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ビッグスリーが手掛けてこなかったスポーツカーを開発
第二次世界大戦後の社会は女性の社会進出が進むと考えた会長兼CEOのジョージ・W・メイソンの発案により、コンパクトカー市場に経営資源を注いだナッシュ=ケルビネーター社は、1950年4月に発表したランブラーの成功により、1949~1951年の3年間に過去最高の売り上げを記録し、文字通りの黄金期を迎えていた。
勢いに乗る同社は、「独立系メーカーが作るべきクルマとは、ビッグスリーのクルマとは違ったものでなければならない」というナッシュの経営哲学に基づき、これまでにビッグスリーが手掛けてこなかったニッチ市場に目を向ける。その結果、誕生したのが1950年10月のパリサロンでプロトタイプが公開され、翌1951年2月から販売を開始した2座ロードスターのナッシュ・ヒーレー・シリーズ25であった。

このクルマはごく少量が製造されたプレイボーイ・モーター・カーのコンバーチブル、カーティス・スポーツカーに次ぐ戦後3番目のアメリカ製スポーツカーであり、GMのシボレー・コルベットに2年先んじて発表されたマシンである。



また、アメリカには1910~1920年代にかけて製造されたマーサーやアパーソン、スタッツ、キッセルなどの先駆的な車両が存在していたが、その系譜は長らく途絶えており、久しぶりのアメリカ製スポーツカーの復活となった。




ジョージ・W・メイソンがスポーツカーに積極的だった3つの理由
アメリカでは長らく存在が忘れられていたスポーツカーをメイソンが商品化しようとした理由は3つある。
ひとつは、第二次世界大戦が終結し、徴兵に応じてヨーロッパ戦線に従軍していた若者の中には赴任先でMGやトライアンフ、ジャガー、アルファロメオなどのスポーツカーの存在を知り、復員時に故郷への土産として持ち帰る者がいたことで、戦後の富裕層の間で欧州製のスポーツカーがちょっとしたブームになっていたこと。


ふたつめは、チャールズ・W・ナッシュから経営権を引き継いだメイソンは、1940年代後半から新型車のインスピレーションを得る目的でヨーロッパ各国で再開されたモーターショーを訪ね歩いており、その活動の中でスポーツカーの存在に目が向けられ、その華やかさから会社のイメージリーダーとしてふさわしいと考えるようになったこと。

3つめの理由は、レーシングドライバーとして1930年代のモンテカルロ・ラリーなどで活躍し、のちにスポーツカーの設計技術者となったドナルド・ヒーレーとの出会いであった。
ドナルド・ヒーレーとの船上における偶然の出会い
メイソンとヒーレー、ふたりの出会いは思いがけないまったくの偶然のものだった。
1949年12月、新型スポーツカーのヒーレー・シルバーストーンの開発を進めていたドナルド・ヒーレーは、このマシンの心臓にパワフルなキャデラック製331cu-in(5.4L)V型8気筒OHVの搭載を考えていた。彼は当時のヨーロッパには存在しない大排気量・高出力を実現した量産エンジンの供給を求めてGMとの折衝に赴く目的で、ニューヨーク行きの豪華客船RMSクィーンエリザベス号に乗船したのだ。

ドナルド・ミッチェル・ヒーレー
(1898年7月3日生~1988年1月13日)
1898年7月、イギリス・コーンウォール州のペランホース村で雑貨店を営む両親の長男として生まれたドナルド・ヒーレーは、幼い頃から機械に興味を持ち、学校を卒業後の1914年に航空機メーカーのソッピースに就職。第一次世界大戦が勃発すると英陸軍航空隊(RFC)に志願入隊し、爆撃機のパイロットとなる。しかし、最初の夜間爆撃で撃墜され、1917年には出撃中の負傷により軍を除隊処分となる。戦争が終わると自動車工学の通信講座を受講し、1920年に故郷で修理工場を開業する。だが、次第に自動車競技にのめり込むようになり、1929年からモンテカルロ・ラリーに初めて参戦し、1931年にインヴィクタをドライブして優勝。レーサーとしての名声が高まったことで、修理工場を売却し、ライレーを経てトライアンフのゼネラルマネージャーに就任する。その一方でモンテカルロ・ラリーに引き続き参戦し、1932年、1934年、1936年とトップ8に入った。第二次大戦中は軍用機用のキャブレター開発に従事。戦争が終結するとトライアンフから独立してドナルド・ヒーレー・モーターカンパニーを設立。ウォリックにあった古いイギリス空軍の格納庫を拠点とした。1949年に彼はナッシュ=ケルビネーター社と共同でナッシュ・ヒーレー・シリーズ25の開発・製造を行う。1952~1959年にはBMCとのライセンス契約に基づき、自身が開発を手掛けたオースチン・ヒーレーおよびスプライトの生産を担当した。1966年にBMCがブリティッシュ・レイランドに改組されると、ジェンセン・モーターズの会長となる。1973年には長年の功績により、エリザベス女王から大英帝国勲章(CBE)の叙勲を受けている。1988年1月に死去した。

その際に彼は珍しい立体写真が撮れるステレオカメラで船上から風景写真を撮影していた大柄なアメリカ人中年男性と出会う。写真を趣味としていたヒーレーは、彼が手にしたカメラに興味をそそられて声をかけたところ、その紳士はヨーロッパからの出張帰りだったナッシュ=ケルビネーター社の会長兼CEOを務めていたジョージ・W・メイソン、その人であった。
写真という共通の趣味を持ち、互いに自動車業界で仕事をする間柄ということもあって、すっかり意気投合したふたりは、その日のうちに10年来の知己のようになる。その晩の席を同席したふたりは、趣味のこと、仕事のこと、互いの人生のことなど、さまざまな話題に花を咲かせたという。レストランでの食事を終え、バーラウンジに席を移して酒を酌み交わしながら会話を楽しんでいたときのことだ。ヒーレーはナッシュに今回の旅の目的を切り出したのである。
「まだ、公にはしていないが、あなたには話をしておきたいと思う。じつはわが社が現在生産しているヒーレー・シルバーストーンにキャデラック製V8 OHVエンジンを搭載した改良型スポーツカーの開発を進めている。われわれがX4と呼ぶ試作車はすでに完成しており、テストしてみたところ想像以上の高性能を発揮した。このマシンが完成した暁にはヨーロッパのレースシーンを席巻することになるだろう。問題はGMがエンジンを供給してくれるかどうかなのだが、先方からの手紙には『前向きに検討する』としか書かれていなかった。そこで私自らデトロイトに赴いてGMと直接交渉することが今回の旅の目的なのだ」

ヒーレーの話を聞いたメイソンは表情にこそ出さなかったが、この交渉が上手くいかない予感があった。1948年にデビューした初の戦後型キャデラックは、パワフルなV型8気筒エンジンとハリー・アールの愛弟子であるフランクリン・Q・ハーシェーが手掛けたP-38戦闘機をモチーフにしたスタイリングがウケて、高価な高級車にもかかわらず飛ぶような売れ行きを見せていた。しかも、生産開始の遅れからウェイティングリストは顧客の名前で埋まっており、1949年2月頃まではショールームに展示車を置けないほどその人気は過熱していた。キャデラックを製造するクラーク・ストリート工場はフル回転で操業しているが、なおバックオーダーが解消できずにいたのだ。

新たに友人となったヒーレーの力になってやりたいが、彼が作るというアメリカンV8を搭載したスポーツカーに経営者として魅力を感じていた。もしもGMではなくナッシュ=ケルビネーター社が彼のパートナーになれるとしたら、直接的な利益には結びつかないとしても、欧州のレースで活躍するブランドとのコラボによるスポーツカーはイメージリーダーとして打ってつけではあるし、ハロー効果によってきっとブランド価値を高めてくれることだろう。そこでメイソンは友人としての誠実さを示しつつ、経営者としてさりげなく自社の利益につながる提案をすることにした。
「GMとの交渉相手はエド・コールなのだろう? 彼はキャデラック・ディビジョンのチーフエンジニアであるとともに、キャデラック製331cu-inV8 OHVの開発を指揮した男だ。私はアメリカの自動車業界では顔が広い方でね。エドはモータウン(注・デトロイト)ではその名を知らぬ者がいないほどの有名人だし、もちろん私も彼のことはよく知っている。彼はキミに負けず劣らずのカーガイであるし、人間的にも魅力溢れるナイスガイだ。すでに約束を取り付けているのだろうが、ニューヨークに着いたら私からも彼に直接連絡を入れてキミのことを紹介しておくよ。キミのビジネスが成功することを心から祈っている」

ここまでがメイソンの友人に対する顔である。そして、ここからは彼は優秀なビジネスマンの表情へと変えて、双方に利のある提案をすべく言葉を続けた。
「だが、万が一にもGMとの交渉が上手く行かなかったときには私に連絡してほしい。160hpを発揮するキャデラックほどのパワーはないが、わが社の234.8cu-in直6OHV『デュアルジェットファイア』エンジンもなかなかのものだ。最高出力は112hpとキャデラックに比べれば劣るが、チューニングによる伸び代は充分にあるし、重量はV8よりもずっと軽い。キミさえ良ければこのパワーユニットを使ってスポーツカーを作ってみてはどうかな? わが社としてもシンボルとなるスポーツカーはぜひ欲しいところだしね。あくまでもGMとの交渉が上手く行かなかったときの保険としての話ではあるが……。どうか頭の片隅にでも留めておいてくれないか?」

ヒーレーはメイソンの言葉の裏に含みがあることを承知しつつ、礼の言葉を述べてその晩のふたりだけの酒宴はお開きとなった。
ヒーレーが望んでいたGMからのエンジン供給は実現せず
長旅の末、デトロイトのGM本社に到着したヒーレーを出迎えたのは、メイソンの言葉通り、キャデラック・ディビジョンの決定権を持つエド・コールだった。長身で引き締まった体躯を持つハンサムな彼は、一流のテイラーで仕立てたと思しき上質なスーツを見事に着こなしてはいるが、その手元を見ると日常的に機械油や工具を扱っているエンジニア特有のゴツくてざらざらした皮膚をしていた。彼が自分と同種の人間であることを知ったヒーレーは少し安心した。ビッグスリーの重役といえば、金勘定にしか興味がない事務屋と相場は決まっている。そのような人間相手にバックヤードビルダーが交渉を持ちかけても、誠実な対応など期待できないと思っていたからだ。

しかし、コールの言葉はヒーレーの期待を裏切るものだった。開口一番、コールは申し訳なさそうな表情を見せながら次のように語ったという。
「遠路はるばるGM本社までお越しいただきありがとうございます。あなたのレースでの活躍、素晴らしいスポーツカーを製造しているとの話は、もちろん私たちも存じております。キャデラック製エンジンをドナルド・ヒーレー・モーター・カンパニーのスポーツカーに搭載したいとオファーを受けたことを大変光栄に思います。しかし、残念ながらキャデラックのエンジン生産能力に余裕がなく、ご要望に添うことができないのです」
エド・コール
(1909年9月17日生~1977年5月2日没)
初代シボレー・コルベット(C1)、トライシェビー、コルヴェア、ベガ、シボレー・スモールブロックV8の開発を担当した稀代のエンジニア。1909年にミシガン州マーンの酪農家に生まれる。少年の頃からメカに対しては天才性を発揮し、1930年にGMと繋がりの深いケタリング大学に入学するが、優秀な成績により卒業を前にしてキャデラックのエンジニアに抜擢される。第二次世界大戦中は戦車開発を担当していたが、大戦が終結した年に36歳の若さでキャデラックのチーフエンジニアに起用され、キャデラックディビジョン初のV型8気筒OHVエンジン開発において重要な役割を果たした。1950年に朝鮮戦争の勃発とともに戦車生産のためにクリーブランドに放置されていた廃工場の再建を託され、短期間で生産施設を整備した。それらの実績から1951年末にGM社長チャールズ・ウィルソンの特命を受けてシボレーの新型車(のちのトライシェビー)開発を命じられることになる。彼は画期的な小型車のシボレー・コルヴェアをの開発指揮を執ったのちに1965年のGM副社長を経て、1967年に社長の座に就く。1974年にコールはGMを円満退職し、イエローキャブ(ニューヨークのタクシー)向け車両を生産していたチェッカー・モーターズの会長兼CEO、航空会社インターナショナル・ハスキー社の会長を歴任した。しかし、1977年5月2日、悪天候の中を自身が操縦する飛行機の事故で死去した。同年、自動車の殿堂入りを果たしている。
コールの言葉はリップサービスなどではなく、嘘偽りのない事実だった。デトロイトでも無類のクルマ好きとして知られる彼は、ヨーロッパのモータースポーツ事情にも明るく、ヒーレーからの話を聞いてひとりのモーターファンとして素直に喜んだ。彼はなんとしてもドナルド・ヒーレー・モーター・カンパニーへのエンジン供給を実現させようと、社長のヒーレーが来社する直前までエンジン製造部門長と調整を重ね、GMの重役連とも折衝を続けていたが、キャデラックが想定を上回る好調な販売を見せていたことからやはりない袖は振れず、供給は不可能というのが結論だった。このような事情があったことをコールは包み隠すことなくすべてを話し、手紙で期待を持たせるようなことを書いてしまったことを素直に詫びた。

GMからのエンジン供給が流れ、ヒーレーはメイソンの話に期待をかける
GMからの回答に肩を落とす目の前のヒーレーに、コールはふと思い出したかのように彼に言葉をかける。
「そう言えば、先日ナッシュ=ケルビネーター社のメイスンさんから電話がありましてね。『私の友人がそちらを訪れるのでよしなに頼む』と仰っておられました。その際にひとつ言伝を預かりました。『ドナルド、せっかくデトロイトまで来たのだ。もう少し足を伸ばしてケノーシャまで来ないか? ぜひお茶の一杯でもご馳走させてくれたまえよ。私からのメッセージを聞いたらすぐに電話をいただきたい』と。私には何やらわかりかねることですが、メイスンさんのことですから何かしらのお考えがあるのでしょう。僭越ながら当方でクルマの用意をさせていただきました。少し長旅にはなりますが、あなたはナッシュ=ケルビネーター社を訪れるべきです。吉報を祈っています」

そう語った彼は、人払いした個室を用意してメイスンへの電話をヒーレーに促したあと、わざわざ車寄せまで出向いてヒーレーを見送り、彼を乗せたキャデラックが小さくなるまで見つめていたという。察しの良いコールはすでにメイスンの狙いをとっくに感づいていた。そして誰が聞くでもなく独り言ちる。
「ナッシュ=ケルビネーター社はドナルド・ヒーレーとのコラボで本格的なスポーツカーを作るか。そう言えば、デザイン部門のハリー・アールもスポーツカーの必要性を社内で訴えていたな。たしかに今のGMのラインナップには運転を楽しむためのクルマが存在しない。だが、ヨーロッパ車のような精錬されたスポーツカーが、遠からずわが社にも必要になるだろう。そのときには私も何かしらのカタチで関わるようになるのだろうな。とは言え、巨大なGMが前例のないスポーツカー開発に乗り出すには、まずは頭の固い経営陣の説得から始めねばならないし、社内の各部署との調整にも相応の時間が必要になるだろう。こういうときはフットワークの軽い独立系メーカーが心底うらやましく思えてならない。メイソンはそのことを百も承知で私に電話を寄越したみたいだな。まったく食えないお人だ。ここはひとまずは彼らのお手並み拝見といったところか……」

エド・コールがGMのドイツ部門オペルにちなんで「プロジェクト・オペル」のコードネームで極秘裏に量産スポーツカー開発計画に着手するのは、この出来事から2年後の1951年後半のことだ。彼がのちに誕生に関わるGM初の量産スポーツカーこそ、1953年1月に開催された「ゼネラルモーターズ・モトラマ」で初めて公開され、同年6月から量産を開始したシボレー・コルベットC1である。ナッシュ=ケルビネーター社とドナルド・ヒーレー・モーター・カンパニーによるコラボで誕生したナッシュ・ヒーレーから2年半遅れでのデビューであった。
