Super Taikyu
新たな技術実験カテゴリーを創設

レースは走る実験室──。これは本田技研工業の創業者、故・本田宗一郎氏が残した有名な言葉である。その言葉どおり、ホンダは積極的にモータースポーツに取り組み、市販バイクへと技術をフィードバックしてきた。
近年、この言葉と同義といえる「レースでクルマを鍛える」という言葉を発したのが、現トヨタ自動車会長の豊田章男氏である。豊田氏は自らステアリングを握り、数多くのレースに参戦。現場で自らの手でクルマを鍛え続けてきた。その情熱は、ついにはスーパー耐久シリーズ内に「Qクラス」という新たな技術実験カテゴリーを創設するまでに至った。
レースは本来、順位を競うものであり、シリーズ戦であれば年間チャンピオンを目指すのが常である。しかし、Qクラスは異なる。ここでは順位は重要ではなく、新技術の開発を推進するために設定された特別なクラスである。この呼びかけに応じて、ホンダ、日産、マツダといった国内メーカーも参画。カーボンニュートラル燃料を用いたレーシングマシンの開発が進められている。
そのなかでもTOYOTA GAZOO Racing(TGR)の一部門であるルーキーレーシングは、他メーカーとは一線を画す挑戦を続けている。その象徴的存在が「TGR GR カローラ H2 コンセプト」だ。これは2021年に始動したプロジェクトで、水素を燃料とし、走行中のCO2排出をゼロにすることを目指すものである。近年ではホンダをはじめ、水素で走る車両の市販化も進み、インフラが整えば一般への普及も現実味を帯びてきた。現在、ルーキーレーシングが走らせるGRヤリスでは、走行時間の延長や燃料タンクの軽量化といった改良が進められている。
プロドライバーとほぼ同等タイムを刻むAT



加えて、トランスミッションの進化も注目すべき点である。AT(オートマチックトランスミッション)の精度向上により、レースユースに耐えうるレベルまで進化してきている。この技術はすでにWRC(世界ラリー選手権)にて実戦投入されており、現在はサーキットレースへの応用が進められている。
このトランスミッションを搭載するトムススピリットのヤリスをドライブする山下健太選手はこう語る。
「実際のレースでもATミッションを使用しています。現時点では、僕が操作するMTと比較してコンマ2秒ほど遅いので予選では使用していませんが、24時間レースのような長丁場では非常に有効です。ドライブレンジに入れたまま、ブレーキングとステアリング操作に集中できるので、疲労時に特に効果を発揮します。ジェントルマンドライバーが使えば、自己ベストを簡単に更新できるレベルだと思います」
このATがプロドライバーとほぼ同等のラップタイムを実現しているというのは驚きだ。
「もちろんシフトダウンも、速度と回転数を計算してブリッピングしてくれるので、最適な回転数を保ったままコーナーへ進入できます。レース用途だけでなく、一般のスポーツ走行でも楽しめると思います」
仮想的な高速道路に近いシチュエーション

一方、Qクラスでは「カーボンニュートラル」や「スポーツ走行の楽しさの追求」にとどまらず、より未来志向の試みも始まっている。それがルーキーレーシングが昨年から導入した「TGR GR86 フューチャー FR コンセプト」である。この車両は車体開発ではなく、自動運転技術の開発を目的としており、ドライバーの視線入力データを収集・解析するために投入された。
スーパー耐久シリーズはGT3マシンとコンパクトカーが同時に混走する異色のレースである。そのスピード差は最大で100km/h以上。まるでアウトバーン以上に速度差のある高速道路のような状況である。そこに着目した自動運転開発チームは、プロドライバーの視線を記録し、その挙動から高度な判断アルゴリズムを得ようとしている。
このプロジェクトに協力したのが、現スーパーフォーミュラチャンピオンの坪井翔選手。彼は走行中、特殊なメガネを装着し、視線データをリアルタイムで記録することで開発に貢献した。GR86はちょうどレース全体ラップタイムの中間に位置しており、抜かれながらも追い抜く必要がある。仮想的な高速道路に近いシチュエーションである。
そのなかで坪井選手は、高速コーナーに進入する際、必ずルームミラーで後方確認を行っていた。技術者にとってはこれは意外な行動だったという。コーナー進入時の後方確認は、一般的な運転ロジックには含まれていないからだ。だが、レース中は自車より速いマシンに抜かれる可能性があるため、後方を確認するのは必然である。
30分間で膨大なデータを取得

これを高速道路に置き換えると、前走車がアクシデントを起こした場合、避けるのに精一杯で後方確認が疎かになる可能性がある。しかし、二次災害を防ぐには、後方確認は極めて重要な行動となる。そうした「人の直感的判断」を支える視線データは、自動運転システムの進化に欠かせない。坪井選手が練習走行した30分間で、技術陣は膨大なデータを取得した。これらはすでに自動運転の精度向上に役立っている。この高速域でのデータ蓄積が進めば、将来的に高速道路での事故や危険の回避に貢献することは間違いない。
レースを実験場とした本田宗一郎氏、そしてクルマを鍛えるという思想を体現する豊田章男氏──。その情熱が、未来の安全で持続可能なクルマ社会を築く礎になりつつある。
PHOTO/折原弘之(Hiroyuki ORIHARA)
