3Litre
現在もベントレー本社で保管

最初のプロトタイプEXP1が完成した直後の10月19日のオリンピア・モーターショーで、ベントレーは試作2号車の「EXP2」を「ベントレー 3リッター」として正式に発表した。
その際2シーターのオープンボディを架装していたEXP2だが、1921年3月にコーチビルダー「JHイースター」製のボディに架装。1921年5月16日にブルックランズで開催されたエセックス・カー・クラブとウィットソン・ミーティングに最初のワークスカーとしてデビューすると、フランク・クレメントのドライブによりジュニア・スプリント・ハンディキャップで優勝を果たしている。
ちなみにEXP2はその後、1922年にマン島TTレースのテストに用いられた後、同年8月に生産車用の144型エンジンに載せ替えられ、1923年にJE Fodenへと売却。1990年代に1921年のレース優勝時のオリジナル仕様に復元され、現在もベントレー本社に保管されている。
クラス最高の車として



一方、生産型の3リッターに関しては、その後2年近い研究、開発を経て、1921年からロンドン郊外クリクルウッド工場で生産が開始されることとなった。
「速い車、良い車、そのクラスで最高の車」というW.O.ベントレーのフィロソフィーに則って開発された3リッターは、堅牢でオーソドックスな構造のラダーフレームシャシーにクロスフロー・ヘッド、ツインスパークプラグ、ツインマグネトーを備えた2996cc直列4気筒SOHC4バルブエンジンを搭載。もちろんピストンはベントレーが開発したアルミ合金製で、2基のSUキャブレターを装着し、最高出力71PSを発揮した。
標準仕様は、117.5インチ(2984mm)もしくは130.0インチ(3302mm)のシャシーに71PSのエンジンを載せ「4名乗車でブルックランズを75mphで周回できることを保証する」といわれた「ブルーラベル」で、1923年の価格はボディのないローリングシャシーの状態で425英ポンドであった。
そして1923年には排気量の拡大と大口径キャブレターの装着で最高出力を81PSにアップした「レッドラベル・スピード」を追加。そして1924年にはホイールベースを108インチ(2743mm)に短縮し、エンジンの圧縮比を6.3:1にアップすることで100mphの走行を保証する高性能版の「グリーンラベル」も加わっている。
顧客リストに並ぶ貴族や富裕層

ベントレーは3リッターの優秀さを証明するべくレースにも積極的に参加。1923年の第1回ル・マン24時間レースでは序盤トップにたちながら、トラブルにより4位に終わったものの、1924年の第2回ル・マン24時間レースではジョン・ダフとフランク・クレメントが優勝。1927年のル・マンでもダドリー・ベンジャフィールドとS.C.H.サミー・デーヴィスがドライブする3リッターが優勝している。
そのパワーそして大きな車格と重量から、エットーレ・ブガッティに「世界最速のトラック」と揶揄されたものの、レースでの活躍によって人気が高まり、ベントレーの顧客リストには、のちにケント公爵となったジョージ王子、ウェールズ王子(エドワード8世)、のちにジョージ6世となったヨーク公爵など、貴族や富裕層たちの名で埋まることになった。
白洲次郎のベントレー

その中のひとりが、第二次世界大戦後、吉田茂首相の側近として終戦連絡中央事務局や経済安定本部の次長、貿易庁の長官を歴任し、退任後は東北電力の会長を務めたことで知られる白洲次郎だ。白州はケンブリッジ大学留学中に1924年型の3リッター・スピードモデル“XT7471”を購入。7代目ストラフォード伯爵となるロバート・セシル・ビング(ロビン)とともにXT7471でヨーロッパ大陸横断旅行を行ったのは、有名なエピソードだ。
このように大成功を収めた3リッターは、1927年に新しい4気筒エンジンを積む4 1/2リッターの登場まで、ベントレーの主力モデルとして君臨。結局1929年までに合計で1622台が製造されている。
