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販売直後の予想外の低迷に僅か1年でのマイナーチェンジにより捲土重来を図る
1950年10月のパリサロンで発表されたナッシュ・ヒーレー・シリーズ25は、前評判の高さと、その年のル・マン24時間耐久レースでの活躍から大いに期待されたモデルであった。ところが、1951年2月のシカゴ・ショーの直後に市販化された同車は、前評判の高さとは裏腹にセールスでは大苦戦。販売が低調な理由は、実用性が低い3人乗りのロードスターでありながら4063ドル(1ドル145円として現在の価値で邦貨換算すると530万2200円)と高額な価格設定だったことと、ほとんどのアメリカ人がヨーロッパ流のスポーツカーに馴染みがないことにあったのだ。
そこでナッシュ=ケルビネーター社会長兼CEOのジョージ・W・メイソンは、発売開始からわずか1年でマイナーチェンジによるテコ入れを図ることにした。コストや時間の制約からパワフルなV8エンジンの新開発は不可能で、既存の234.8cu-in(3.8 L)直列6気筒OHV『デュアルジェットファイア』を改良し、252cu-in (4.1L)への排気量アップとカーター製ツインキャブレターの装備により、最高出力を140hpへと高めることで対応した。

また、並行してピニンファリーナの手による新デザインへとボディを刷新することを決定。イギリス車のような質素なロードスターからアメリカ人好みの豪華なスポーツコンバーチブルへと生まれ変わったナッシュ・ヒーレーをメイソンは歓迎したが、開発を担当したヒーレーはスポーツカーとしては無駄が多く、華美に過ぎると不快感をあらわにした。しかし、ナッシュ=ケルビネーター社はこのデザイン案でマイナーチェンジを行うことを正式に決定し、販売開始直後からの不振を一気に挽回しようと考えたのである。

マイナーチェンジに伴う輸送コストの増大で販売価格は1.5倍に
1952年2月、新しいスタイリングを得て新生ナッシュ・ヒーレー・シリーズ25は満を持して発表された。このマイナーチェンジにかけるメイソンの期待は大きく、大金をかけて『ライフ』や『サタデー・イブニング・ポスト』などの人気の全国誌に全面広告を打つほどだった。

しかし、マイナーチェンジの効果もあって販売台数は増加こそしたものの、1952年型は150台、新たにクーペを追加した1953年型では162台と販売は相変わらず苦戦した。その原因は明らかで、販売価格の高騰にあった。
ナッシュ・ヒーレーは米英間の輸送コストがネックとなり、これまでも大変高価なクルマであったが、マイナーチェンジ後はイタリアからイギリスへのボディの輸送コストが追加されたことで、コンバーチブルが5908ドル、クーペが6399ドル(1ドル145円として現在の価値で邦貨換算するとコンバーチブルが770万9900円、クーペが835万600円)と旧モデルに比べて1.5~1.6倍へと値上げされたのだ。これはセレブリティの間で評判の良かったイギリス製のジャガーXK120よりも500ドル以上高額で、まさに驚くべき価格であった。

ナッシュ・ケルビネーター社では輸送コストを低減するため、ナッシュ・ヒーレーをアメリカへと輸送する貨物船の帰りの便に、ヨーロッパへ輸出するケルビネーター製の家電を積載するなどの工夫をしたが、まったくの焼け石に水で販売価格の低下にはつなげられなかったのだ。
苦境に立たされたメイソンは、マーケティング戦略の一環としてナッシュ・ヒーレーのメディアへの露出を増やすことにした。当時アメリカで人気だったTVドラマ『スーパーマンの冒険』に主人公クラーク・ケントの愛車としてナッシュ・ヒーレーを登場させたのだ(クルマの所有者は俳優のディック・パウエル。顔の広かったメイソンが彼にドラマへの貸し出しを頼んだようだ)。
また、1954年に公開された映画『麗しのサブリナ』(監督:ビリー・ワイルダー。出演:ハンフリー・ボガート、ウィリアム・ホールデン、オードリー・ヘップバーン)の撮影にも協力し、1台のコンバーチブルを貸し出している。これらの活動はナッシュ・ヒーレーの知名度を高めることには成功したが、残念ながら売り上げの向上にはつながらなかった。

その頃、イギリスのヒーレーはヨーロッパで開催される国際レースにナッシュ・ヒーレーで参戦を続けており、1952年5月に開催されたミッレミリアでは、レスリー・ジョンソンとビル・マッケンジー(『デイリー・テレグラフ』紙の自動車担当記者)のペアが、優勝車両のスクーデリア・フェラーリ 、3台のメルセデス、2台のランチアに続いて7位でチェッカーフラッグを受けた。
また同年6月に開催されたル・マン24時間耐久レースでは、ミッレミリアに引き続き参戦したジョンソンとトミー・ウィズダムのドライブにより、ワークス参戦の2台のメルセデスベンツSL300に続いて総合3位に入賞するなどの活躍を見せていた。しかしながら、そうしたモータースポーツでの輝かしい戦歴もたいしてメイソンの慰めとはならなかったのである。
GMからの刺客シボレー・コルベットが登場!
窮地に立たされたナッシュ・ヒーレー
しかも、マイナーチェンジ直後のナッシュ・ヒーレー・シリーズ25の低迷に追い打ちをかけるように、1953年1月に開催されたGM主催のモトラマで同社初のスポーツカーとなるシボレー・コルベットが発表されたのだ。
このクルマの開発に際しては、GMのデザイン部長であり、スポーツカーファンだったハリー・アールを中心に、車両設計にヴィンセント・カプター・シニア、シャシー開発をロバート・マクリーン、製図をカール・ピーブルズ、クレイモデルの製造はビル・ブロックとトニー・バルタザールとGMのライトスタッフが集結。彼らからの提案をシボレー・ディビジョンのチーフエンジニアだったエド・コールが承認してプロトタイプが製作されたのである。

ハリー・アール
(1893年11月22日生~1969年4月10日没)
自動車メーカー初のデザインスタジオの創設者であり、カーデザインの重要性を世に知らしめた人物。そして創生期のGM車を数多く手掛けたカーデザイナー。コーチビルダー(馬車職人)の息子として生まれたアールは、父親が自動車のボディ製作に手を広げたのを契機として、通っていたスタンフォード大学を中退して家業を手伝うようになる。GM重役と知己になった縁でラ・サールのスタイリングをGMから任されて成功する。GMはアールのために特別に用意されたアート&カラー部門の責任者に抜擢。アールは社内でカーデザインの重要性を説き、GMの市販車の多くに彼のスタイリングを反映させた。GMが自動車業界首位の座を射止めることに成功すると、同部門の責任者を引き続き務める一方、同時にGM副社長を兼任。モデルイヤー制の導入によりスタイリングを常に変化させ、消費者の購買意欲をそそる計画的陳腐化政策、自動車ショーにおけるコンセプトカーの製作・出品などの新機軸を次々に打ち出していく。第二次世界大戦が終結すると、彼は航空機にインスパイアされたテールフィン、欧州製スポーツカーからヒントを得たコークボトルラインなどのデザインアイコンを積極的に新車に取り入れ、それらが大衆に熱狂をもって受け入れられたことからGMは自動車業界の世界的なトレンドリーダーとなった。1969年に自動車殿堂入りする。
コルベットは軽量化のため、スチール製フレームにグラスファイバー製ボディを組み合わせるなどの新機軸が取り入れる一方で、コスト低減を図るため、主要なパーツはシボレーの大衆車のものが流用されていた。心臓部も既存の235cu-in(3.9L)直列6気筒OHV『ブルーフレーム』エンジンを搭載しており、高圧縮比化とハイリフトカムシャフト、3基のカーター製サイドドラフトキャブレターにより、最高出力はナッシュ・ヒーレーを上回る150hpを叩き出したのである。
GMは発売初年度こそフリントにある古いトラック工場で職工による手作業によりクルマを製造していたが、翌1954年からはコルベット生産のために建設されるミズーリ州セントルイスの新工場へ製造ラインを切り替えると発表していた。そして、GMはコルベットの目標生産台数を年間1万台に掲げたのである。

1953年のモデルイヤー後半に発売を開始したコルベットは、量産効果を期待して新車価格を2943ドル(1ドル145円として現在の価値で邦貨換算すると384万600円)に抑えられた。1953年型のコルベットはコンバーチブルのみの設定でクーペは選べず、ギアボックスは2速ATの『パワーグライド』しか選べないなど、スポーツカーとしては些か中途半端なところがあった。また、初期型はグラスファイバー製ボディの品質に難があり、走行中にドアが開く、トップから雨漏りがするなどの問題が生じていた。
実際に1954年10月に『ポピュラーメカニクス』誌が行ったオーナーへのアンケート調査では、回答者の36%がすでに外国製のスポーツカーを所有しており、それらと比較して「コルベットは真のスポーツカーたりえない」との回答が多くを占めていた。しかし、同時に「クルマとしての完成度には満足度しており、価格も手頃で、総合評価としてはヨーロッパ製のスポーツカーを上回る」との回答が半数を超えていたのである。

ナッシュ・ヒーレーはシボレー・コルベットの登場でさらなる痛手を負うことになる。前年までの販売不振から立ち直れずにいたところにGMが新型スポーツカーを発表したことで、1954年型ナッシュ・ヒーレーは同年6月3日まで発表時期を延期し、コルベットとは直接競合しないクーペに生産を絞ることにした。価格を5128ドル(1ドル145円として現在の価値で邦貨換算すると669万2000円)まで引き下げたが、市場はコルベットの話題で持ちきりとなっており、同車の売れ行きにはまったく影響がなかったのだ。
しかも、モータウン(=デトロイト)でまことしやかに囁かれていた噂では、来年(1955年)にはフォードもコルベットに対抗する手頃な価格の新型スポーツカー(のちのサンダーバード)を発売するというのだ。フォードが意図的にリークしたと思しきこの噂はメイソンの耳にも当然のように入っていた。

メイソンはナッシュ・ヒーレーの生産終了を決断し後継車開発を模索するが……
こうした市場の変化に巻き返しが困難なことを悟ったメイソンは、腹心のジョージ・W・ロムニーの説得もあり、1954年8月限りでナッシュ・ヒーレー・シリーズ25の生産を泣く泣く打ち切ることを決定した。
生産中止が決まったときにメイソンは「こんなにも素晴らしいクルマがどうして売れなかったのだ……」と彼にしては珍しい弱音をこぼしたという。そして、このときばかりは130kgを超える巨漢の彼が、哀れなほど小さく見えたと伝えられている。1954年に販売された同車はわずかに90台。売れ残った数台は翌年に1955年型として登録された。

■Specifications
全長×全幅×全高:4585mm×1673mm×1397mm
ホイールベース:2743mm
車両重量:1424kg
エンジン:252cu-in (4.1L)直列6気筒OHV『ル・マン・デュアルジェットファイア・アンバサダー・シックス』
最後出力:140hp
最大トルク:31.8kgm
燃料供給装置:カーター製ツインキャブレター
トランスミッション:オーバードライブ付き3速MT
駆動方式:FR
サスペンション形式:(前)インホイール型ダブルウィッシュボーンサスペンション/(後)トレーリングリンク
ブレーキ形式(前後):ドラム
新車価格:5128ドル
1951年からの4年間にラインオフしたナッシュ・ヒーレーはわずか506台。生産台数の少なさからナッシュ・ケルビネーター社は同車を1台製造するごとに9000ドル以上の損失を出したと伝えられている。

本来なら2度目のマイナーチェンジが不振に終わった時点で、メイソンはナッシュ・ヒーレー・シリーズ25にさらなるテコ入れをするべきだったのかもしれない。事実、チーフデザイナーのエド・アンダーソンからは、鋭角なフロントノーズに、美しいコークボトルラインのボディを組み合わせたスポーツカーを次期モデル・ウィスプとして提案されていた。それは奇しくも1963年に登場するスティングレイのサブネームを持つ、2代目コルベット(C2)によく似たスタイリングだったという。

だが、スポーツカーの開発を委託していたドナルド・ヒーレー・モーター・カンパニーは、その頃にはオースチンとの関係を強化しており、オースチン・ヒーレー100(ビッグヒーレー)に開発・生産の主軸を移していた。

そのためナッシュ・ケルビネーターからの新たな仕事を受けるリソースはなくなっていたのだ。また、資本力に勝るビッグスリーの販売攻勢が始まっている中で、経営規模の小さいメイソンの会社には、たいして利益を見込めない製品にこれ以上貴重な経営資源を割く余裕もなくなっていたのだ。

それでもスポーツカーを諦めきれなかったメイソンは、コルベットを手本として、大衆小型車のランブラーをベースにした利益率の高いスポーツカーのデザイン・設計・開発をピニンファリーナに依頼している。
パームビーチと名付けられたこのスポーツクーペは、1955年5月のナッシュ・ケルビネーター社とハドソン社との合併によるアメリカン・モータース(AMC)の設立や、同年10月のメイソンの突然の訃報を挟みつつ、プロジェクトは細々とではあるが続行され、1956年にプロトタイプが完成した。

メイソンの忘形見とも言えるこのクルマは、1956年に開催されたトリノ・モーターショーでピニンファリーナのブースに展示され、その後AMCに引き渡された。しかし、量産計画はキャンセルされ、長らくカーマニアとして知られたAMCの4代目会長兼CEO、ロイ・D・チャピン・ジュニアの個人コレクションとなっていた。

商業的には失敗に終わったナッシュ・ヒーレー
しかしアメリカエンジン×ヨーロッパシャシーの先駆者としての功績は大きい
ナッシュ・ケルビネーター社の後継会社となったAMCの廃業から37年。一般的なアメリカ人に「アメリカ初の量産スポーツカーは?」と尋ねれば、おそらく「シボレー ・コルベット」との応えが返ってくるだろう。今やナッシュ・ヒーレー・シリーズ25は人々の記憶から忘れ去られ、自動車史の1ページに名を連ねるのみである。

しかし、商業的には失敗したとは言え、このクルマが残した功績は大きい。大西洋を挟んでアメリカとヨーロッパが共同でスポーツカーを開発・生産するという斬新なアイデアは、その後、1960年代初頭にキャロル・シェルビーに受け継がれてシェルビー ・コブラとして結実した。

それ以降もイソ・リヴォルタ・グリフォ(1965年)やジェンセン・インターセプター(1966年)、モンテベルディ・ハイスピード(1967年)、デ・トマ・ソ・パンテーラ (1971年)など、多くのフォロワーが誕生している。



1971年のニクソン・ショック以前、ヨーロッパの通貨に対してドルは圧倒的に強く、アメリカ市場への輸出を前提としたアメリカンV8の心臓を持つスポーツカーの製造・販売ビジネスは、このように隆盛を極めたのである。

というのも、1960年代当時はヨーロッパのサーキットでフォードGT40が猛威を奮っていたことからもわかる通り、1966年にランボルギーニ・ミウラが登場するまで、ヨーロッパにはアメリカンV8に匹敵する大排気量・高出力・高性能な重量級スポーツカーに適したマルチシリンダーのエンジンが存在しないという事情があったからだ。

なにもアメリカ人の好みに寄せたことだけが理由ではなかったのである(もっとも、上記のクルマの中で着実に利益を上げられたのはコブラくらいなものだったが……)。

ナッシュ・ヒーレーはV8の心臓こそ持たなかったものの、当時のヨーロッパにはない大排気量エンジンを搭載しており、そうした意味において、メイソンのアプローチはじつに先駆的であった。
敏腕経営者も狂わせる”スポーツカーをラインナップする”という魅力
メイソンとナッシュ・ヒーレーの失敗は、1950年代のアメリカにはスポーツカー文化が充分に育ちきっていない中で市場に果敢にチャレンジした蛮勇とコスト意識の低さ、彼自身が知らず知らずのうちにスポーツカーに魅了され、冷静な経営判断を逸してしまったことにほかならない。

初速の不振が明らかになった時点で「アメリカにはスポーツカー市場はない」としてナッシュ・ヒーレーを見切り、これ以上の余計な投資を控え、数年ののちに静かにラインナップからフェードアウトさせていれば、ナッシュ・ケルビネーター社はあるいは赤字をずっと縮小することができたのかもしれない。
だが、度重なるヨーロッパ視察で幾度となく目にして、「いつか我が社でもヨーロッパ車に負けないスポーツカーを作りたい」「アメリカで初めてスポーツカービジネスを成功させたい」と夢見てしまったメイソンには、そうした冷静な判断ができぬまま、ずるずると泥沼にハマってしまったのである。これはそれまでの敏腕経営者としてのメイソンの経歴からは考えられないような失敗だ。

だが、そのことをもって彼を責めることはできない。優秀な経営者をも狂わせるだけの魔力がスポーツカーにはあるのだ。アメリカの自動車メーカーのトップとして初めてスポーツカーの魅力を知り、その虜となって企業経営者としての立場よりもひとりのエンスージアストであることを優先した人物がジョージ・W・メイソンという男だったのである。
そのことはナッシュ・ヒーレーの生産終了からわずか2ヶ月後に彼がこの世を去ったことからも明らかであろう。彼の晩年はAMC設立という大仕事があったにせよ、自身の手掛けたスポーツカーのために生き、その夢に破れ、いのちの炎を燃やし尽くした結果であったのだ。