レクサスLFAのV10エンジンはいかにして生み出されたか

エンジン
4.8ℓ・V型10気筒の1LR-GUE型を右バンク側から見る。エキゾーストマニフォールドは車両側の制約を満たしつつ、等長にした。厳密なまでに等長にすると音が澄んで感動が薄くなるので、「等調」だと開発エンジニアは表現する。
世界に誇るスポーツカーの心臓部には、レーシングエンジンの思想で設計したエンジンでなければならない。 鋼を叩いて日本刀を鍛えるように、量産エンジンに慣れた頭に喝を入れてエンジンを鍛えていった。 最高出力や発進加速の数値は結果論。車両と一体となって大脳を刺激するフィーリングを追い求めた10年だった。

TEXT:世良耕太(SERA Kota)
PHOTO:瀬谷正弘(SEYA Masahiro)/TOYOTA

*記事内容は2010年2月取材当時のもの

乗用車の延長では、いいものはできない

 モータースポーツ部にいて、ラリーやCART、国内レースのエンジン開発に携わった岡本高光氏がプロジェクトに参画を始めるのは2002年のことだった。その時点ですでに、高性能エンジンの机上検討は進んでいた。ドライサンプと独立スロットルの10気筒エンジンだった。10気筒で行くことになったのは、鶴の一声。市原氏がいきさつを説明する。

「当時の加藤伸一副社長のところに話を持っていったのです。スポーツカーをやりたいと。2000年の10月6日のことでした。そうしたら、『お前ら夢がない。バカヤロー』と怒られましてね。何がV6だ、V8だと。もっと頭を使っていいもの作れ。エンジニアなら夢を持てと言われました。モータースポーツの技術もある。V10で行け。なんでそれをやらんのかとケツを叩かれました」

クリスチアーノ・ダ・マッタのチャンピオンマシン(2002年)

 タダでは引き下がらないのが、市原氏という人なのだろう。「ならば人をください」と食らい付いた。すると、当時、モータースポーツ担当の常務だった冨田務氏が言った。「乗用車のエンジンやっている人がこのエンジンをやってもいいものはできない」と。「それより、オマエらレースの現場をちゃんと見ておけ」と。

 助言に従った市原氏ら開発陣は2001年の秋、アメリカ最高峰のフォーミュラカーレースシリーズであるCARTの現場を訪れるために、カリフォルニアに向かった。トヨタ・エンジンを積むC・ダ・マッタが優勝したレースを観戦した一行は、アメリカにおけるモータースポーツ活動の拠点、TRD-USAを視察し、帰国する。市原氏は考えを改めた。

「乗用車の延長で考えたらつまらないものしかできないと、我々も理解しました。そこで報告書を持って冨田さんのところに行ったら、『わかってくれたか。いいやつ見つけておいたから』と」

岡本高光氏(トヨタ自動車 パワートレーン本部 エンジンプロジェクト推進部 主査:当時)

 その「いいやつ」が岡本氏だった。モータースポーツ部がLFAのエンジン開発に関与するようになって以降、エンジン開発のプロジェクトルームは東富士研究所内に置かれた。大出力のエンジンをテストできる低慣性ダイナモが東富士のモータースポーツ部にしかないという実利上の背景もあったが、モータースポーツのにおいを嗅ぎながら開発にあたれるという環境面の影響も大きかった。

 すでに机上で検討されていたV型10気筒エンジンを見た岡本氏は、モータースポーツ屋の視点で容赦なくダメ出しをした。

「一番速いクルマを作りたいという強烈な意思がCE(チーフエンジニアの棚橋氏)にありましたし、単純にゼロヨンが速いとか、そういうのではなくて、サーキットもきちんと走れる。そのためにはどうするか。完全にレーシングエンジンの考えを取り入れた設計に変えました」

 ヤマハ発動機の丸山氏は、目を醒ます思いだったと当時を回想する。

「崖から突き落とされるような感じでした。あのときにかなり吹っ切れたというか、そこまでやっていいのかと」

 ドライサンプだったし、独立スロットルは持っていたが、いかんせん、量産エンジン開発の延長線上で開発されたV型10気筒だった。

「今から考えると、それまでのトヨタさんとのお付き合いに縛られた感じでした。それを岡本さんがバーンとぶちこわしてくれた。あ、なるほどなと。ポンプのレイアウトもごく普通のクランク同軸だったし、スカベンジも各気筒独立ではありませんでした。シリンダーヘッドも現在のものよりずっと大きかった。要らないものを取ってできるだけ小さくしようという考え方に変わりました」


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著者プロフィール

世良耕太 近影

世良耕太

1967年東京生まれ。早稲田大学卒業後、出版社に勤務。編集者・ライターとして自動車、技術、F1をはじめと…