してフィアットのデザイン部門(チェントロ・スティーレ)に見習いとして入社。そこで2代目フィアット500のモックアップ制作をアシストする。1959年にイタリアのカロッツェリア・ベルトーネの総帥であったヌッチオ・ベルトーネにスカウトされ、フランコ・スカリオーネの後任となるチーフスタイリストとして迎え入れられた。そこで量産車のデザインとしては初の仕事となるゴードンGTを手がける。その後もプロトタイプを相次いで発表したほか、アルファロメオ・ジュリアスプリントGTなどを手掛け、ベルトーネに黄金期をもたらした。その後、カロッツェリア・ギアのチーフスタイリストに転身し、いすゞ117クーペを皮切りに数多くの傑作を世に送り出す。1968年に日本人実業家の宮川秀之、板金職人のアルド・マントヴァーニと共同で自身の会社であるイタルデザインを設立。1976年にフィアット副社長だったカルロ・デ・ベネデッティの依頼により、初代パンダの構想をまとめ、デザインを手掛ける。自動車に限らず、オートバイ、電車、トラクター、カメラ、家電、事務機器、食品などジャンルにこだわらず様々な工業デザインを手がける。2010~2015年にかけてイタルデザインを段階的にVWに売却したが、息子のファブリツィオとともに自動車設計分野のプロジェクト開発に特化したデザインスタジオ「GFGスタイル」を起業した。

ジウジアーロの偉大なところは、自動車の造形を脳内で正確な三面図、すなわち3D造形として構築した上で、デザインとエンジニアリングの橋渡しをしながら、製造設備の設計を含め、新車開発のコーディネートを行えるところにある。

巨匠ジウジアーロがカーデザインの本質を語る「まず、よく見ること。そして分析して、貯めておく。そうすれば”式”ができてくる」

巨匠ジョルジェット・ジウジアーロがデザインしたヒョンデ・ポニーは、いまや世界有数の自動車メーカーに成長したヒョンデにとって、非常に重要なクルマである。「幻のコンセプトカー」として、長らく行方不明だったポニー・クーペコンセプトをジウジアーロが復元した。現代に蘇ったポニー・クーペコンセプトのお披露目の場で、ジョルジェット・ジウジアーロ氏にインタビューする機会を得た。さて、マエストロはなにを語ったか。

しかも、イタルデザインには彼の稀有な能力を活かすべく、製造部門をも擁していたのだ。これが自動車メーカーがエンジニアリング部分を作りあげ、そこに合ったボディのデザインを提案することしかできない凡百のデザイナーとの違いだ。すなわち、彼こそが真の意味での“カーデザイナー”であり、ほかの大多数は“カースタイリスト”ということだ。

ダンテ・ジアコーサが手掛けたヌォーバ・チンクェチェント。若干17歳でフィアット・チェントロ・スティーレ(フィアット・デザイン・センター)に入社したジウジアーロは、このクルマのモックアップ製作においてジアコーサの助手を務めた。

この彼の稀有な才能は、少年期にダンテ・ジアコーサの推薦でフィアット・チェントロ・スティーレ(フィアット社デザイン部門)に入社し、ヌォーバ・チンクェチェント(2代目フィアット500)のモックアップ製作を手伝った際に、ジアコーサの仕事ぶりをつぶさに観察して自家薬籠中のものとした結果であった。すなわち、徒弟制度が色濃く残る当時のイタリア社会において、ジウジアーロはジアコーサの薫陶を受けた直弟子ということになる。

バカンス返上で初代パンダの構想とデザイン案をまとめたジウジアーロ

ジウジアーロがデ・ベネデッティから仕事のオファーを受けたのは1976年8月頭のことだった。バカンスシーズンの真っ只中ということもあり、イタリア人の例に漏れず彼もまた地中海に浮かぶサルデーニャ島にある別荘で静養中だったという。そんな休暇中のもとにフィアット副社長から1本の電話がかかってきた。彼は休暇を理由に仕事を断ったが、何度もしつこく電話がかかってきたそうで、ついに根負けして仕事を引き受けることにしたそうだ。

初代パンダの「セリエ1」と呼ばれる前期型の「パンダ45」。前期型のパンダにはフィアット126の652cc空冷直列2気筒OHVを積む「パンダ30」と、127の903cc水冷直列4気筒OHV積む「パンダ45」の2種類が用意された。両モデルの見分け方は、フロントグリルの開口部が左側に開いているのが「パンダ30」、右側に開いているのが「パンダ45」。

しかも、ジウジアーロに与えられた時間はたったの3週間。フィアット副社長は8月末にはデザイン案を引き渡せと言ってきたのだ。そこで彼は急遽バカンスを返上し、親友であり、ビジネスパートナーでもあったアルド・マントヴァーニを別荘に呼び寄せ、ふたりは寝食を忘れて仕事に没頭し、驚くほど短期間で初代パンダの構想とスケッチをまとめ上げ、予定より早い8月7日にデザイン案をトリノに送ったのだ。

初代パンダに採用された生産コスト低減のための平面ガラス、簡素なグリル、蓋状にデザインされたボンネット、ドアノブを備えない2枚のドア、ボディパネルの溶接箇所をモールディングで隠して側面を屋根に組み立てる独特な製法など、初代パンダの外観上の特徴はこのときに決定した。

初代パンダの外観上の特徴のひとつとなる平面ガラス。パンダにはコストダウンのため一般的な曲面ガラスは一切使われていない。

もちろん、ジウジアーロのアイデアはインテリアにも随所に生かされており、シトロエン2CVに範を取ったハンモック構造のシート、ボディパネルむき出しのインテリア、収納スペースが露出した備えたファブリック製ダッシュボードなどは、生産コストを抑えるために無駄を削ぎ落としつつ、それでもなお大衆の感情を揺さぶり、魅力的に映るように工夫された結果である。

フィアット側の意向をしっかりと反映させた上で、ジウジアーロとマントヴァーニのアイデアが随所に詰まった初代パンダは、このようにして安価でメンテナンスが容易、実用的で、頑丈かつシンプルなクルマとして構想がまとめられたのである。

デ・ベネデッティが去ったあとに開発計画は承認され、開発が進む

夏が終わり、バカンスから戻ったジウジアーロは、送付したデザインについての感想を求めてあらためてフィアットに連絡をしたが、電話口にデ・ベネデッティが出ることはなかった。オイルショック以来、苦境にあえいでいたフィアットを立て直すために、従業員6万5000人のリストラが必要だと主張したデ・ベネデッティと、それに反対する社長のジャンニ・アニエッリが対立し、彼はすでに辞任に追い込まれたのだ。そのことを新聞で知ったジウジアーロは、仕事の依頼者がフィアットから去ったことでバカンス返上でプレゼンした企画が無駄に終わったと落胆した。

1980年2月26日、ローマのクイリナーレ宮殿で、イタリア大統領のサンドロ・ペルティーニ(左)に初代パンダを贈呈するフィアット・オートのジャンニ・アニェッリ社長(中央)。

しかし、彼の提出した初代パンダの構想とデザイン案はデ・ベネデッティが辞任したあとも生き続けた。その後、フィアットから正式にプロジェクトが承認されたとの連絡がジウジアーロの元に入ると、まもなくして技術部門と共同でFWDプラットフォームの開発が始まり、1978年2月にプロトタイプが完成する。そして、信用のおける選ばれた顧客と有力なディーラー関係者を招いて極秘裏に内覧会を行い、そこで好評を得たことから大きな手直しなしに製品化されることが決まった。

しかし、当時はイタリア国内の労働争議が苛烈を極めていた時期でもある。1979年11月には工場の放火により、量産試作車のパンダ20台が焼失する事件も発生している。結局、これらの問題発生により生産立ち上げまでに1年ほどかかり、正式発表は1979年12月にずれ込んだ(発売開始は1980年2月から)。

なお、車名のパンダの由来だが、これは中国に生息する食肉目クマ科の動物ではなく、旅行者の守護女神である「エンパンダ」(単に「パンダ」と呼ばれることもある)にちなむものとされる。

改良を受けながら23年という長期に渡って製造される

安価で実用的、経済性に優れ、おまけに信頼性が高い初代パンダは、発売開始とともにイタリア国内でベストセラーに輝いた。「セリエ1」(前期型)はフィアット126の652cc空冷直列2気筒OHVを積む「パンダ30」と、127の903cc水冷直列4気筒OHVを積む「パンダ45」の2種類が設定され、どちらのグレードも発表されるやいなやバックオーダーを抱えるほどの人気車となった。

2023年に開催された『さいたまイタフラミーティング2023』にエントリーされた初代パンダ。写真のモデルは中期型の「セリエ2」(手前)と、セリエ2の改良型となる後期型(2台目)。

1985年にはエンジンをFIRE(Fully Integrated Robotised Engineの略)シリーズの903ccと999cc水冷直列4気筒SOHCへと一新し、リアサスペンションをリーフリジッド式からトーションビーム式に変更、内外装を近代的にモディファイした「セリエ2」(中期型)へとマイナーチェンジを行った。
1991年には後期型が登場したが、FIREエンジンの排気量を999ccと1108ccへと拡大し、インジェクション化と触媒コンバーターを追加し、フェイスリフトによってグリルの意匠を変更しただけで、内容的にはセリエ2と大差がなかった。

初代パンダは合理的な設計と優れた実用性・経済性から長期に渡ってフィアットのボトムレンジを支えた。初代パンダの最後の車両がミラフィオーリのフィアット工場から出荷されたのは、2代目パンダが登場したあとの2003年9月5日のことであった。

知る人ぞ知る初代パンダの商用バンモデル

23年という長きに渡って生産が続けられた初代パンダにはいくつかのバリエーションが存在する。その中でもオーストリアのシュタイアー・プフ社との共同開発によって生まれた「パンダ4×4」(フォー・バイ・フォー)と、富士重工(現・スバル)製のCVTを搭載した「パンダ・セレクタ」は日本に正規輸入されたこともあり、その存在がよく知られている。

『さいたまイタフラミーティング2024』にエントリーしていた1997年型フィアット・パンダのフロントビュー。オーナーの好みで中期型のグリルが装着されている。

ほかにも欧州のみで販売された車両としては、BEVの「パンダ・エレットラ」やスペインのセアト社でライセンス生産された「セアト・パンダ/マルベーリャ」がある。今回紹介する「パンダ・バン」もそんな日本市場未導入の派生モデルのひとつとなる。

ハッチゲートを外してバン・キットを装着した車両だ。

と言っても、ここで取り上げるパンダは最初から商用モデルとしてラインオフした車両ではなく、正規輸入された乗用モデルのハッチゲートを取り去り、観音開きのハッチを備えたバン・キットを装着した車両だ。

バン・キットは観音開きのリヤドアとなる。

オリジナルのパンダ・バンは、取り外しができない金属製のパーテーションが前列シート直後に備わり、後部座席を持たない2シーター仕様になることと、リアサイドウィンドのかわりに跳ね上げ式のハッチを持っていることに特徴がある。さしずめ、この車両は「ハーフ・バン」仕様とでも言うべきいでたちだ。

リヤドアを閉じた状態。オーナーの好みで樹脂製のバン・キットはボディ同色に塗装されている。

オーナーのころパンダさんに話をうかがうと、この車両は1997年に輸入された正規輸入車で、2012年頃に中古で購入したとのこと。たまたまイタリアで状態の良い中古のバン・キットが売りに出されているのを見つけて、100ユーロと比較的安価だったので購入に踏み切ったとのことだ。ただし、サイズがサイズだけに送料はそれなりに掛かったそうだ。

バン・キットを横から見た状態。全長は変わらず、Cピラーの切り欠きの分だけ荷室容積が増している。

フィアット・バンのイタリアにおけるユーザーは、もっぱらテレコム・イタリアSpA(電話会社)やENEL(電力会社)がサービスカーとして使用することがほとんどで、一般のユーザーの購入は少なかったようだ。

バン・キットのルーフ部分。オプションのキャリアを装着するため、4本の取り付けボルトが備わる。
初代パンダのアイデンティティのひとつダブルサンルーフ。パンダ・バンはスチールルーフのみの設定なので本来備わらない装備。

実際、荷室容積は810Lほどと商用車として考えると、それほど積載量があるとは思えないし、全長は変わらないので長物の積むのに向いているとは思えない。積載能力を重視するならルノー・エクスプレスのようなフルゴネットや、ルノー・カングーやシトロエン・ベルランゴのようなMPVのほうが使いやすいだろう。そう考えるとパンダ・バンはスズキ・アルトやダイハツ・ミラに設定があった日本の軽ボンネットバンに近い性格のクルマなのかもしれない。

オリジナルのパンダ・バン。無塗装樹脂製のバンキットに、荷物の出し入れが便利なようにリアクォーターウインドウの部分は上開きのハッチとなる。後部座席は持たず、乗車定員は2名で、フロントシート直後に取り外しができない金属製のパーテーションが備わる。テレコム・イタリアSpA(電話会社)やENEL(電力会社)が主なユーザーであった。

とは言え、初代パンダが生産を終了してから20年以上が経過し、イタリア本国でもパンダ・バンは急速にその姿を消しつつある。おそらくは今後数年以内に彼の地でも完全に淘汰され、幻のクルマとなってしまうことだろう。そうした意味では日本にバンの面影を残した車両が、オーナーの手で大切に保存されることは意義のあることと言える。

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著者プロフィール

山崎 龍 近影

山崎 龍

フリーライター。1973年東京生まれ。自動車雑誌編集者を経てフリーに。クルマやバイクが一応の専門だが、…