歴史 危機一髪! 城跡発見で危うく計画大変更に? 1973-2026 東京環状7号線、52年間の変貌を見る 1/3 ~ 江戸川区・葛飾区・足立区編~【MFクルマなんでもラウンジ】No.22 昔のモーターファン探訪 「モーターファン1974(昭和49)年2月号」より【写真・1枚目】 「太陽にほえろ!」第1話「マカロニ刑事登場!」で、初代ジムニーで信号待ちしているマカロニ刑事(萩原健一)が、隣り車線のライダーからライター(しゃれ)を借りる新宿中央公園西交差点。 借りたのをニワトリ並みの早さで忘れてそのまま左折し、追いかけられたライダーからライターを取り返されるふれあい通り。 第217話「スコッチ刑事登場!」で、スコッチ(沖雅也)が飛び降りる新宿中央公園の階段の踊り場(公園通り側・ハイアットリージェンシー東京の前)。 第691話「さらば! 山村刑事」で尾行されていることに気づきながら歩く山さん(露口茂)がいったん姿を隠す、公園通りから角筈橋に上がる階段。 刺客と格闘中、山さんが撃たれるシーンは上から。 山さんが左腕から血を流しながらボスと息子に電話したシーンは角筈橋。 向こう側の囲いはさきの階段の出口だ。 放送では囲いの手前側に公衆電話があったが、実際のこの場所に公衆電話はない。 あったら歩行者に邪魔になる場所だ。 受話器を置いて数歩歩いた後、倒れて息絶えた場所。 モーターファン1974(昭和49)年2月号表紙。製作はその前年、1973年11から12月にかけて。 「東京環状7号線」特集。まずは冒頭で、カラーで見せる。 本編は後半にモノクロで。 「環7の終点は堀江町。もとは浅草ノリの産地だったが、埋立のためアサリ採りを主業に転向している。 こののどかな風景も環7の完成とともにきえるのだろうか。」(「道」特集キャプションより。) 1973(昭和48)年12月23日に撮影された、江戸川区堀江町付近の航空写真(国土地理院ウェブサイト)。 この時点で、後に環7になるはずの整地は済んでいる。 といってもわからないだろうから・・・ この写真もとに、色を加えた。 さらに・・・ 現在の湾岸道路および首都高湾岸線を重ねてみた。この位置に通されることになる。 その2年後の同じ場所。 1975(昭和50)年5月22日撮影。 また加工。 この頃は赤枠内が「堀江町」だった。 堀江町の整地も進んでいるが、環7予定地の整地はそれほど進んでいない。 こちらにもいまの湾岸道路と首都高湾岸線をラップ。 こちらはいきなり2019(令和元)年6月26日の同じ場所の航空写真。 「堀江町」の町名は江戸川沿いのこれだけのエリアに残され、ひとが住む場所になっていない。 過去、堀江町だったエリアのほとんどは、1979(昭和54)年11月に住居変更を受け、「南葛西1~7丁目」として現在に至る。 同じページ写真をもういちど。 以後の写真の撮影場所をカメラマークと番号で示す。 カメラマーク1の歩道橋からの風景。 この歩道橋があるのが環7の終点、葛西臨海公園前交差点だ。 2026年1月20日(火)14:24撮影。 カメラマーク2からの風景。 2026年1月20日(火)14:21撮影。 カメラマーク3からの風景。 2026年2月3日(火)14:08撮影。 カメラマーク3からちょっとずれてマーク4からの風景。現在の「堀江町」はここに見える江戸川沿いのみ。 2026年2月3日(火)14:07撮影。 マーク5の川岸から望む湾岸道路。 2026年2月3日(火)14:06撮影。 1973年末のMFページ写真はこのあたりかなと思うのだが、正確にはわからない。 2026年2月3日(火)14:05撮影。 「青戸の都営住宅跡から葛西城が発掘され、この学術調査のため、工事は完全にストップ。再開のメドさえついていない。」(「道」特集キャプションより。) またまた登場、国土地理院の航空写真。 1966(昭和41)年8月29日に撮影された、葛飾区青戸上空。 「環7」の「カ」の字さえ見えず、国道6号線があるのみ。 ここに現在の環7を重ねてみた。 このときの環7予定地は、将来幹線路になるなど予想もつかない住宅地。 キャプションにある「青戸住宅」は、この青枠に囲まれた8棟の建物だ。 MF本誌のページ写真と時期が近い1975(昭和50)年1月19日撮影の葛飾区青戸上空。 青戸都営住宅の写真左側=西側が撤去されている。 ここから葛西城が発見されたのだろう。 同じ写真に、またまた現在の環7を重ねてみた。 青戸都営住宅の写真左4棟の場所が、その後環7が覆いかぶさることになるわけだ。 その場所から葛西城が発見されたのだから、工事ストップは当然だったろう。 写真はいきなり現代に近づき、こちらは同じ青戸の2024年の航空写真。 撮影は2024(令和6)年4月10日だ。 この写真には逆に青戸都営住宅跡を重ねてみた。 青戸都営住宅跡は環7アスファルトの下、1975年写真右側に残っていた青戸住宅の場所は、いまは葛西城跡公園になっている。 同じページ写真をもういちど。 現在の青戸の撮影場所をまたカメラマークで。 カメラマーク1から見た環7。 2026年2月3日(火)15:53撮影。 マーク2の横断歩道中央から。かつてこの道に、親子の笑い声が漏れ聞こえてくる住まいがあった。 2026年2月3日(火)15:42撮影。 マーク3から見た環7。道の向こうにあるのは、本文にある葛西城址。 2026年2月3日(火)15:47撮影。 マーク4。遅れて青戸都営住宅跡になった場所は現在の葛西城址公園。 2026年2月3日(火)15:52撮影。 「「もとは環7の用地内にあった寛文7年の昔からの地蔵さん。 人の世の移り変わりがどのように映っているのだろうか。(加平橋付近)」(「道」特集キャプションより。) 1975年1月14日撮影の足立区加平橋航空写真。 環7と当時の営団千代田線に色を重ねる。 同じページ写真をまた。 自信も確証もないが、歩道橋向こうの信号が綾瀬警察署前交差点のものではないか。 2026年2月4日19:00撮影。 撮影したのはここ。 向こうに綾瀬警察署前交差点が見える歩道橋をここから写したのではないか。 今回筆者が撮影したのはここ。 1973年撮影のものとはちょっと場所がずれているが、配電盤などが邪魔をしたため、ずらさざるを得なかった。 もっとも1973年の写真がこの場所ならばの話だが。 「交通公害が告発されようとする環7。川にはごみが積もり、重油のようによどんだ水が、沈みゆく東京を語り掛けるようである(加平橋付近)」(「道」特集キャプションより。) 同じ写真をふたたび。 2026年2月3日(火)16:41に撮影した新加平橋。 当時の撮影した場所と思われる場所に入りたかったが、工事の柵でふさがっていたため、ちょっとアングルが異なる。 太陽は1973年当時と同じものだ(あたり前だ)。 さきと同じ、1975年1月14日撮影の航空写真を。 同じ場所の、2024年4月10日撮影の航空写真。 さきの歩道橋写真も加平橋付近だとすれば、この新加平橋はこの航空写真で事足りるほど近い。 1973年末のページ写真はこのあたりから撮ったと思われる。 で、1984(昭和59)年10月22日に撮られた同じ加平橋上空。 首都高6号三郷線が綾瀬川沿いに走り、インターチェンジは旧 足立区立加平小学校のプールスレスレにまで接近している。 MF誌で主婦が心配したのも無理はない。 で、また2024年の写真。 本文中で述べたとおり、1973年MF写真撮影ポイントには入れなかったので、新加平橋に接近した位置から撮った。 1984年航空写真から写した旧足立区立加平小学校跡は、学校の敷地の形を完全に打ち消すほど別の形に区画されており、名残りはいっさいない。 「冬の夕日が東京の空をそめあげて沈むころ、”環7”が最も混雑する時間帯がやってくる。(鹿浜橋)」(「道」特集キャプションより。) さあ、1973年の鹿浜橋が2026年になると・・・ こうなる! この日のこの時間に撮れるかどうかわからないまま現地に向かったが、ギリギリ着いたおかげで逆に同じ夕暮れ色の鹿浜橋を撮ることができた。 2026年1月27日(火)17:37撮影。 夕暮れ写真同士で比べれば川口線有無ととステーキハウスぐらいしか違いはないが、航空写真で比べると周囲がまるで違うことがわかる。 写真は1975年1月14日撮影の足立区鹿浜橋上空。 こちらは同所の2019年8月8日の姿。 周囲、特に鹿浜橋に面した民家は、現代的な形のマンション群に変貌している。 当時のカメラマンはこの歩道橋から撮ったのだろうが・・・ その歩道橋がいまも残っていたのはありがたかった。 この画像の記事を読む