知られざる「左右」の攻防! 中世ヨーロッパから始まった世界の交通ルール戦争と日本の特異な選択

世界の道路の約73%は右側通行だ。そして、そこを行き交う車両の多くは左ハンドル車だ。現代では当たり前となったこの組み合わせの起源は、意外にも中世の武装騎士たちの習慣にまでさかのぼる。ナポレオンの征服地域では右側通行が法制化され、その後の産業革命と自動車の誕生によって「左ハンドル・右側通行」の組み合わせが世界に広がっていった。英国やその植民地は左側通行を守り続けたのに対し、なぜアメリカは右側通行を選んだのか。馬車から自動車への転換期に起きた道路の革命を紐解いてゆく。

中世の剣と馬車により誕生した道路交通の法則

道路の通行ルールの始まりは、武器を持った人間の行動様式から生まれた。

中世ヨーロッパで右利きの騎士たちは左腰に剣を佩き、いざという時に右手でスムーズに抜刀できるよう、道の左側を通行することが習慣となっていた。この自然発生とも言える左側通行は、一般的なルールとして長らく続くこととなった。

馬車時代になると、さらに別の要素も加わる。大型馬車の御者は右側に座り、複数頭の馬を右手で操る形が主流となった。こうすることで道路の中央がよく見え、対向車との接触を避けやすい。騎士だけではなく、馬車も左側通行が合理的だったのだ。

1773年になるとイギリスで道路の左側走行が法律で規定され、今日まで続く世界初の公式な通行ルールが誕生した。イギリスの植民地となった国々でも、この左側通行がルールとして採用された。騎士から生まれ、馬車の登場で一般化したルールが、近代の交通ルールの基盤を形成したのである。

ナポレオンがもたらした右側通行革命と社会制度の標準化

道路ルールの大きな転換点は、18世紀末から19世紀初頭のナポレオン時代に訪れる。それまでヨーロッパ大陸でも左側通行が一般的だったが、ナポレオン・ボナパルトがこれを変えた。彼自身が左利きだったという説もあるが、実際の理由はより戦略的なものだった。

ナポレオンは征服した地域に右側通行を導入した。これは当時の軍事行動において、剣を右手に持つ兵士が敵と相対する際に有利だと考えられていたためだ。また、ナポレオンの法典は交通だけでなく社会制度全般を標準化し、近代国家の基盤を作ったことでも知られている。

彼の影響下にあったドイツ、スペイン、イタリア、オランダなどの国々は右側通行を採用し、これがヨーロッパ大陸の標準となっていったのだ。

一方、海を隔てたイギリスでは左側通行のままだった。ナポレオンの支配が及ばなかったスウェーデンも左側通行を保持していたが、興味深いことに1967年になって右側通行に切り替えている。

自動車産業により生まれ、拡大していった「左ハンドル」

自動車の登場は道路ルールをさらに複雑にした。

初期の自動車は馬車のデザインを踏襲し、多くは右側にハンドルが設けられた。しかし1908年、アメリカのヘンリー・フォードは大量生産モデル「モデルT」を左ハンドルで発売。これが右側通行の国における標準となる決定的な出来事だった。

右側通行の道路では、左ハンドルの利点は明らかだ。ドライバーが中央線付近に座ることで対向車との距離感がつかみやすくなる。

フォード・モーターの創業者ヘンリー・フォードと「モデルT」(1921)

また当時のアメリカでは、乗客は歩道側から乗り降りするのが便利だという実用的な理由もあった。アメリカの自動車産業が世界を席巻するにつれ、右側通行の国々で左ハンドルが標準となっていった。

一方、イギリスとその影響下にある国々では右ハンドル・左側通行の組み合わせが維持された。1920年代から30年代にかけて、世界の自動車メーカーはそれぞれの市場に合わせた製品を作るようになり、「左ハンドル・右側通行」「右ハンドル・左側通行」の二大勢力が確立された。

特殊な歴史をもつ日本の交通事情

石垣島に建立されている「730記念碑」出典元: Takashi Images / Shutterstock.com

日本は「右ハンドル・左側通行」に統一されている。

しかし沖縄県の交通事情は、かつて日本の他の地域とは大きく異なる特徴を持っていた。1972年の本土復帰後も、沖縄は約6年間「右側通行」という特殊な交通体系を維持していたのだ。

戦後、米国の統治下にあった沖縄では「車は右、人は左」というアメリカ式の交通方法が採用されていた。これは日本本土の「車は左、人は右」とは逆の通行区分である。沖縄が1972年5月15日に日本に復帰した後も、この右側通行は沖縄復帰特別措置法のもとで継続された。

その状況を一変させたのが、1978年7月30日に行われた「730(ナナサンマル)」と呼ばれる歴史的な交通切り替え事業だ。この日、沖縄県内の道路はすべて一斉に右側通行から左側通行へと変更された。この大がかりな交通体系の転換作業はたった8時間で成し遂げられた。

この切り替え作業は膨大かつ複雑なものであった。信号機、標識、横断歩道などの道路標示、ガードレール、カーブミラーなど、すべての交通インフラを変更する必要があった。本島だけでなく、すべての離島の道路も対象となった。バス停の位置変更や、場合によっては交差点の形状自体を変更することも必要であった。 

また、インフラだけでなく車両自体も対応が求められた。タクシーの自動ドアやバスの乗降口の位置も変更する必要があり、このタイミングで島を走行する大半のバスが本土と同じ右ハンドルの新車に切り替わったのである。しかし、それ以上のハードルは人々の習慣の変更であった。長年慣れ親しんだ「車は右、人は左」の習慣を一気に逆転させることは容易ではない。

当時、幼稚園や学校では授業を返上してまで「車は左、人は右」と何度も繰り返し新しい道路の使い方を教えたという。テレビやラジオでも特別番組が組まれ、社会全体で取り組む大事業となったのである。

こうして1978年7月30日、沖縄の道路は本土と同じ左側通行となり、現在に至っている。この歴史的大事業を記念して「730記念碑」が石垣島、本島、宮古島に建立されている。

現代社会の選択、変わる国と伝統を守る国

20世紀後半になると、右側通行への統一を図る動きが加速した。

最も劇的なのは、1967年9月3日のスウェーデンの「Dagen H(ダゲン・H)」だ。これは、一夜にして国中の交通ルールが左から右へと変わるという、異例とも呼べる切替だった。同様に、1945年には韓国が、1946年には台湾が、1970年にはミャンマーが右側通行へと移行した。

しかし、通行ルールを変更するにはインフラの大規模な改修が必要で、莫大なコストがかかる。そのため日本やイギリスなどの主要国は左側通行を維持することとなった。世界の道路の約73%が右側通行である一方、人口の面から見ると約35%が左側通行の国に住んでいる計算になる。

現代のグローバル化した自動車市場では、メーカーは両方のシステムに対応しているものの、右側通行・左ハンドルの組み合わせが世界標準と見なされ、新技術開発においてもこの組み合わせを基準に行われることが多い。

道路交通ルールは一見すると単純なものだが、それには歴史や政治、経済、そして実用性が複雑に絡み合って形成されてきた複雑なシステムなのだ。

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