孤高の存在として歩みを終えた、真面目過ぎた優等生・エアトレック

【アーカイブ・一世一台】石橋を叩き過ぎてタイミングを失した三菱エアトレック

三菱エアトレック24V-S(4WD)。当時の筆者にはブレーキの効きがやや鈍く感じたが、走りの印象は可もなければ不可もなかった。
何代も代替わりでその名が永く継承されるクルマもあれば、一代限りで途絶えてしまうクルマもある。そんな「一世一台」とも言うべきクルマは、逆に言えば個性派ぞろいだ。そんなクルマたちを振り返ってみよう。(初出:2020年9月20日)

SUVの新潮流、シティSUVの成立

20世紀最後の年となる2000年は依然として、バブル景気の追い風を受けて1980年代後半から盛んになったリゾート開発と、それに伴って進展したアウトドアレジャー・ブームの影響から人気に火がついたRVブームの只中にあった。

エアトレック24V。「SUVとしてのストレスをなくした、自由に使えるクルマ」が狙いだった。

RVとは“レクリエーショナル・ヴィークル(余暇のためのクルマ)”の英頭文字をとったもので、そもそもは日本で言う“キャンピングカー”のことを指すが、日本では野外レクリエーション全般を楽しむクルマを指すものと拡大解釈された。

さて、日本でこのRVに分類された車両は、当初はクロスカントリー車(クロカン車)と呼ばれたトヨタ・ランドクルーザーや三菱パジェロのような全輪(四輪)駆動実用車が主体だったが、やがて1980年代にトヨタ・ハイラックスサーフや日産テラノのようなSUVが加わり、こちらも高い人気を得ていく。

強い個性と言うよりは、多くのユーザーに受け入れられ、使って喜ばれることを目指した。そのため、「この部分がずば抜けて良い」という点もなかったのだが…。

現在も高い人気を誇る“SUV”とは、言うまでもなく“スポーツ・ユティリティ・ヴィークル”の英頭文字をとったもので、もともとは“スポーツ用品・用具の収納保管区画を持つ実用車”を意味した。ラダーフレームのシャシーにセダンのようなボンネット型キャビンを備えたピックアップトラックの開放された荷台に、積載物が落ちたり濡れたりしないよう、帆布製の幌などではなく、FRPや軽金属製の簡単なしつらえのハードトップを架装したクルマの事を言った。つまりステーションワゴンの実用性とピックアップトラックの堅牢性を備えたクルマである。

ほぼ同時期、この、ラダーフレームのピックアップトラックをステーションワゴン化する本道の流れとは反対に、モノコックフレームのステーションワゴンや乗用車にピックアップトラックの堅牢性と走破性を与える流れが出てくる。これがいわゆるクロスオーバーSUVと呼ばれるクルマで、日本ではトヨタRAV4やハリアーが先駆けとなった。

T字型インパネは1960年代のスポーツカーをモチーフにしたという。インパネシフトだが、ウォークスルーを意識してはいない。全車スポーツモード付き4速AT(インベックスⅡ)で、運転を楽しむための敷居は下げられている。

このクロスオーバーSUVのなかでも、外観も走行性能もオフロードにこだわらず、特にオンロードでの走行性能を重視したものが誕生してくるが、これを“シティSUV”とか“都市型SUV”などと呼んだ。日本における嚆矢が1997年のスバル・フォレスターで、これは現在まで続く大ヒットとなっているのはご存じの通りだ。

しかし、この時点ではまだ“シティSUV”なるコンセプトは極めてモヤモヤとしたもので、到底、周知されていたとは言い難かった。当時の資料を引っかき回して再読してみても、そもそもスバル自体が、自分たちだけは「なんとなく」頭の中でわかっていたものの、他人に対して明確な定義を示す言葉が見出せていなかったように感じる。後に続いたのは、2000年に入って登場した日産エクストレイルぐらいだったが、両車種は好評をもって市場に受け入れられていた。

もともと「ワゴン+2列シート・ミニバンのユーティリティを備え、かつ相当レベルのラフロードを走破できるオフローダー的要素を備えたもの」がエアトレック。ゆえに室内居住空間はSUVにしては広く、快適性が実現されている。

このシティSUVの登場が、実はSUVという概念に大きな変化をもたらしていた。“スポーツ・ユティリティ・ヴィークル”の“スポーツ”が、クルマの荷室に積載できる長尺や大容量のスポーツ用品や用具のことではなく、車両そのもののスポーツ走行性能の方を意味するようになってきたのだ。

「SUV=スポーツ走行の出来る汎用車両」--それを世界的に決定付けたのが2002年のフォルクスワーゲン・トゥアレグ/ポルシェ・カイエンの兄弟車(後にアウディQ7も加わり3兄弟)の登場だろう。ここにおいてSUVは「全輪駆動性能と地上クリアランスの高さによる全路面対応スポーツカー」的な意味を強く持ち始め、現在に至っている。この流れにおいて、SUVとは、「アメリカが作り、日本が発展させ、ドイツが完成させたカテゴリー」という見方が出来るかもしれない。

荷室は通常は長さ840mm×幅1300mm(最狭部1100mm)×高さ780mmだが、後席背もたれを倒すと長さ1480mmに。前席背もたれをフルリクライニングさせれば車中泊も可能だった。

さて、SUVがその定義を変質する直前、20世紀最後の年となる2000年のこと。日本国内自動車メーカー第4位の地位にあった三菱自動車は、バブル崩壊から長引く不況の影響から深刻な大型車の売れ行き不振のさなか、社内告発により組織的なリコール隠しが発覚、経営トップが引責辞任する事態に見舞われた。商品品質に対するユーザーの不信感が増大して企業イメージは低落、それはほとんど全商品に波及してさらなる売れ行き不振を招くことになる。その結果、大幅赤字に陥り、同年7月にはダイムラー・クライスラー社(当時)と乗用車事業における包括的提携契約を締結、その救済を求める状況にあった。

現在ではあまり気にならなくなったが、エアトレックは立体駐車場への駐車を考慮して全高が抑えられた。この点だけ取ってもシティSUVなのである。

そんな背水の陣ともいえるなか、ダイムラー・クライスラー社の指揮下、『三菱自動車ターンアラウンド計画』 の第一弾として、また、品質管理にドイツ流儀の“クオリティ・チェック・ゲート”方式を導入した第一弾として2001年に登場したのがエアトレックである。

あまりにも真面目が過ぎた優等生

エアトレックは、“スマートオールラウンダー”を標榜したシティSUVで、6代目ランサー(CS型。いわゆるランサーセディア)のプラットフォームを共有する。一般にエアトレックはチャレンジャーの後継車とされるが、ランサーのプラットフォームを共有する商品企画として考えると、実は先代、5代目ランサー(CM型)のプラットフォーム共有商品企画であるRVRの傍流と考えた方がわかりやすいかもしれない。

巷間、エアトレックはダイムラー・クライスラー社の意向が強く反映されているクルマだと言われるが、それはおそらく前年に発売された、フォードと共同開発されたマツダのトリビュートからの想像力過多による推測か混同であろう。

エアトレックにランエボゆずりのターボエンジンを搭載した“SUV版ランエボGT-A”とでも言うべき『TURBO-R』が登場したのは、発売から約1年後のこと。時期を失した感は免れなかった。

開発チームのリーダーである岩本裕彦プロジェクト・マネージャー(当時)によれば、「エアトレックは1998年6月に企画が立ち上がっており、さらにその前年の暮ごろから、商品企画の小島正人グループ長(当時)による先行企画が始まっている」ので、車両企画にダイムラー・クライスラー社の意向を反映させる時間的な余裕など無い。

「エアトレックはこれまで三菱にはなかったコンセプトのクルマだっただけに、むしろ社内的には“中途半端なクルマ”という冷たい評価もあって、開発途上ではなかなか上層部のコンセンサスが得られませんでした。仮に“ダイムラー・クライスラー社の意向が反映された”という点があるとすれば、ダイムラー・クライスラー社の幹部はすぐにエアトレックのコンセプトを理解し、開発チームが動きやすくなったという点です」と岩本氏は語っている。また、同社からは品質の玉成に対して念を入れるよう指示され、ドイツ流儀の“クオリティ・チェック・ゲート”方式も相まって、発売は予定より半年遅れたとも言う。

1999年の東京モーターショーに出展されたコンセプトカー『SUWアクティブ』。実はエアトレックの途中経過の一つで、量産前提で進められていたという。「ユーザーが若い世代に限られてしまう」ということで不採用になったが…。

暴言を承知で書けば、エアトレックは商品コンセプトのわりにメカニズムなどの内容が堅実過ぎて恐ろしく地味だった。これをもって「ドイツ流儀の“クオリティ・チェック・ゲート”方式のために冒険が出来なかった」という言説も散見されるが、それもまた正確性を欠く。当時、商品企画担当の小島氏は、「(アクティブな走りを創造するためには)ハイテクは必要ありません。しかし知恵と技術を玉成したものであるべきだ、と考えたわけです」と語っている。つまり新技術に頼るのではなく、既存技術を徹底的に磨き抜こうという考え方だ。そもそもの方向性が“堅実”だったのである。

またエンジンについては「運転が容易でしかも俊敏でなくてはならないわけですが、かなり車重が増えていますから、あくまでトルク重視で行くことにしたわけです」と岩本プロジェクト・マネージャーは語っているが、2.4ℓが4G64型GDIなのは当時の順当な選択として、2ℓはなんと4G63型ECIマルチ。16バルブだがSOHCだ。同じ4G63型でもランサーエボリューションなどに搭載されたターボ版などとは違い、いささか旧式と言わざるを得ない。筆者でさえ、当時は「パジェロ・イオの4G94型GDIあたりじゃないの?」と思ったほどだ。1年後に4G63型ターボを搭載した『TURBO-R』が投入された時にこの選択に合点がいったが(やはりこのクルマはランサーの一族なのだ)、やはり最初の時点でターボ版が発売されるか逐次投入のアナウンスがなければユーザーは疑問符だらけになる。

個人的な話で恐縮だが、筆者はこの時期からようやく「御用聞きの小僧」の域を脱し、直接、開発者や技術者の方々の声を伺い、取材をまかされる立場になっていた。無論、エアトレックも取材させていただいているのだが、生意気を承知で書けば、この時期の三菱の技術者の方々は、とことん落ちた企業イメージを払拭しようとするかのように“いいクルマ”を作ろうという高い意識を持ち、真面目過ぎるほど真面目、堅実過ぎるほど堅実だった印象がある。「石橋を叩いて叩いて結局は渡らない」ような感じとでも言おうか。これは同時期の軽自動車、eKワゴンの時にもひしひしと感じた。

このように内容的には大きな冒険をすることなく極めて堅実。ひたすら真面目な“いいクルマ”だったエアトレックだが、やはり従前の企業イメージが災いしたのか、それともクルマがあまりに地味に映ったのか、発売1年後の登録台数(販売台数ではない)はスバル・フォレスターや日産エクストレイルのほぼ1/4、当時、いささか旧式となった感のホンダCR-Vに対してさえ、ほぼ1/2という惨憺たる有様であった。正直、「なぜ売れない?」とこちらが心配になるほどだった。

2003年に『スポーツギア』が発売され、2004年のマイナーチェンジでエンジンをブラッシュアップした『スポーツギアS』が販売されることになる。コンセプトカーと比べて見ると、「最初からやっていれば…」という気がしないでもない。真面目な後に遅れて出てきたので、真面目な坊主頭の高校生が大学あるいは社会人デビューしたかのような印象だった。

おまけに主なユーザー層は30代後半~50代で、若年層にはさっぱり響いていない。そこで急遽、当時の三菱の代表車であったランサーエボリューションと同じターボエンジン(出力は調整されているが…)を搭載した“SUV版ランエボGT-A”といった風情の『TURBO-R』や、当時の三菱の得意技であったハデな外観の『スポーツギア』が投入されたが、時すでに遅しの観があった。

結局、エアトレックは1代限りで自らの海外名を冠した後進のアウトランダーに代を移すことになるが、デザイン・コンシャスなアウトランダーは若年層にも支持されて代を重ね、PHEV版まで登場し、2022年現在も発売されている息の長いシティSUVになっているのはご存知の通りである。

エアトレックの登場は、“走り”を意識したフォルクスワーゲン・トゥアレグ/ポルシェ・カイエンの兄弟車に先駆けること1年前の話だ。もし最初からターボ版をラインアップして“SUV版ランエボ”を強調していれば…。あるいは1999年に発表したコンセプトカー、『SUWアクティブ』のイメージを残したデザインで登場していれば…。ことエアトレックに関しては、すべてのタイミングが裏目に出た気がしてならない。いずれにせよ今となっては「タラレバ」の話である。

■三菱エアトレック24V-S(4WD)主要諸元

全長×全幅×全高(mm):4410×1750×1550
ホイールベース(mm):2625
トレッド(mm)(前/後):1495/1495
車両重量(kg):1470
乗車定員:5名
エンジン型式:4G64 GDI
エンジン種類・弁機構:水冷直列4気筒DOHC16v
総排気量(cc):2350
ボア×ストローク(mm):86.5×100
圧縮比:10.8
燃料供給装置:GDI
最高出力(ps/rpm):139/5500
最大トルク(kgm/rpm):21.1/3500
トランスミッション:4速AT
燃料タンク容量(ℓ):60
10.15モード燃費(km/ℓ):11.4
サスペンション方式:(前)マクファーソンストラット/(後)マルチリンク
ブレーキ:(前)ベンチレーテッドディスク/(後):リーディングトレーリングドラム
タイヤ(前/後とも):215/60R16
価格(税別・東京地区):230万円(当時)

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著者プロフィール

高橋 昌也 近影

高橋 昌也

1961年、東京生まれ。早稲田大学卒。モデラー、ゲームデザイナー、企画者、作家、編集者。元・日本冒険小…