EXP1
ひとりの男の情熱から

世界屈指の高級車、スポーツカー・メーカーとして知られるベントレー。その歴史はW.O.ベントレーこと、ウォルター・オーウェン・ベントレーというひとりの男の情熱から始まった。
1888年9月16日、ロンドン・ハムステッドに住む裕福な家庭に9人兄弟の末っ子として生まれたベントレーは、幼い頃から機械好きで、16歳になると当時最先端の乗り物である蒸気機関車のエンジニアになるべく、技術者見習いとしてグレート・ノーザン鉄道に入社する。
5年間の研修期間の間に鉄道の組み立て、設計、鋳造、運転といった技術と知識を蓄えたベントレーだったが、彼の望むような仕事をするチャンスがないこと、そして同僚に教えてもらったオートバイの面白さに開眼し退社。キングス・ロンドン・カレッジで理論工学を学びながら、自らチューニングを施したオートバイで積極的にレースに出場するようになり、1909年と1910年には最高峰のオートバイ・レース、マン島TTレースに出場(1910年はインディアンチームのワークスライダーとして)を果たしている。
ペーパーウェイトから着想を得て

卒業後にナショナル・モーター・キャブ・カンパニーに就職したベントレーは、兄とともにフランスDPE車の代理店を開業。そこで成功を収めるためにはレースでの好成績が重要と察した彼は、エンジンのチューニングを進める過程で、アルミ製のペーパーウェイトにヒントを得て、ピストンの強度を高め、高温で溶けるのを防ぐために、88%のアルミニウムと12%の銅の合金でピストンを作ることに成功。彼の手がけたDPEはブルックランズのレースで優勝したほか、速度記録を樹立するなど、多くの成功を収めることとなった。
そして1914年に第一次世界大戦が勃発すると、ベントレーは冷却効率に優れ、高回転、高出力化を可能とするアルミ合金ピストンを活かすべく、海軍とメーカーとの調整役を務めていたウィルフレッド・ブリッグス中佐に進言。こうして海軍航空隊技術大尉となったベントレーが最初に手がけたのは、奇しくもロールス・ロイス初の水冷V12航空機エンジン“イーグル”であった。
続いてベントレーは、戦闘機ソッピース・キャメルに搭載されていたフランス製クレルジェ・エンジンの改良に携わる。というのも空冷星型9気筒ロータリーのクレルジュ9Bfは、130馬力を発生する強力なものだったが、冷却など多くの問題を抱え、事故が絶えなかったからだ。
しかしながらベントレーは、同エンジンをイギリスでライセンス生産するクウィンズ社からの様々な抵抗に遭い改良を断念。ハンバー社の一角を間借りして、クレルジュをベースにアルミシリンダー、鋳鉄ライナー、アルミ合金ピストン、ツインプラグをもつ新エンジンの設計を開始した。
こうして誕生したベントレーBR1はクレルジュを上回る150馬力を発生。安価で信頼性も高く、5000基以上がソッピース・キャメル、アブロ504などに採用され、イギリスの勝利に大きく貢献することとなった。その功績からベントレーには、戦後MBE(大英帝国勲章)は授与されたほか、王立発明委員会からも8000ポンドが贈られている。
スポーツカーの開発に没頭

その資金を元にベントレーは1919年1月18日、ロンドン市内のニューストリートミューズに長年の夢であった自身の自動車メーカー、ベントレー・モーターズを設立。元ハンバーのフランク・バージェス、元ヴォクスホールのハリー・ヴァーリー、そしてエンジン設計者のクライブ・ギャロップと共にスポーツカーの開発に没頭する。
彼らはここでクロスフロー・ヘッドをもつ先進的な2996cc直列4気筒SOHC4バルブ・エンジンを開発。その際、隣の住人から「ウチには病人がいるから大きな音を立てないで」とクレームを言われ 「世紀の3リッター・エンジンに火が入る瞬間の音を聞いて死ぬなんて幸せな奴はいない」と言い返したというエピソードが残っている。
1919年10月、ベントレーの1号車であるEXP1が完成する。4シーターのツアラー・ボディをもつEXP1には「BM 8287」のレジスターナンバーが付けられ、早速走行テストを開始。英『Auto Car』誌でのテストレポートなども行われているが、テスト終了後に解体され、部品取りになったと言われている。
