目次
デ・ベネデッティの発案&ジウジアーロの設計により生まれた初代パンダ
初代フィアット・パンダ……このイタリアの傑作車については、今さら多くを語る必要はないだろう。1979年の年末に発表されたパンダは、オイルショックの余波で燃費性能に優れたコンパクトカー需要の高まりから、ウンベルト・アニェッリによりフィアット副社長に招聘されたカルロ・デ・ベネデッティの肝いりで開発された小型大衆車だ。

フィアット126、および127に代わる次世代の小型大衆車を求めていたデ・ベネデッティには明確なビジョンがあった。それは大人4人が快適に移動できる広々とした空間を持ちながらも、インテリアや装備は簡素で、合理的な設計により経済性や生産性に優れ、重量と価格は126並というものであった。


「そんな相反する要件を満たすクルマなど作れるものか!」。凡百の自動車設計家ならそう言って彼のオファーを断ったかもしれない。だが、デ・ベネデッティが白羽の矢を立てたのは、創業からわずか8年足らずのイタルデザインだった。ここは鬼才と呼ばれたジョルジェット・ジウジアーロが起こしたデザインスタジオだった。フィアットが基幹車種の設計を社外に委託するのは前例のないことであった。

ピエモンテ州クーネオ県ガレッシオ村の芸術一家に生まれる。14歳のときに画家を志してトリノに移り美術高校へと進むが、そのときに描いたトッポリーノの絵がダンテ・ジアコーサの目にとまり、彼の誘いを受けて高校を中退してフィアットのデザイン部門(チェントロ・スティーレ)に見習いとして入社。そこで2代目フィアット500のモックアップ制作をアシストする。1959年にイタリアのカロッツェリア・ベルトーネの総帥であったヌッチオ・ベルトーネにスカウトされ、フランコ・スカリオーネの後任となるチーフスタイリストとして迎え入れられた。そこで量産車のデザインとしては初の仕事となるゴードンGTを手がける。その後もプロトタイプを相次いで発表したほか、アルファロメオ・ジュリアスプリントGTなどを手掛け、ベルトーネに黄金期をもたらした。その後、カロッツェリア・ギアのチーフスタイリストに転身し、いすゞ117クーペを皮切りに数多くの傑作を世に送り出す。1968年に日本人実業家の宮川秀之、板金職人のアルド・マントヴァーニと共同で自身の会社であるイタルデザインを設立。1976年にフィアット副社長だったカルロ・デ・ベネデッティの依頼により、初代パンダの構想をまとめ、デザインを手掛ける。自動車に限らず、オートバイ、電車、トラクター、カメラ、家電、事務機器、食品などジャンルにこだわらず様々な工業デザインを手がける。2010~2015年にかけてイタルデザインを段階的にVWに売却したが、息子のファブリツィオとともに自動車設計分野のプロジェクト開発に特化したデザインスタジオ「GFGスタイル」を起業した。
ジウジアーロの偉大なところは、自動車の造形を脳内で正確な三面図、すなわち3D造形として構築した上で、デザインとエンジニアリングの橋渡しをしながら、製造設備の設計を含め、新車開発のコーディネートを行えるところにある。
しかも、イタルデザインには彼の稀有な能力を活かすべく、製造部門をも擁していたのだ。これが自動車メーカーがエンジニアリング部分を作りあげ、そこに合ったボディのデザインを提案することしかできない凡百のデザイナーとの違いだ。すなわち、彼こそが真の意味での“カーデザイナー”であり、ほかの大多数は“カースタイリスト”ということだ。

この彼の稀有な才能は、少年期にダンテ・ジアコーサの推薦でフィアット・チェントロ・スティーレ(フィアット社デザイン部門)に入社し、ヌォーバ・チンクェチェント(2代目フィアット500)のモックアップ製作を手伝った際に、ジアコーサの仕事ぶりをつぶさに観察して自家薬籠中のものとした結果であった。すなわち、徒弟制度が色濃く残る当時のイタリア社会において、ジウジアーロはジアコーサの薫陶を受けた直弟子ということになる。
バカンス返上で初代パンダの構想とデザイン案をまとめたジウジアーロ
ジウジアーロがデ・ベネデッティから仕事のオファーを受けたのは1976年8月頭のことだった。バカンスシーズンの真っ只中ということもあり、イタリア人の例に漏れず彼もまた地中海に浮かぶサルデーニャ島にある別荘で静養中だったという。そんな休暇中のもとにフィアット副社長から1本の電話がかかってきた。彼は休暇を理由に仕事を断ったが、何度もしつこく電話がかかってきたそうで、ついに根負けして仕事を引き受けることにしたそうだ。

しかも、ジウジアーロに与えられた時間はたったの3週間。フィアット副社長は8月末にはデザイン案を引き渡せと言ってきたのだ。そこで彼は急遽バカンスを返上し、親友であり、ビジネスパートナーでもあったアルド・マントヴァーニを別荘に呼び寄せ、ふたりは寝食を忘れて仕事に没頭し、驚くほど短期間で初代パンダの構想とスケッチをまとめ上げ、予定より早い8月7日にデザイン案をトリノに送ったのだ。
初代パンダに採用された生産コスト低減のための平面ガラス、簡素なグリル、蓋状にデザインされたボンネット、ドアノブを備えない2枚のドア、ボディパネルの溶接箇所をモールディングで隠して側面を屋根に組み立てる独特な製法など、初代パンダの外観上の特徴はこのときに決定した。

もちろん、ジウジアーロのアイデアはインテリアにも随所に生かされており、シトロエン2CVに範を取ったハンモック構造のシート、ボディパネルむき出しのインテリア、収納スペースが露出した備えたファブリック製ダッシュボードなどは、生産コストを抑えるために無駄を削ぎ落としつつ、それでもなお大衆の感情を揺さぶり、魅力的に映るように工夫された結果である。
フィアット側の意向をしっかりと反映させた上で、ジウジアーロとマントヴァーニのアイデアが随所に詰まった初代パンダは、このようにして安価でメンテナンスが容易、実用的で、頑丈かつシンプルなクルマとして構想がまとめられたのである。
デ・ベネデッティが去ったあとに開発計画は承認され、開発が進む
夏が終わり、バカンスから戻ったジウジアーロは、送付したデザインについての感想を求めてあらためてフィアットに連絡をしたが、電話口にデ・ベネデッティが出ることはなかった。オイルショック以来、苦境にあえいでいたフィアットを立て直すために、従業員6万5000人のリストラが必要だと主張したデ・ベネデッティと、それに反対する社長のジャンニ・アニエッリが対立し、彼はすでに辞任に追い込まれたのだ。そのことを新聞で知ったジウジアーロは、仕事の依頼者がフィアットから去ったことでバカンス返上でプレゼンした企画が無駄に終わったと落胆した。

しかし、彼の提出した初代パンダの構想とデザイン案はデ・ベネデッティが辞任したあとも生き続けた。その後、フィアットから正式にプロジェクトが承認されたとの連絡がジウジアーロの元に入ると、まもなくして技術部門と共同でFWDプラットフォームの開発が始まり、1978年2月にプロトタイプが完成する。そして、信用のおける選ばれた顧客と有力なディーラー関係者を招いて極秘裏に内覧会を行い、そこで好評を得たことから大きな手直しなしに製品化されることが決まった。
しかし、当時はイタリア国内の労働争議が苛烈を極めていた時期でもある。1979年11月には工場の放火により、量産試作車のパンダ20台が焼失する事件も発生している。結局、これらの問題発生により生産立ち上げまでに1年ほどかかり、正式発表は1979年12月にずれ込んだ(発売開始は1980年2月から)。
なお、車名のパンダの由来だが、これは中国に生息する食肉目クマ科の動物ではなく、旅行者の守護女神である「エンパンダ」(単に「パンダ」と呼ばれることもある)にちなむものとされる。
改良を受けながら23年という長期に渡って製造される
安価で実用的、経済性に優れ、おまけに信頼性が高い初代パンダは、発売開始とともにイタリア国内でベストセラーに輝いた。「セリエ1」(前期型)はフィアット126の652cc空冷直列2気筒OHVを積む「パンダ30」と、127の903cc水冷直列4気筒OHVを積む「パンダ45」の2種類が設定され、どちらのグレードも発表されるやいなやバックオーダーを抱えるほどの人気車となった。

1985年にはエンジンをFIRE(Fully Integrated Robotised Engineの略)シリーズの903ccと999cc水冷直列4気筒SOHCへと一新し、リアサスペンションをリーフリジッド式からトーションビーム式に変更、内外装を近代的にモディファイした「セリエ2」(中期型)へとマイナーチェンジを行った。
1991年には後期型が登場したが、FIREエンジンの排気量を999ccと1108ccへと拡大し、インジェクション化と触媒コンバーターを追加し、フェイスリフトによってグリルの意匠を変更しただけで、内容的にはセリエ2と大差がなかった。
初代パンダは合理的な設計と優れた実用性・経済性から長期に渡ってフィアットのボトムレンジを支えた。初代パンダの最後の車両がミラフィオーリのフィアット工場から出荷されたのは、2代目パンダが登場したあとの2003年9月5日のことであった。
知る人ぞ知る初代パンダの商用バンモデル
23年という長きに渡って生産が続けられた初代パンダにはいくつかのバリエーションが存在する。その中でもオーストリアのシュタイアー・プフ社との共同開発によって生まれた「パンダ4×4」(フォー・バイ・フォー)と、富士重工(現・スバル)製のCVTを搭載した「パンダ・セレクタ」は日本に正規輸入されたこともあり、その存在がよく知られている。

ほかにも欧州のみで販売された車両としては、BEVの「パンダ・エレットラ」やスペインのセアト社でライセンス生産された「セアト・パンダ/マルベーリャ」がある。今回紹介する「パンダ・バン」もそんな日本市場未導入の派生モデルのひとつとなる。

と言っても、ここで取り上げるパンダは最初から商用モデルとしてラインオフした車両ではなく、正規輸入された乗用モデルのハッチゲートを取り去り、観音開きのハッチを備えたバン・キットを装着した車両だ。

オリジナルのパンダ・バンは、取り外しができない金属製のパーテーションが前列シート直後に備わり、後部座席を持たない2シーター仕様になることと、リアサイドウィンドのかわりに跳ね上げ式のハッチを持っていることに特徴がある。さしずめ、この車両は「ハーフ・バン」仕様とでも言うべきいでたちだ。

オーナーのころパンダさんに話をうかがうと、この車両は1997年に輸入された正規輸入車で、2012年頃に中古で購入したとのこと。たまたまイタリアで状態の良い中古のバン・キットが売りに出されているのを見つけて、100ユーロと比較的安価だったので購入に踏み切ったとのことだ。ただし、サイズがサイズだけに送料はそれなりに掛かったそうだ。

フィアット・バンのイタリアにおけるユーザーは、もっぱらテレコム・イタリアSpA(電話会社)やENEL(電力会社)がサービスカーとして使用することがほとんどで、一般のユーザーの購入は少なかったようだ。
実際、荷室容積は810Lほどと商用車として考えると、それほど積載量があるとは思えないし、全長は変わらないので長物の積むのに向いているとは思えない。積載能力を重視するならルノー・エクスプレスのようなフルゴネットや、ルノー・カングーやシトロエン・ベルランゴのようなMPVのほうが使いやすいだろう。そう考えるとパンダ・バンはスズキ・アルトやダイハツ・ミラに設定があった日本の軽ボンネットバンに近い性格のクルマなのかもしれない。

とは言え、初代パンダが生産を終了してから20年以上が経過し、イタリア本国でもパンダ・バンは急速にその姿を消しつつある。おそらくは今後数年以内に彼の地でも完全に淘汰され、幻のクルマとなってしまうことだろう。そうした意味では日本にバンの面影を残した車両が、オーナーの手で大切に保存されることは意義のあることと言える。