牧野茂雄の「2022年私的」キーワード その3:「な・な・め」

2022年キーワード「な・な・め」追加で何が変わるのか?「オブリーク・テスト」が追加されたら、どうなる?

【図6】
2022年、自動車業界には何が起きるのか……ちょっとひねったキーワードを5つ挙げる。直球はつまらないので変化球でお届けする。3つめは「な・な・め」だ。アメリカは斜め前方衝突を1〜2年の間に基準に加えるだろう。EUではすでに「反対側乗員への危害」についての基準が追加になった。そして日本でもシートベルトの「斜めベルト」部分の加害性が問題になっている。これらは世の中で起きている事故への対応だというが……。
TEXT◎牧野茂雄(MAKINO Shigeo)

前方斜め15度からぶつける「オブリーク・テスト」

「前方斜め」追加で衝突安全基準がますます厳しくなる。
3点式シートベルトの「斜めベルト」部分も乗員に危害を加える。
衝突安全は「な・な・め」の世界に入った。

アメリカの自動車安全情報公開機関であるNCAP(ニュー・カー・アセスメント・プログラム)に、前方斜め15度からぶつける「オブリーク・テスト」の追加が予定されている。当初は2019年モデル(通常、2018年夏から秋にかけて発売)でNCAPに適用する予定だったが、トランプ大統領の時代に再検討となり、そのまま延び延びになっている。「2022年中の導入決定はないだろう」とは言われているが、中間選挙で民主党が勝利した場合は「ひょっとしたら」かもしれない。

【図1】

このテストはNHTSA(国家道路交通安全局)が考案した。センターラインを越えて反対側車線にはみ出し対向車とぶつかる事故を想定したものだ。【図1】のように、重量2486kgという重たいOMDBを90km/hという高速で静止している試験車両にぶつける。試験にはワイヤーで引っ張る自走式台車MDB(ムーヴィング・デフォーマブル・バリア)が使われ、オブリーク試験用のMDBなので頭にO=オブリーク(oblique:斜めの)が付く。

2017年ごろ、日本と欧州の当局にオブリーク・テストの概要が伝えられたときは、日欧ともに「必要のない試験」と判断した。しかし、アメリカでは居眠りや飲酒または薬物使用のドライバーが「この手の高速衝突事故を起こしている」ことから、NHTSAは基準への導入が必要と判断していた。

【図2】THOR

同時に、NHTSAが国家予算を使って開発したTHOR(ソア)と呼ばれる新世代ダミーがこの試験では使われることになっている。【図2】はNHTSAが公開したTHORダミーの外観だ。現在の主力ダミーであるHYBRIDⅢは計測機器の出力が39チャンネルだが、SHORは標準型で144チャンネルを確保できる。

これで何が変わるのかと言えば、人体の表皮と骨格を模したダミーの隅々に荷重計などのセンサーを数多く取り付けられるため、より詳細な人体損傷のデータを収集できるようになる。データ数が多くなれば、それだけ衝突安全対策を緻密にできる。ちなみにTHORは1体1億円以上であり、オプションを追加してゆくとさらに5000万円くらい高くなると言われる。

製造はアメリカのヒューマニテクスが担当するが、ダミーを構成するすべての部品に規格があり、これはNHTSAが開示するため、ヒューマニテクスが独占するわけではない。日本にもジャスティというダミー部品メーカーがある。

このTHORダミーを欧州も使う。欧州で情報公開目的の衝突安全試験を実施しているユーロNCAPは、側面衝突時に「反対側の乗員」が受ける傷害を測定する項目を追加した。運転席ドアにMDBをぶつける試験だが、どのような人体損傷になるかをTHORで計測する。

側面衝突では、運転席に座らせたダミーは運転席ドアの窓ガラス方向に傾き、そのあとは助手席方向に傾く。いっぽう、助手席に座らせたダミーは助手席ドア方向に傾いてから、反動で運転席方向に傾く。運転席に座っているダミーが助手席方向に傾く動作と、助手席に座っているダミーが運転席方向に傾く動作とがピタリ合ってしまうと、互いに「斜め」になってゴツン、つまりぶつかってしまう。その様子が【写真3】だ。

【図3】
【図4】

この試験の目的は、衝突から遠い側(ファーサイド)の乗員に危害が加わらないようにすることだ。試験方法は【図4】のように通常の側面衝突試験と変わらないが、助手席にもダミーを座らせる。THORは衝突自動車の衝撃で頭部に加わるXYZ方向の角速度を計測できるため、これを合成すると頭部の回転という現象がわかる。従来のHYBRIDⅢでは「目に見える頭蓋の傷害」としてのHIC(ヘッド・インジャリィ・クライテリア=頭部傷害基準)を評価していたが、THORを使えば「脳の内部損傷」までを推定できる、という。

現在、すでに欧州車を中心に側面衝突時に運転席と助手席の間に「ついたて」のように出てくるセンターエアバッグの装備が進んでいる。ドライバーと助手席乗員がそれぞれ斜めに倒れ込んでぶつかってしまうときの衝撃を和らげる装備である【写真5】。欧州では「センターエアバッグは必須」と言われ始めたが、日本国内の事故例では側面衝突時に左右並んだ座席の乗員同士がぶつかるというケースは少ない。日本ではいたるところに信号があり、見通しの悪い交差点での出合い頭の「直衝突事故」が少ないためだ。

【図5】

欧米では、見晴らしの良い「なだらかな丘の頂上」が馬車時代の分かれ道だった。その道がそのまま自動車の道路になり、信号がない交差点では側面衝突が多かった。1980年代にアメリカはいち早く側面ドア内に補強のための鉄板やパイプを入れるようになった。事故実態を反映した対策である。日本は特段必要なかったが、NHKが「安全装備の内外格差」という報道キャンペーンを敷き、その結果、日本でも側面衝突基準が作られた。

当時のアメリカの事故統計を見ると、死亡事故の約3割が側面衝突だった。しかし日本では5%程度であり、当時の運輸省は「危急の課題ではない」と判断していた。そこに「アメリカにはあるのに日本にはない」という幼稚なわがままを振りかざしたのがNHKだった。当時は前面衝突への対応が最優先だったが、これをNHKが方針転換させた。

アメリカで安全基準法規であるFMVSS(連邦自動車安全基準)を決めるのはDOT(運輸省)だが、技術的な検討はDOT内のNHTSAが担当する。また、交通事故にからむ保険料の支払いを行なう保険会社の団体であるIIHS(道路安全保険協会)の影響力も大きい。IIHSは独自のルールによる衝突安全試験を行ない、その結果を「基準強化すべき証拠」としてNHTSAに提供し、基準の改定や項目追加を進言する。

どの対策を優先すべきかは事故調査に基づく科学的データがベースになる。日本では、1980年代には「どちらがどれだけ悪いか」という過失割合を特定するための警察による現場検証記録ぐらいしか調査データがなかった。1992年に日本自動車工業会も出資した交通事故総合分析センター(ITARDA)が設立されるまでは、日本では科学的な事故分析が行なわれていなかった。そこは警察庁所管の「聖域」だったためだ。

ITARDAには警察庁(事故現場の調査)、運輸省(自動車の保安基準を所管)、建設省(道路建設の主体)が参加し、自動車メーカーからは技術者が参加し、日本で初めての本格的な事故調査が行なわれるようになった。今年でちょうど30周年である。

ITARDAでの調査は、交通事故で入院した人の治癒過程まで網羅された。どのような人体損傷が社会復帰を遅らせてしまうかを調べ、それをクルマ側の安全対策に取り込むためだ。そのなかで、まったく規制になかった下肢損傷が問題であることがわかり、衝突時に脱落するペダルの実用化を促したという成果もある。

一旦コトが動き始めると日本は早い。知恵も技術も集まる。事故調査データの蓄積は膨大になり、その中から新しい問題点が浮き彫りにされた。高齢者がシートベルトでケガをするという問題点だ。

THUMSでわかった「斜めベルト」の危険性

【図6】

【図6】は前面衝突時にシートベルトが乗員を拘束し、乗員の前方移動を受け止めるエアバッグが展開しているというシーンだ。単なるCGではなく、衝突実験のデータにトヨタ/豊田中央研究所が研究を続けている人体内部の臓器データであるTHUMS(サムス)を組み合わせたもので、実際のシミュレーション画像である。

THUMSは臓器損傷シミュレーションが可能なバーチャルダミーであり、循環器系、消化器系、呼吸器系のモデルが入っている。すでに研究は30年近く続けられている。GHBMC(グローバル・ヒューマン・ボディ・モデル・コンソーシアム)とともに、この方面の実績は欧米でも評価され、使用されている。

このTHUMSによるシミュレーションと実際の人体の損傷データから、シートベルトの「斜めベルト」部分が人体に影響を与えていることがわかった。日本では自動車乗車中の交通事故死傷者の50%以上が65歳以上の高齢者であり、高齢者対策が急務になった。

体型を比べてみれば【図7】のような差がある。従来、衝突安全試験ではアメリカ人男性の50パーセンタイル(全サンプルの50パーセントがここに含まれるという意味)をカバーする体型として身長175cm・体重78kgのAM50(アメリカン・マン・50)というダミーが使われてきた。しかし、アメリカ人に比べて小柄な日本人には、このダミーサイズは必ずしも適さない。

【図7】

そこで、より小さいサイズのダミーが開発された。これに臓器へのダメージも再現できるTHUMSでのシミュレーションと、日本自動車工業会が開発したFE(Finite Element)モデルを加え、高齢者の身体への「斜めベルト」の加害性を調べる研究が行なわれている。

現在のシートベルトも人体への加害性を少なくするためのロードリミッターを備えている。ロードリミッターの荷重を2~5kNでシミュレーションすると、リミッター値を低くするとステアリングと顔面が接触する危惧があるものの、「胸部たわみ量」は小さくなる。逆に頭の移動量は大きい。成人男性だとロードリミッター値にかかわらず肋骨骨折はゼロだが、高齢者の特性を入力すると3~5kNでは肋骨骨折してしまう。

この理由のひとつは、肋骨の断面周囲を覆う皮質骨が薄くなり、ここに衝撃が集中するためだ。また、FEモデルを使った解析では、肋骨が折れる順番も特定できた。ロードリミッターだけでは対策できない内容だという。現在、この「斜めベルト」をどう改良すべきかの研究が進められている。2022年中には一定の成果に期待できるだろう。

以上、衝突安全の分野では「な・な・め」が現在のキーワードである。

筆者は1980年代に運輸省記者クラブ詰めを担当したことで安全分野の取材を始めた。スウェーデンのボルボ・カーズ(VCC)を始めメルセデス・ベンツ(当時)や国際基準を扱うECE・WP29(国連欧州経済委員会ワーキングパーティ29=自動車部会)、NHTSA、ユーロNCAP創設に動いたイギリスのTRL(輸送技術協会)などを取材した。安全分野は筆者のライフワークになった。

非常に印象深かったのは、1990年代のオーストラリア運輸当局者への取材だった。自動車市場としては小さなオーストラリアが独自のNCAPを実施し、安全情報を国民に提供していた。なぜか?

「日本を心底信頼していないからだ。オーストラリアは日本車のシェアが高いが、1945年に日本が何をしていたか。人間が乗った飛行機を軍艦に突っ込ませていたではないか。表立ってはけして言わないが、我われはまだ憶えている」

この発言から二十数年を経て、日本への見方は変わっただろうか。

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著者プロフィール

牧野 茂雄 近影

牧野 茂雄

1958年東京生まれ。新聞記者、雑誌編集長を経てフリーに。技術解説から企業経営、行政まで幅広く自動車産…