3 1/2 Litre Derby
ベイビー・ロールスをベースに

1931年11月20日にブリティッシュ・セントラル・エクイタブル・トラストを介してロールス・ロイスに買収されてしまったベントレー。W.O.ベントレーら経営陣の知らないところでこの電撃的な買収劇が完了すると、ロールス・ロイスは早速1932年にクリクルウッド工場を閉鎖。数台の8リッターを除くすべてのクルマは売却され、ベントレーの商標もロールス・ロイスのものとなった。
またW.O.ベントレー自身も、カンパニーカーとして所有していた8リッターを取り上げられただけでなく、最初の妻とも離婚。1932年5月から3年契約でロールス・ロイスの社員となったが、開発現場にアプローチすることは許されず、ブルックランズやヨーロッパ大陸でのテスト走行を命じられる、実質的な幽閉状態となった。
一方ロールス・ロイスのダービー工場でその一部門として再スタートを切ったベントレーは、ベイビー・ロールスと呼ばれた「20/25HP」をベースとしたモデルの開発に着手。1933年に「3 1/2リッター」を発表した。
優雅と豪華さ、速さと扱いやすさを実現


エンジンは20/25HP用の3680cc直列6気筒OHVをベースとしながらも新設計のクロスフロー・シリンダーヘッドを装着。専用のカムシャフト、圧縮比のアップ、2基のSUキャブレターの採用により、20/25HPを上回る110HPを発生。その最高速度は145km/hに達した。
シャシーも基本的に20/25HPと共通で、4輪リーフスプリング、機械式サーボ付きブレーキを装備。またトランスミッションがクリクルウッド時代のDタイプ・クラッシュ式ギヤボックスから3速と4速にシンクロメッシュ付き4速MTになったのも大きな進歩といえた。
発表当初はアンダーパワーと評されることもあった3 1/2リッターだが、高く安定した品質と、バンデンプラ、パークウォードらコーチビルダーによる洗練された優雅で豪華なボディ、そして速さと扱いやすさから「サイレント・スポーツカー」と評され、レーシングドライバーのサー・マルコム・キャンベルやアーチボールド・フレイザー=ナッシュ、プリンス・ビラらも、そのオーナーリストに名を連ねることとなった。
そしてベントレーは1936年に3 1/2リッターの後継となる「4 1/4リッター」を発表する。その最大の特徴はアンダーパワーの指摘に応えて、4257ccに排気量を拡大した直6OHVエンジンで、シャシーもクロスメンバーの追加やハーモニック・スタビライザーバンパーの採用など改良が施された。
2つの興味深いプロジェクト

結局1939年までに3 1/2リッターは1177台、4 1/4リッターは1234台が製造されたが、その裏でW.O.ベントレーは契約が満了した1935年4月にロールス・ロイスを退社。レース部門の大半のエンジニアを引き連れてラゴンダ社に移籍し、V12エンジンの開発に携わることとなる。
またベントレーではこの頃、興味深い2つのプロジェクトが進められていた。ひとつは1938年にギリシャの実業家、アンドレ・エンビリコスのオーダーを受け、フランスのジョルジョ・ポーランがデザインし、カロジエ・プールトゥーが製作した流線型のボディを4 1/2リッターに架装した、通称「エンビリコス・クーペ」。そしてもうひとつが、エンビリコス・クーペに触発され、ベントレーのイヴァン・エヴァーデンがポーラント共同でパリのヴァノヴォーレンで開発した4ドア・クーペ「コーニッシュ」である。
そのどちらも「クライスラー エアフロー」の空力ボディに影響を受けたものだが、ここでの経験は戦後のベントレーのボディデザインに大きな影響を与えることとなった。
復刻プロジェクトが始動

ちなみにコーニッシュは1939年のロンドン・ショーで、新しいマークVシャシーとともにお披露目されるはずだったが、フランスでテストドライバーのパーシー・ローズが走行中にクラッシュ。その直後に第2次世界大戦が勃発し、ロンドン・ショーが中止になったこともあり、しばらくフランスで保管されたのち、イギリスに送り返される手筈になっていたが、1940年のダンケルク撤退時に爆撃にあって破壊された。
その後、21世紀に入り歴史家ケン・リーとW.O.ベントレー記念財団によってコーニッシュ復刻プロジェクトが始動。2018年にベントレー社内プロジェクトとして引き継がれると、マリナーによって本格的な作業がはじまり、2019年のベントレー創立100周年記念式典でお披露目されている。