伝説のデザイナー「ジウジアーロ」 いすゞ117クーペを生んだ「デザインと技術は両輪」の秘密を探る【連載第二回】

4月に幕張メッセで開催されたAutomobile Councilにジョルジェット・ジウジアーロが登場。11日(金)と12日(土)のトークショーは大盛況だった。言わずと知れたカーデザインの巨匠だが、彼のどこがすごいのか? ジウジアーロ取材歴40年のデザインジャーナリスト千葉匠が解説、連載第二回目をお届けしよう。

TEXT:千葉 匠(CHIBA Takumi) PHOTO:Italdesign/NISSAN/三栄

クライアントとの協業にこだわる

今回のAutomobile Councilには、ジウジアーロがいすゞのためにデザインしたアッソ・ディ・フィオーリも展示されていた。79年ジュネーブショーでデビューしたショーカーであり、それを量産化したのが81年のピアッツァだ。

いすゞ・ピアッツァ

いすゞはピアッツァを発売するにあたって、ジウジアーロを広告に登場させた。ちなみにGiugiaroの発音は「ジュジャーロ」のほうが近いが、いすゞが広告で「ジウジアーロ」と書いて以降、この表記が広まった経緯がある。

続く84年の2代目ジェミニ(別名初代FFジェミニ)はピアッツァの面影を宿すデザインだったが、いすゞは当初、ノーコメントを貫いた。広報部長からこう耳打ちされたのを覚えている。「ピアッツァで広告に出演してもらったら高額な請求書が来たので、今回は何も言わないことになっている」。しかしそれだけではなかった。

2代目ジェミニ(別名初代FFジェミニ)

ジェミニの登場から数年後、デザイン部長が意外なエピソードを教えてくれた。当時のいすゞはGM傘下で、ジェミニはGMでも販売するため、デザインの最終審査にはGMデザインのトップであるチャック・ジョーダン副社長が出席。ジウジアーロ案で進めていた原寸大モデルを見たジョーダン副社長は、ボディサイドのプレスラインを少し上げるように修正を指示した。そして修正後のモデルを見たジウジアーロは「これは私のデザインではない!」。かくして彼の関与を公表できなくなった、というのだ。

ところがその後、ジウジアーロから筆者に送られてきた『giugiaro ITALDESIGN』には、意外にもジェミニが掲載されていた。記事によると「変更されたのはディテールであり、全体のデザインを決定づけるものではない。路上でジェミニを見たジウジアーロは、それが彼の創作物であることを”感情的”に認めた」。

プレスラインの高さ変更はわずか15mmだったが、ジウジアーロは怒った。その理由を記事は「いすゞとはお互いに敬意を持って何年も開発してきたのに、いくら偉大なメーカーとはいえ第三者が、相談もなくデザインを変更するのを彼は承服できなかった」と説明している。

Automobile Councilのトークショーに登壇したジョルジェット・ジウジアーロ氏

Automobile Councilのトークショーで、ジウジアーロと共に登壇した中村史郎さんは「83年に初めてイタルデザインを訪問した。スケッチ・セレクションのためだった」と語っていた。日産デザインを指揮して有名になった中村さんだが、キャリアのスタートはいすゞ。タイミングを考えれば、ジェミニのプロジェクトでジウジアーロが用意したいくつかのスケッチから、次に進めるべき案を選びに行ったのだろう。「巨匠にお任せ」ではなく、いすゞ側からも意見を出しながら開発を進めていたわけだ。

前述のように、初代パサートでジウジアーロは当初案を拒否された。初代ゴルフの開発でも、VW側からいくつも変更要請があり、それを受け入れながらデザインをまとめたという。自分の提案をゴリ押しして、通らなければ怒りをぶちまけるような人ではない。ジェミニで怒ったのは、クライアントと一緒に育んできたデザインに横槍が入ったから。ジウジアーロというデザイナーの仕事に対する姿勢が、そこに垣間見える。

逆のケースもある。日産が82年に発売した初代マーチは、日産車オーナー向けホームページに「ジウジアーロ氏にデザインを依頼した」と書かれているが、『giugiaro ITALDESIGN』には掲載されていない。現在のイタルデザインのホームページはジウジアーロが会社をアウディに売却して以降に開設されたものだが、そのアーカイブページにもマーチの名前はない。

日産・初代マーチ

80年代末頃のこと、日産のデザイン部門で初代マーチの開発を間近に見ていた人に話を聞く機会があった。当時の日産はジウジアーロの関与を認めていなかったが、「デザインを依頼したのは事実」とした上で、「ジウジアーロさんの提案をベースに社内で最終案を開発する過程でデザインが変わり、オリジナルの良さが薄れてしまった」

生産化に向けて設計要件を織り込でいくなかでデザインが多少とも変わるのはよくあること。だからこそ「生産化可能なデザインを提案する」のがジウジアーロの信条だ。日産のホームページにも当時の関係者の証言として、「デザイン会社なのに技術をしっかり理解しているのが印象的だった」と記されている。

にもかかわらず、なぜイタルデザインの公式記録からマーチが消されたのか? そのヒントも日産のホームページにある。「(デザインを依頼した)目的は市販車として完成させるのではなく、ヨーロッパにおけるコンパクトカーの基準を学ぶことだった」というのだ。

デザイン提案を見て「学んだ」後はこちらで勝手にやります、というのはジウジアーロが望む進め方ではない。知らないうちにデザインが変更されたとなれば、なおさらだ。当時の日産はジウジアーロのこだわりを察していなかったのだろう。

デザインと技術は両輪

いすゞ・117クーペ

ジウジアーロのデザイン提案が初めて生産化された日本車は68年のいすゞ・117クーペ。ベルトーネからギアに移籍したばかりの頃のデザインだ。ギアではすでに別のデザイナーがいすゞのために117セダン(フローリアンの名で発売)をデザインしていたが、急遽、クーペも提案することになった。

それをジウジアーロが担当し、3ヶ月後の66年春、ジュネーブショーでデビューしたのが117クーペのプロトタイプ。会場を訪れたいすゞの役員が、その場で生産化を決めた。

1966年のジュネーブショーに出品されたプロトタイプ。ドアハンドルの形状などに違いはあるが、ほぼ量産車に近いスタイルだ。

Automobile Councilのトークショーでジウジアーロは、「117クーペの開発中に初めて日本に来た。自分と日本を結び付けてくれたクルマだ」と振り返った上で、こう語った。「プロトタイプのままの設計では生産できないので、設計会社の協力が必要だった」

彼が頼ったのがアルド・マントヴァーニだ。フィアット出身のエンジニアで、トリノでウティヴ(UTIVV)という設計会社を経営していた。66年にギアの新しいオーナーになったアレッサンドロ・デトマソとの関係に悩んだジウジアーロは独立を決意し、67年にマントヴァーニと共にイタルスタイリング(翌年にイタルデザインに改称)を設立。その初仕事のひとつが117クーペの生産化設計だった。

いすゞ・117クーペ

ピニンファリーナやベルトーネといった老舗のカロッツェリアは当時、「フオリセリエ」を主たる収益源にしていた。ワンオフもしくは少量生産をイタリア語でフオリセリエ(直訳すれば非量産)と呼ぶ。しかしジウジアーロが考えたのは、生産はやらず、デザインと技術を両輪とする新たなビジネスモデルのカロッツェリア。これが成功した。

創業まもないイタルデザインは三菱から小型車の「S計画」を受注し、デザインから車体設計、金型手配まで担当。これは三菱側の事情で生産化に至らなかったが、アルファロメオのアルファスッド(71年)やヒョンデの初代ポニー(75年)では同様にデザインとエンジニアリングの両方を手掛けた。

キアルファロメオ・アルファスッド
ヒョンデ・初代ポニー

デザインよりエンジニアリングのほうが、はるかに売り上げは大きい。おかげでイタルデザインは資金面で順調に船出できたわけだが、ジウジアーロはエンジニアとタッグを組むことで、「生産化可能なデザインを提案」できるという強みも同時に得た。そのきっかけが117クーペだったというのは、日本のクルマ好きにとって意義深いことに違いない。

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著者プロフィール

千葉 匠 近影

千葉 匠

1954年東京生まれ。千葉大学工業意匠学科を卒業し、78〜83年は日産ディーゼル工業でトラック/バスのデザ…