メトロポリタンとナッシュのコンパクトカー vol. 7】

ジャーナリスト大絶賛!ナッシュ×ヒーレーのスポーツカーは売れたのか!? でもアメリカ人はハイパワーV8エンジンとホットロッドに夢中

高品質かつ高性能な中・小型車にこだわり、ユニークで個性的なクルマ作りを続けたナッシュ社の連載記事の7回目は、ドナルド・ヒーレーとのコラボで生まれたナッシュ・ヒーレーの続きだ。今回は1950年のパリサロンでのデビューから1951年の発売開始、そして販売不振によるマイナーチェンジに至る経緯を紹介する。

市販化に動き出したアメリカ初の量産スポーツカー

ナッシュ=ケルビネーター社から破格の好条件でエンジン供給を受けたドナルド・ヒーレーは、1950年1月から新型スポーツカーのナッシュ・ヒーレー・シリーズ25の開発に着手した。

このスポーツカーの心臓部となる234.8cu-in(3.8L)直列6気筒OHV『デュアルジェットファイア』エンジンは、ヒーレーの手でチューニングが施され、最高出力は112hpから125hpへと向上し、最大トルクは27.9kgmに達した。また、シャシーは開発期間の短縮とコスト低減を狙ってヒーレー・シルバー・ストーンを流用。フロント部分のみナッシュ製エンジンが搭載できるように改造された。足回りはフロントサスペンションは前モデルのものがそのまま使用されたが、リヤサスペンションはナッシュ製のトルクチューブとライブアクスルが新たに採用され、アクスルの横方向の位置決めはラテラルロッドによって行なわれるように変更された。

ドナルド・ヒーレーがナッシュの協力を取り付けた話は前回を参照。

車体設計はドナルド・ヒーレー・モーター・カンパニーが担当し、軽量化のためアルミボディが選ばれたが、スタイリングに関してはナッシュ=ケルビネーター社の意見が尊重された。しかし、両社が求めるものに若干の齟齬があったようで、完成したプロトタイプはフロントマスクを中心に外装のリファインが施される結果となったが、それ以外は大きな問題もなく開発作業は順調に進んだ。

ナッシュ・ヒーレー・シリーズ25のプロトタイプ。ナッシュ=ケルビネーター社の乗用車と共通の意匠を持つファミリーフェイスが与えられていたが、プロトタイプのスタイリングが不評だったことから量産試作車の開発段階でフェイスリフトされた。

また、ヒーレーはスポーツカーとしての性能を立証するため、製作されたナッシュ・ヒーレーのプロトタイプのうち1台をレーシングカーに改造し、1950年4月のミッレミリア、同年6月のル・マン24時間耐久レースへ参戦。どちらのレースも完走するだけでなく、前者はクラス9位、後者はクラス3位、総合4位入賞の好成績を収めた。

1950年6月のル・マン24時間レースに参戦したX5。4台製作されたナッシュ・ヒーレーのプロトタイプのうちの1台を改造して製作されたレーシングカー。 

プロトタイプを経て完成した量産試作車をテストしたところ、当時としては高性能なスポーツカーに仕上がったことから、メイソンは市販化を正式に決定。お披露目はその年の秋に開催されるパリサロンで行われることが決まった。

1950年のパリサロンでお披露目となったナッシュ・ヒーレー

1950年10月4日、フランス・パリ市内のポルト・ド・ヴェルサイユを会場として開幕した第38回パリサロンは、ヨーロッパを中心に30社以上の自動車メーカーが出展していた。会期中の来場者は初めて100万人を超え、当時の人びとのクルマへの関心の高さを示す結果となった。

この年のパリサロンでは、フェラーリ212インタークーペやアルファロメオ1900C、ランチア・アウレリアB50ローザ・ドーロ、タルボ・ラーゴT26カブリオレなどがワールドプレミアとして初公開されたほか、フォード(フランス)・コメットが一般公開され、海の向こうからはハリー・アールが手がけたセンセーショナルなコンセプトカー、ビュイック・ル・セイバーをGMが出展するなど、各メーカー自慢の豪華絢爛なマシンが並べられた。

フェラーリ212インタークーペ。
アルファロメオ1900C。
フォード(フランス)・コメット。

ヨーロッパに拠点を持っていなかったナッシュ=ケルビネーター社だったが、ピニンファリーナのブースを間借りしてコンパクトカー(当時のヨーロッパの基準では大型車となる)のナッシュ・ランブラー・カントリークラブと量産試作車のナッシュ・ヒーレー・シリーズ25を展示した。両車の反応は上々で、とくにアメリカメーカー初の量産スポーツカーとなる後者の注目度は極めて高かった。

1951年型ナッシュ・ヒーレー・シリーズ25
■Specifications
全長×全幅×全高:4337mm×1626mm×1219mm
ホイールベース:2591mm
車両重量:1089kg
エンジン:234.8cu-in (3.8L)直列6気筒OHV『デュアルジェットファイア』
最後出力:125hp
最大トルク:27.9kgm
燃料供給装置:SUツインキャブ
トランスミッション:オーバードライブ付き3速MT
駆動方式:FR
サスペンション形式:(前)インホイール型ダブルウィッシュボーンサスペンション/(後)トレーリングリンク
ブレーキ形式(前後):ドラム
新車価格:4063ドル

アメリカに比べるとヨーロッパは自動車の普及率がまだまだ低かったことに加えて、戦争の傷痕もまだ癒えぬ復興期ということもあり、ようやく庶民の手が届くようになった大衆車は、排気量1.0L以下の小型車が中心で、その販売台数に占める割合はフランスで4割、イタリアで5割を超えていた。

1948年に登場したシトロエン2CV。戦後のフランスで広く普及した小型車で、当時のヨーロッパの大衆車の例に漏れず、排気量は1.0L未満だった(初期型の排気量は375cc。のちに602ccまで拡大された)。

当時のヨーロッパではアメリカ車のような大排気量車はほとんど存在せず、レーシングカーを公道用に仕立て直したフェラーリなどでも排気量は2.0~3.0L程度、3.0Lを超える大排気量車というとロールスロイスやベントレー、ディムラーなどの超高級車がわずかに存在するだけだった。

1948年にイギリスの戦後初の乗用車として誕生したモーリス・マイナー。設計はのちにBMCミニを生み出すアレック・イシゴニス。登場当初の排気量は918ccだった。

そのような国情の違いもあって、それまで「スポーツカー不毛の地」と思われていたアメリカブランドのスポーツカー、それも234.8cu-in(3.8L)直列6気筒OHVという、それまでのヨーロッパの常識では考えられない大排気量エンジンを搭載したナッシュ・ヒーレー の存在は物珍しかった。

また、パリサロンに先立って参戦したミッレミリアやル・マン24時間耐久レースでの活躍も人々の記憶に鮮明に残っていたことから、来場者の目には「ドリームカー」と映ったらしく、パリサロンの会期中、展示されたナッシュ・ヒーレーには人だかりが絶えることはなかった。

パリ・サロンを視察に訪れていたナッシュ=ケルビネーター社会長兼CEOのジョージ・W・メイソンは、自社展示の盛況ぶりを目にしてすっかり気を良くしていた。同じく会場を訪れていた傍らのヒーレー、カーデザイナーのバッティスタ・“ピニン“・ファリーナに対して「二度の国際レースで実力を証明した上、スポーツカーの本場・ヨーロッパでこれだけ好評なのだから、このクルマの実力は本物なのだろう。この分ならアメリカ市場でも大いに期待ができるな」と満面の笑みをたたえて語りかける。それを聞いたふたりは言葉を発せず、ただ静かに頷くだけだった。

ナッシュ=ケルビネーター社会長兼CEOのジョージ・W・メイソン。
ドナルド・ヒーレー・モーター・カンパニーの代表を務めていたレーサー兼自動車エンジニアのドナルド・M・ヒーレー。
カロッツェリア・ピニンファリーナの代表であり、カーデザイナーのバッティスタ・“ピニン“・ファリーナ。

前評判は高く、シカゴオートショー後にセールスを開始

パリサロンの終了後、イギリスに戻ったヒーレーは、ナッシュ・ヒーレー・シリーズ25の市販化に向けて最終調整を進める一方、並行して量産体制の準備を進めることにした。当時のイギリスは戦後復興の途上ということもあり、自動車用の生産部材は政府によって厳密に管理されていた。だが、外貨獲得を課題としていたときの第一次アトリー政権は、輸出振興策として総生産数のうち75%を国外に輸出する企業に優先的に物資を分配するという政策を実施しており、ナッシュ・ヒーレーもこの恩恵に預かることになったのだ。

なお、バックヤードビルダー同然のドナルド・ヒーレー・モーター・カンパニーには、オートメーション化された近代的な生産ラインなどあるはずもなく、生産治具の用意と協力企業との打ち合わせのみで短期間で準備はほぼ整った。

1951年のシカゴオートショーでデビューを飾ったナッシュ・ヒーレー・シリーズ25。

ナッシュ・ヒーレーは1951年2月に開催されたシカゴオートショーで市販車が発表され、その直後にセールスを開始した。なお、ヒーレーは宣伝効果を狙って、当時人気を集めていたイギリス人歌姫のペトゥラ・クラークに市販1号車をプレゼントしている。この出来事は大西洋を隔てたアメリカでも紹介されたが、平均的なアメリカ人はヨーロッパのレースには関心を示さないとして、ミッレミリアやル・マン24時間耐久レースの戦績については触れられなかった。

ペトゥラ・クラーク
ペトゥラ・クラーク
(1932年11月15日生~)
イングランド・サリー州エプソム出身の歌手・女優。イギリスを代表する歌姫で1940年代後半~1960年代にかけてイギリスを始めとしたヨーロッパで人気を誇っていた。彼女のキャリアは第二次世界大戦中にBBCラジオの子役として始まり、戦後になって本格的な歌手活動を開始。1954年の『ザ・リトル・シューメーカー』がイギリスで爆発的なヒットを飛ばし、その後も数々の名曲をリリース。イギリスのみならず、ヨーロッパ各国で名声を得た。1964年の『恋のダウンタウン』が世界的なヒット作となり、1965年にはサンレモ音楽祭に出場して『インベーチェ・ノー』を歌い入賞。また『フィニアンの虹』ではハリウッド映画にも進出を果たした。クラークはこれまでに全世界で7000万枚以上のレコードを売り上げている。90歳を超えた現在でも歌手として活動を続けている。

シカゴやマイアミで開かれたオートショーにおけるナッシュ・ヒーレーの評判は、パリサロンに勝とも劣らずで極めて高く、ひと目その姿を見ようとする来場者でナッシュ=ケルビネーター社のブースは会期中大変な賑わいを見せていた。

また、市販化に先立って行われたマスコミ試乗会ではジャーナリストや専門家から同車は高く評価された。
当時のアメリカでもっとも著名な自動車評論家のトム・マッケイヒルは、『メカニックス・イラストレイテッド』誌に寄稿した試乗レポートの中で「パワースライドもスピンターンもドライバーの思いのままだ。これほどハンドリングが良く、意のままに操れるスポーツカーを私は運転したことがない」と絶賛。
元レーサーのウィルバー・ショーは、『ポピュラーサイエンス』誌のレビュー記事で「このクルマには充分なパワーがあり、走りに手応えを感じる。コーナリングも得意で、四輪独立懸架にもかかわらず不快な揺れがほとんどなく安定している。ル・マン24時間レースでの活躍も納得というものだ」と称賛している。

この結果に自信を深めたメイソンは、販売に弾みをつけるべく新聞や雑誌などの広報宣伝により一層力を入れることにした。

1951年の新車発表時のナッシュ・ヒーレーの広告。

アメリカの若者は安くてハイパワーなHOTRODに夢中?
ヨーロッパ的スポーツカーは眼中になし

ところが、1951年型のナッシュ・ヒーレー・シリーズ25は、わずか104台しか製造されなかった。販売が低調だったのは、実用性が低い3人乗りのロードスターでありながら4063ドル(1ドル145円として現在の価値で邦貨換算すると530万2200円)と高額な値付けがされたことと、ほとんどのアメリカ人がスポーツカーに馴染みがないことが原因だった。

保守的なアメリカ大衆はヨーロッパ流のスポーツカーを理解できず、このクルマを販売する全国のディーラーも前例のない製品だけにどう扱えばいいのかわからなかったのだ。

しかも、スピードマニアの若者の間では、当時スポーツカーではなくHOTROD(ホットロッド)が人気を博していた。欧州車を購入できる裕福な子弟と異なり、懐具合の薄い彼らは、郊外のスクラップヤードや片田舎の空き地に放置されたスクラップ同然の古いフォードやシボレーなどをベースに、パワフルなV8エンジンを載せて改造し、合法・非合法を問わず全米各地で開催される草レースへの参戦に夢中になっていたのだ。

禁酒法時代の運び屋たちが仕事のない時の暇つぶしに行った草レースを起源とするHOTRODは、アメリカ生まれのモーターカルチャーだ。戦後、戦地から復員してきた若者たちが軍隊生活で覚えた整備技術を用いて、スクラップ同然の古いフォードやシボレーに、パワフルなフォード製V8を搭載し、草レースに興じたことから全米でHOTRODがブームとなった。彼らが夢中になったのはドラッグレースやスピードトライアルで、優れたコーナリング性能とハンドリングを持つヨーロッパ生まれのスポーツカーがアメリカであまり流行らなかったのはHOTRODの存在が主な理由となる。

クルマとしてのバランスを度外視し、軽い車体に強力なエンジンを載せたHOTRODは、コーナーが連続した峠道やサーキット(数はそう多くない)でのラップタイムはともかくとして、直線勝負のドラッグレースやスピードトライアルではナッシュ・ヒーレーを遥かに上回るパフォーマンスを発揮する。勝負の世界に生きる彼らにとっては加速力と直線でのスピードこそがすべてであり、ハンドリングやコーナリング性能などは眼中になかったのだ。

ドラッグレースに参戦する1955年型シボレー 210。NASCARと並んでアメリカで人気のモータースポーツが1/4マイル(約400m)のタイムを競うドラッグレース。大排気量V8の心臓を持つドラッグレーサーは、ヨーロッパ製のスポーツカーに勝る記録を叩き出すことも珍しいことではない。

そんな彼らからするとナッシュ・ヒーレーは「気取り屋の東部のボンボンが乗るような価格が高いのに遅いクルマ」という評価になってしまう。ヨーロッパにばかり目を向けていたメイソンはそのことに気づかず見過ごしていたのである。

敏腕経営者も想定を大きく下回る販売台数に愕然

この結果にメイソンは愕然とした。その優れた経営センスと手腕で家電メーカーのケルビネーター社、そして合併後のナッシュ=ケルビネーター社を牽引してきた彼は初めて市場を見誤ったのだ。クルマに大金を注ぎ込めるのは、道楽者の金持ちかカーマニアというのは今も昔も変わりがない。いかなニッチ商品とは言え、そのうちの半分にそっぽを向かれてしまえばビジネスとして成立しなくなる。

幸いなことに同社の乗用車の売り上げは好調を見せている。最初からスポーツカービジネスにはたいした利益を見込んでおらず、同社のイメージリーダーとなってくれれば多少の赤字は目を瞑っても良いとさえメイソンは考えていた。だが、当初の予測よりも1桁販売台数が少ないとなれば話が違ってくる。

もともとスポーツカーの開発は小規模なプロジェクトとして始まったこともあり、たとえ販売不振に陥ったとしても直ちに経営に影響が出るわけではない。とは言うものの、イメージリーダーを期待した新車が不人気というのでは会社の沽券に関わるし、小さなつまづきだからと放置してしまえば、気がつかない間に傷口が広がり、遠からず予想されるビッグスリーの販売攻勢を受けたときに、思いもよらぬ弱点となって経営に悪影響をおよぼすかもしれない。そのように考えたメイソンは、ナッシュ・ヒーレーに早急なテコ入れを行うことを決断する。

性能向上とスタイリングの変更でテコ入れを図る

まず、メイソンはヒーレーに性能向上を命じた。メーカー製のスポーツカーがアマチュアが作る改造車に性能で負けては話にならない。本来なら強力なV型8気筒エンジンを新開発して与えたいところではあるが、コストや時間の制約からそのような余裕はナッシュ=ケルビネーター社にはなかった。そこで彼は現在のエンジンにさらなるチューニングを施すことを求めた。

メイソンから依頼を受けたヒーレーは直ちにエンジンの改造に着手した。幸運にも『デュアルジェットファイア』には設計に余裕があったことから、彼は排気量を252cu-in (4.1L)へとスープアップし、SUツインキャブレターに代わってカーター製ツインキャブレターを装備することにした。この改良によりエンジンの名称は『ル・マン・デュアルジェットファイア・アンバサダー・シックス』へと改められ、最高出力は140hpへと向上した。

234.8cu-in (3.8L)直列6気筒OHV『デュアルジェットファイア』エンジン。写真のエンジンはSUツインキャブに変えてカーター製ツインキャブレターを装備する。

エンジンと並んでメイソンが手をつけたのがスタイリングであった。ピニンファリーナが手掛けたカーデザインは、シンプルで機能美あふれる美しいものであったが、あまりにもイギリス流のスポーツカーであり過ぎ、質素過ぎるデザインで、価格に見合った装備がないと彼は常々思っていたのだ。現行モデルを数年生産したのちに、いずれはマイナーチェンジで手当することを考えていた彼であったが、ナッシュ・ヒーレー・シリーズ25がスタートダッシュに失敗したことから予定を前倒しして、わずか1年でスタイリングを刷新することにしたのだ。

その際に彼の脳裏に浮かんだのは、1949年に新型アンバサダー用としてバティスタから提案を受けたレンダリングであった。このデザインはノーブルで精錬されており、大変美しく、ヨーロッパ車好みのメイソンは気に入っていたが、社内からの「アメリカの大衆には受け入れられない」との声に押されて採用を見送った経緯がある。

「ゴールデンエアフライト」コンセプトでデザインされた1953年型ナッシュ ・アンバサダー。

たしかに主力車種には不向きなスタイリングであったかもしれないが、スポーツカーを好むような富裕層には理解が得られるかもしれない。そう考えた彼はピニンファリーナにこのデザインを元にしたナッシュ・ヒーレー・シリーズ25のマイナーチェンジ案を求めたのだ。

ピニンファリーナのデザイン案を元に製作されたアンバサダーのプロトタイプ。美しく、完成度は高いがアメリカの大衆には受け入れられないとして、このままのスタイリングでの量産は見送られたが、ナッシュ・ヒーレーのマイナーチェンジの際に再注目され、このスタイリングをモチーフに外装を一新することになる。

ヒーレーは新デザインを受け入れられず、イギリス仕様は旧モデルの派生車種を独自に開発

だが、ピニンファリーナから上がってきた新デザインを見てヒーレーは嫌悪を覚えた。たしかにバランスが取れた悪くないスタイリングだ。だが、これはスポーツカーのデザインではなくプロムナードカーのそれだ。空力的にも重量バランス的にも現行モデルが最適解だと信じる彼がそう思うのも無理からぬことだった。

ピニンファリーナの新デザインを採用した1953年式ナッシュ・ヒーレー・ロードスター。

現行モデルのデザインを下手に弄ればせっかくのバランスが崩れ、本来の走行性能を損なう結果となる。このデザインを忠実に再現すれば、重量は確実に増すであろうし、ヘッドランプをインボードに配置されたグリルは空力的に不利となるだろう。しかも、パネルクラフト・シート・メタル社に代わってボディを生産するピニンファリーナの工房では、ボンネット、トランクリッド、ダッシュボードを除き、スチールでボディを生産するというのだ。そう考えるヒーレーにとって、このマイナーチェンジはとても看過できるものではなかった。

失望したヒーレーはデトロイトにすぐさま電話を入れ、デザインの改悪をやめるようにメイソンに懇願した。だが、彼は「もう決まったことだから」と取りつく島もない。そこでヒーレーは返す刀でトリノに連絡を取った。英語が堪能でないバッティスタに簡潔に要件を伝えると、彼はただ一言「心配はない」と返してきた。「キミの懸念はもっともだ。しかし、デザインコンセプトは以前にランブラー用として提案したものを引き継ぐものの、空力性能に配慮してグリルのサイズを縮小するし、慎重な設計とするので重量増加の恐れはない」と彼はヒーレーに約束してくれたが、相変わらず不信感は払拭できずにいた。

1952年式ナッシュ・ヒーレー・ロードスター。

それからしばらくして、デトロイトのメイソンの元にピニンファリーナからデザインスケッチが送られてきた。彼はそれを見て歓喜した。スポーツカーとしての機能を損なうことなく、みすぼらしいロードスターからアメリカ人好みの豪華なスポーツコンバーチブルへとナッシュ・ヒーレーは生まれ変わったのだ。

スタイリングは完全に一新され、それまでの2ピース構造によるフラットなフロントスクリーンはワンピース構造の曲面ガラスへと置き換えられ、テールエンドには流行のテールフィンが備えられていた。これならアメリカの顧客を掴むことができる、彼はそう確信し、この案でモデルチェンジの許可を下した。

一方、ウォリックのヒーレーはまったく正反対の感想を抱いていた。イギリス流の機能重視のスポーツカーに慣れ親しんだ彼にとっては、ピニンファリーナの新デザインは無駄が多く、華美に過ぎると感じられたからだった。端的に言えば、彼はナッシュ・ヒーリーの新しいスタイリングがまったく気に入らなかったのだ。

1951年型ナッシュ・ヒーレーから派生したアルヴィス・ヒーレー。イギリスを中心にヨーロッパのみで販売され、1951~1954年にかけて28台が生産された。

そこで彼は製品化を予定していたイギリス市場に向けた自社ブランドのスポーツカーをナッシュ・ヒーレー・シリーズ25を単純に右ハンドル化するのではなく、マイナーチェンジ前の旧モデルをベースに、細部の意匠を変更した上で新たに開発し直すことにした。ボディパネルの生産は、手すきとなったパネルクラフト・シート・メタル社が担当することになり、それに合わせてグリルデザインやホイールカバーの変更、パワーバルジの廃止などのリファインを施すことにした。

アルヴィスTB21。このクルマに搭載された3.0L直列6気筒OHVエンジン+SUツインキャブがアルヴィス・ヒーレーの心臓に選ばれた。最高出力は90hpと、動力性能はナッシュ・ヒーレーよりもいくぶん低い。

メカニズムはシャシーとフロントサスペンションはナッシュ・ヒーレーのものをほぼそのまま流用されたが、心臓部はアルヴィスTB21に搭載されていた3.0L直列6気筒OHVエンジン+SUツインキャブを選択。主要パーツにはナッシュ・ケルビネーターとの契約に基づいてアメリカ製のパーツを使うこともできたが、当時の為替がドル高・ポンド安だったことからイギリス製のパーツのみで製作する道を選んだ。

その結果、リヤサスペンションはトルクチューブリヤドライブをやめ、コイルスプリングで吊り下げられオープンドライブシャフトを用いたトレーリングリンクに変更した。その際にドラムブレーキはガーリング製に、リヤアクスルはソールズベリー製、ドライブシャフトはハーディスパイサー製へと、多くの部品を交換している。

このナッシュ・ヒーレー派生のスポーツカーは、搭載するエンジンからアルヴィス・ヒーレーと命名され、1951~1954年にかけて28台が生産された。

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著者プロフィール

山崎 龍 近影

山崎 龍

フリーライター。1973年東京生まれ。自動車雑誌編集者を経てフリーに。クルマやバイクが一応の専門だが、…