【メトロポリタンとナッシュのコンパクトカー vol. 6】

ル・マン24時間でも活躍!!『ナッシュ・ヒーレー』はACコブラより10年も早かったアメリカエンジン×イギリスシャシーのスポーツカー!

高品質かつ高性能な中・小型車にこだわり、ユニークで個性的なクルマ作りを続けたナッシュ社の連載記事の6回目は、ドナルド・ヒーレーとのコラボで生まれたナッシュ・ヒーレーの続きとなる。両者の共同事業の合意から試作車の開発、ミッレミリアやル・マン24時間耐久レースの参戦までを紹介する。

ヒーレーとメイソンの偶然の出会いから始まった米英共同によるスポーツカー開発

1949年12月、サウサンプトン発ニューヨーク行きの豪華客船クィーンエリザベス号の船上で偶然の出会いからナッシュ=ケルビネーター社の会長兼CEOのジョージ・W・メイソンとドナルド・ヒーレーは親しい間柄となった。

ジョージ・W・メイソンとドナルド・ミッチェル・ヒーレーの出会いは第5回を参照。

ヒーレーから旅の目的が自社のスポーツカーにキャデラック製V8エンジンを搭載するため、GM本社へ商談に赴くためと聞いたメイソンは、キャデラックの生産能力に余裕がないことから、この交渉が上手く行かないだろうとの予感があった。そこで彼はGMとの折衝が失敗した際の保険として、自社の234.8cu-in(3.8L)直6OHV『デュアルジェットファイア』エンジンの供給を申し出た上で、共同事業によるスポーツカー開発を提案する。その場ではこの話にそれ以上の進展はなかったが、GMからエンジン供給を拒絶されたことで、ヒーレーにはナッシュ=ケルビネーター社を頼るほかに選択肢がなかったのである。

GMからエンジン供給を拒否されたヒーレーはナッシュ=ケルビネーター社を訪ねる

デトロイト市内にあるGM本社ビルからミシガン湖の湖畔をぐるりと周り、イリノイ州最大の都市・シカゴ市を抜けて110kmほど北上するとウィスコンシン州ケノーシャ市に到着する。ナッシュ=ケルビネーター社の本社は1937年にナッシュ社とケルビネーター社が合併した際に、メイソンの意向により本社機能はデトロイトに移転したが、工場と開発部門は市内のほぼ中心部、52番街と60番街の通りに挟まれた広大な土地にそのまま残された。

ウィスコンシン州ケノーシャ市にあるナッシュ=ケルビネーター社の工場。

GM本社からメイソンに連絡を取った際には、彼はこの日、デトロイトの本社ではなく所用のためケノーシャに彼は来ているという。ヒーレーを乗せたクルマは約束の時間よりやや早くナッシュ=ケルビネーター社の正門をくぐり、旧本社ビルの前で停車した。

クルマから降りたヒーレーを突如として襲ったのが凍てつくような寒さだ。イギリスとは違ってケノーシャの冬は湿度が低く、しっかりと着込んでいれば底冷えするような寒さは感じないのであるが、空はどんよりと曇り、気温は氷点下、おまけに西から吹きつける寒風が容赦なく体温を奪っていく。肌が露出した部分は刺すような痛みにも似た冷気を感じる。緯度は先日訪れたデトロイトとほとんど変わりはないはずなのに、彼にはこちらのほうが寒いように感じられた。

ケノーシャ市にあるナッシュ・モーター社の旧本社ビル。1937年にナッシュ社とケルビネーター社が合併した際に、本社機能はデトロイトに移転したが、その後もケノーシャ市の拠点として機能していた。

ヒーレーがイギリスを発ってからすでに10日が経過していた。現役のレーサーとして活躍していた彼は、51歳という実年齢以上に若々しく体力にも自信があった。だが、予定外のケノーシャ行きが加わり、さしものヒーレーも些か疲れを感じていた。それは移動距離の長さだけでなく、旅の目的である彼が求めていた大排気量エンジンを未だ確保できていないことも要因であった。

ナッシュ=ケルビネーター社の工場内の様子。写真は鋳造部品を作るアフリカ系労働者。1952年頃に撮影。

RMSクィーンエリザベス号に乗船していたときには、メイソンは好意的に接してくれたし、親身な姿勢でエンジン供給と新型スポーツカーの共同開発の提案をしてくれたが、それは彼の思いつきやリップサービスかもしれず、具体的な話は何ひとつとして決まっていないのだ。

彼とは船旅で友人となったが、友情とビジネスはまた別の話であるし、たとえ会長兼CEOの彼は話に乗り気であったとしても、ナッシュ=ケルビネーター社の重役たちが皆彼の意見に賛同しているとは限らず、何かしらの横槍が入って契約を前に話がご和算になる可能性も充分に考えられた。

あるいは同社のエンジン供給の意思は本物なのかもしれないが、アメリカの自動車業界の中では中堅メーカーであるとは言え、両者の企業規模はダビデとゴリアテほどの開きがある。常識的に考えれば弱小メーカーのドナルド・ヒーレー・モーター・カンパニーのほうが立場が弱く、ナッシュ=ケルビネーター社から相当に厳しい条件をふっかけられてもおかしくはない。もちろん交渉は蓋を開けてみるまではどうなるかわからないが、ヒーレーの立場からすると商談に際してはけっして甘い顔は見せられない。

ケノーシャの工場における塗装工程を撮影したスナップ。中小型車を得意としたナッシュ=ケルビネーター社だが、製品のクオリティはビッグスリーのものに勝るとも劣らなかった。

ここはなんとしてもメイソンとの交渉を良い条件でまとめ、クリスマスはウォリックシャーにある自宅で家族とともにのんびりと過ごしたい。そのためには交渉で少しでも有利な条件を引き出さねば母国イギリスには帰るに帰れない。そのように考えるヒーレーであった。

負債の肩代わり、エンジン以外のパーツ供給とメイソンはヒーレーに好条件を提示

「やあ、遠路はるばるご苦労だったね。さあ、掛け給え。飲み物はコーヒーでいいかな?」

極寒の外界とは違い、秘書に案内された応接室は適温に保たれていた。勧められるままにソファに腰かけると、メイソンは巨躯をゆっさゆっさと揺らしながら愛想の良い笑顔を浮かべて正面の席に座った。ほどなくして秘書がふたり分のコーヒーを持ってくる。それに先に手をつけたメイソンはカップの中身を一口啜ってから「さて、本題に入ろうか」と話を切り出した。

結論から言ってしまえば、ヒーレーの心配ごとはすべて杞憂に終わった。この商談でメイソンが彼に提示した条件は破格の高待遇であった。まず当時ドナルド・ヒーレー・モーター・カンパニーが銀行に対して抱えていた約5万ドルの負債は、ヒーレーが話を切り出す前にすべてナッシュ=ケルビネーター社が肩代わりすることを約束してくれた。その返済は両社合弁によって製造される新型スポーツカーをドナルド・ヒーレー・モーター・カンパニーが製造し、ナッシュ=ケルビネーター社への納入代金の中から少しずつ返済すれば良いというのだ。

しかも、メイソンはエンジンの供給だけでなく、トランスミッションやデファレンシャル、リヤアクスルの供給も引き受けると申し出た(最終的にはヘッドライト、バンパー、ホイールキャップ、トルクチューブも供給することになる)。

イギリスで生産された新型スポーツカーは全車ナッシュ=ケルビネーター社が買い取り、自社のディーラーネットワークを通じて北米で販売する。契約上はドナルド・ヒーレー・モーター・カンパニーへの生産委託となるので、部品代を支払う必要がないとされた。しかも、欧州向けの派生車種をヒーレーが製造することは認められ、必要な部品はナッシュ=ケルビネーター社が適価で提供するとの付帯条件がつけられた。

ナッシュ車のミニカーを受け取るナッシュ=ケルビネーター社の会長兼CEOのジョージ・W・メイソン(写真右の人物)。

スタイリングに関してはピニンファリーナが手掛けた原案にナッシュ=ケルビネーター社の意向が反映されるものの、車体設計はドナルド・ヒーレー・モーター・カンパニーに一任され、ボディはヒーレーからの要望により軽量なオールアルミ製で製作されることに決まった。

ボディパネルはヒーレー旧知のバーミンガムにあるパネルクラフト・シート・メタル社が当面製造を担当するが、将来的にはイタリアのピニン・ファリーナの工場に製造を切り替えられ、その際にブランドイメージ統一のため、マイナーチェンジによるスタイリングの変更が示唆された。最終組み立てはヒーレーの工場で行われ、性能、品質、製造の責任はすべてヒーレーが負うものとされた。

レーサー兼自動車エンジニアのドナルド・ミッチェル・ヒーレー。

仮にGMと契約が結べたとしても、これほどの好条件とはならなかっただろう。予想外の高待遇にヒーレーは素直に喜んだ。しかし、ふと我に帰って冷静になると疑念が脳裏をよぎる。あまりにも自社に有利すぎる内容だったから「話がうますぎるのではないか?」と少し不安になったヒーレーは、「本当にこの条件で良いのですか?」とメイソンを問い正した。

これから両社が共同で作ろうとしているのは、高性能だが大変高価なスポーツカーだ。アメリカ市場ではスポーツカーの成功例がほとんどなく、ニッチな商品故に販売台数はさほど望めないと考えたからだった。すると彼はヒーレーの不安を打ち消すようにこう答えた。

「不服があるのかね? キミはスポーツカーの専門家であり、プロのレースエンジニアだ。だが、われわれも分野は違うが自動車の専門家であり、企業経営と新車販売のプロを自認しておる。ことこの分野に関してはキミより経験を積んでいるつもりでいるのだがね。われわれはキミの力が必要だし、キミの価値を認めてこのようなオファーをしただけで他意はない。キミは良いスポーツカーを作る。そして、それをわれわれが売る。開発に関すること以外、キミは何も心配する必要はない」

そう言ってメイソンは笑顔を見せた。その言葉を聞いてヒーレーはすべての迷いを捨て、彼を信じることにして契約を即決した。商談がまとまると会長自らがヒーレーを開発部門と工場施設を案内し、その後で新型スポーツカーの心臓部となる『デュアルジェットファイア』エンジンが披露され、その際に共同開発に従事するナッシュ=ケルビネーター社側のスタッフを紹介された。なお、この事業は社長案件とされ、何かあれば直接メイソンに相談するように申し渡された。

シルバーストーンを改修してナッシュ・ヒーレーを開発

イギリスに戻ったヒーレーは、翌1950年1月から新型スポーツカーの開発に着手する。ウォリックの工場に提供を受けたエンジンが届くと、まず彼はその検分作業から始めることにした。ナッシュ=ケルビネーター社から提供された直列6気筒OHV『デュアルジェットファイア』エンジンは、キャデラックのV型8気筒エンジンよりは軽いが、ヒーレー・シルバーストーンに搭載されたライレーの2.5L直列4気筒OHVよりは重い。しかし、船上でメイスンが言った通り、このエンジンの素性は確かなようで、パワフルで、トルクが非常に太く、信頼性の高いことが確認された。

ヒーレー・シルバーストーン。

そこで彼はエンジン本体の軽量化と高出力化を狙って、8:1へと高圧縮化を図ったアルミ製シリンダーヘッドを採用し、さらにノーマルのカムシャフトを改造してカムプロフィールを変えることで高回転までスムーズに回るように改造した。さらに、標準のシングルキャブレターを45φのSUキャブレター2基に換装し、新設計のインテークマニホールドに取り替えたことで吸排気効率が向上。実用車のエンジンがスポーツカーにふさわしい高性能ユニットへと変貌を遂げたのだ。その結果、ヒーレー・シルバーストーンから20%パワーアップし、最高出力は112hpから125hpへと向上。トルクは27.9kgmに達した。

ナッシュ=ケルビネーター社がヒーレーに供給した234.8cu-in(3.8L)直6OHV『デュアルジェットファイア』エンジン。

ナッシュ=ケルビネーター製の『デュアルジェットファイア』エンジンを搭載するシャシーは、開発期間とコストを縮小するため、最初からヒーレー・シルバーストーンのものを改造して使用することが決まっていた。

シャシーの耐久性はさらに重量のあるキャデラック製V型8気筒エンジンを搭載しても耐久性に問題がないことは、すでにレーシング・プロトタイプのX4を開発した時点で明らかになっている。そこで強度試験などは省略され、心臓部のチューニングと並行して、ケノーシャから送られてきた直列6気筒エンジンと3速トランスミッション 、アクスルアセンブリー、そしてボルグワーナー製オーバードライブが搭載できるようにシャシーの改造が進められることになった。

ナッシュ・ヒーレーのカタログからメカニズムの解説ページ。搭載される『デュアルジェットファイア』エンジンと同車のフレーム構造を解説している。

足まわりに関しては、フロントがヒーレー・シルバーストーンのものがそのまま流用され、インホイール型ダブルウィッシュボーンサスペンションによる独立懸架式。リヤはそれまでのライレー製に代わってナッシュ製のトルクチューブとライブアクスルが採用され、アクスルの横方向の位置決めはラテラルロッドによって行なわれた。

ブレーキは全輪ドラムブレーキとされたが、エンジンの出力向上に合わせて制動力の強化が図られ、フラッグシップセダンであるアンバサダーに使用されていたベンディックス社製の大径ドラムブレーキを流用することになった。

1949年型ナッシュ・アンバサダー・カスタム。

前述の通り、ボディは軽量化のためオールアルミ製で製造することを最初からヒーレーは決めていた。車体設計に関してはレン・ホッジスが担当。アメリカ市場での販売を考慮すると、ヒーレー・シルバーストーンのような簡素なサイクルフェンダーを備えたクラブマンレーサー的なものにするわけにはいかず、ピニンファリーナは華美な装飾を廃止した機能的で美しいロードスターとして、レンダリングを仕上げていた。

ピニンファリーナによるレンダリング。

当初、ピニンファリーナ案に沿って車体が形作られる予定であったが、作業の途中でメイスンから「フロントマスクを自社のラインナップのセダン(アンバサダーやステイツマン)と共通の意匠に修正してくれ」とのリクエストが入った。

1951年型ナッシュ・ステーツマン。

この話を聞いたホッジスは「機能を追求したスポーツカーに、アメリカ人好みの派手なメッキグリルは似合わない」と難色を示したが、ヒーレーは「スポンサーからのデザイン修正の依頼を無碍には断れないから」と彼を説得。ホッジスは渋々ながら了承し、プロトタイプはナッシュ=ケルビネーター社の意向に沿ったスタイリングで製作されることになった。

なお、車名に関しては「ヨーロッパのスポーツカーブランドとのコラボであることを宣伝材料に使いたい」とのメイスンの意向により、この新型スポーツカーはシンプルにナッシュ・ヒーレー・シリーズ25と命名されることになった。

ナッシュ=ケルビネーター社とドナルド・ヒーレー・モーター・カンパニーの共同開発によって誕生したナッシュ・ヒーレー・シリーズ25。

プロトタイプの完成とモータースポーツへの参戦

1950年3月、ナッシュ・ヒーレー・シリーズ25のプロトタイプが完成した。ところが、カタチとなった車両はスポーツカーとしては鈍重な見た目で、ピニンファリーナデザインとは似ても似つかない、イギリス流のスポーツカーにアメリカ車の意匠が歪に組み合わされた控えめに言ってもぎこちないスタイリングとなってしまう。そこでヒーレーはメイソンにデザインの修正を求め、それが認められるとホッジスにフロントマスクのリファインを指示した。

ナッシュ・ヒーレーのプロトタイプ。同社の乗用車と共通のイメージを与えるべくファミリーフェイスが採用されたが、完成したプロトタイプはお世辞にもスタイリッシュとは言えず、フロントマスクの意匠はジェリー・コーカーによってリファインされることになる。

その際に手腕を発揮したのが、のちにオースチン・ヒーレー100(ビッグヒーレー)やヒーレー・スプライトを手がけるジェリー・コーカーだ。このときの彼は入社間もない新人のカーデザイナーでホッブスの補佐役を務めていた。

オースチン・ヒーレー100。
オースチン・ヒーレー・スプライト。

そんなコーカーにホッブスはフロントマスクのリファインを任せることにしたのだ。彼はフロントグリルの位置をリフトし、ノーズに至るラインをスムーズに整え、フロントマスクのデザインを原案に近いものへと修正した。その際に歯をむき出しにしたようなグリルは改められたが、ナッシュ車に共通するグリルの意匠はボディラインに馴染ませつつ残されることになった。

スタイリングの変更など量産化に向けて改善が図られる一方で、ヒーレーはマシンの性能を確認し、スポーツカーとしてのブランド価値を確立するため、4台製造されたプロトタイプのうちの1台をレーシングカーに改造したX5を開発。1950年4月に開催されたミッレミリアに参戦を決意する。

ヒーレーは息子のジェフリーとともにイタリアまで自走してレースに参加。マシンの熟成不足は明らかで高速域でオーバーヒート症状が見られたが、1690kmもの過酷な公道レースを見事に走り切り、クラス9位という好成績で完走した。

続いてヒーレーは6月に開催されるル・マン24時間耐久レースへの参戦を決定。ミッレミリアで問題となったエンジンのオーバーヒートの問題は、新しいピストンリングの採用によりエンジンオイルの冷却性が大きく改善された。さらに、新開発のカムシャフトの恩恵により、最高出力は126hpへとわずかだが向上。また、ボディはレースのレギュレーションで義務付けられていた張り出したフェンダーと運転席後方の空力フェアリングを追加装備した。

1950年6月に開催されたル・マン24時間耐久レースに出走するナッシュ・ヒーレーX5。

ドライバーにはF1への出走経験があり、ル・マンで優勝経験のあるトニー・ロルトとダンカン・ハミルトンを起用し、万全の態勢で臨んだ。決勝レースではキャデラック製エンジンを搭載したブリッグス・カニンガムの「ル・モンストル」を大きく引き離し、X5は3001~5000ccクラスで3位、総合4位入賞の好成績を収めている。このレースでの経験は開発中の量産試作車に直ちに反映された。

1950年のル・マン24時間耐久レースでナッシュ・ヒーレーX5をドライブしたレーシングドライバーのトニー・ロルト(左)とダンカン・ハミルトン(右)。

高性能が確かめられ量産化へ……お披露目は1950年9月のパリサロンに決定

量産試作車の開発作業は順調に進み、1950年の初夏に完成。テストの結果、約100kgの重量増加に伴い、前モデルのヒーレー・シルバーストーンよりもやや遅かったものの、0~60mile/h(0~97km/h)加速は約12秒、最高速度は167km/hに達し、1951年当時の量産スポーツカーとしては非常に優秀な性能を誇っていた。

大排気量エンジンを搭載したことにより、車両バランスがフロントヘビーとなったことが原因で、ナッシュ・ヒーレーはアンダーステアが感じられたものの、ハンドリングと動力性能、そして乗り心地が高い次元でバランスされていた。このスポーツカーの数少ない弱点は、当時のアメリカ車の流儀に従って備えられたベンチシートが、コーナリング時にドライバーの身体をしっかりとホールドしてくれないことと、100km/hオーバーの超高速域でブレーキ性能がやや不足していたことくらいであった。

ナッシュ・ヒーレーの量産試作車。1951年当時の量産スポーツカーとしては非常に優秀な性能を発揮し、テストの結果を受けて量産化が決定した。

テスト結果に概ね満足したヒーレーは、量産試作車の完成をナッシュ=ケルビネーター社に報告した。これを受けてメイソンは直ちに量産化を承認。お披露目は1950年秋に開催されるパリサロンで行われることになった。

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著者プロフィール

山崎 龍 近影

山崎 龍

フリーライター。1973年東京生まれ。自動車雑誌編集者を経てフリーに。クルマやバイクが一応の専門だが、…