
再びトヨタへ
1986年秋、ACCD留学からの帰国後久しぶりにエクステリアデザインの部署へ戻り。4代目カムリ・ビスタの担当になりました。

ある程度仕事の流れも身に付き、様々な手法で自分のデザインの提案も出来る様になって来たので大変充実した時期でしたが、半面会社の保守的な方針や量産ならではの問題が多く有ることも理解できる様になって来ました。
そこから8年間、1990年に創設されたトヨタ東京デザインセンターへの勤務(3年間)を含め様々な車種のエクステリアデザインを提案する機会に恵まれました。ACCDで学んだ様々なスケッチ手法で新しいデザインの開発に取り組みました。




当時SUVやミニバンが市場に出てくる前だったので、その8年間にトヨタで担当したプロジェクトは全て4ドアセダンでした。東京時代に担当した初代Rav-4が唯一の2ドア車だったのでとても新鮮な気持ちでそのプロジェクトを楽しみ、東京のチームから2台のフルサイズモデルを提案しましたが、採用されたのはトヨタ傘下の他のチームの案でした。

東京デザイナーズナイト
その1990年代始め、自動車会社各社は皆、競いあって東京にデザイン拠点を開設しました。それは首都東京という地の利を活かして最新の生活情報、そして一番尖ったデザイン情報が手に入れ易いという事が一つ。そしてもう一つは、自動車会社はその殆どが地方都市(つまり田舎)に有るので、東京にスタジオが有ると新卒の学生を採用するにあたって、「当社に来れば東京で勤務できます。」と宣伝出来るというのが非常に大きな理由でした。
それまで、自動車会社各社に入社したデザイナー達は、入社後、他社のデザイナーと交流する機会が、ほぼ皆無でした。しかし、東京であれば、ほぼ全ての自動車メーカーのデザイナー達が勤務しているので、場所さえ設ければ、多くのデザイナー達が会社の枠を超えて交流する事が可能になると考えた私は、「東京デザイナーズナイト」と言う交流会を開いてこれを実現しました。年に1度程の集まりでしたが、ここで知り合ったデザイナー達とは、今でも交流があります。

また、春休みにデザイン科の学生を集めて行われる春季実習も東京のスタジオで行われたので、その際に私が、レンダリングのデモンストレーションをする機会も有り、ここにある2Dr.Sport Coupeのスケッチはフルサイズに拡大されてスケールモデルと共に東京スタジオのロビーに展示されました。

また、東京という土地柄、自動車雑誌の記者の方達とも知り合う機会が出来、そこで知り合った記者の方達とは、後に米国で働く様になった後も親しくさせて頂きました。
いよいよ海外へ
東京から豊田市の本社に戻った1993年、業務でたまたまイタリアのカロッツェリアを訪問する機会を得ました。イタルデザインとIDEAを訪問し少人数のデザイナーで様々なプロジェクトをこなしている事に魅力を感じました。当時トヨタ本社のデザイン部には300人以上のデザインスタッフが在籍し、業務も細分化していました。私自身の年齢も30代半ばとなり、会社の中での立場も1クリエーターからグループをまとめる管理職であることを求められる様になり、十数年の業務でこの車は私のオリジナルデザインであると言い切れるプロジェクトが無いまま管理者になってしまう事が不安でした。
そしてイタリアからの帰国後、ヨーロッパで仕事をする事を真剣に考え始めました。当時トヨタデザイン部は既にベルギーにデザイン拠点を持っていましたが、会社からの転勤者として3〜4年間滞在するよりももっと長く滞在して現地の人間として生活しながら自らのデザインを現地で発信して行きたいと考えていました。
では、どうして欧州の会社のデザイン部門のトップにコンタクトして私の意図を伝え判断してもらうか? まだ、PCもネットも無い時代、手紙とFAXが唯一連絡をとる手段でした。当時既にトヨタはイタリアンカロッツェリアの数社とは業務での繋がりが有り、その責任者、会社の住所等は把握出来ていました。その半面、業務提携先の会社から人材を引き抜く訳にはいかないと言われる可能性も有ったので、先ずトヨタを退職してから就職活動を始めました。
カロッツェリア以外にも欧州の数社にコンタクトする為に欧州事情に詳しい先輩、知人、友人から様々な情報を提供してもらいました。
提出するポートフォリオもCDやUSBスティックはまだ存在しなかったので、A4サイズのフォルダーを用意して履歴書と手描きのスケッチを10枚程まとめて郵送しました。



幸いな事にカロッツェリアを始め、その他幾つかの欧州自動車会社のデザイントップの方々も、きっちりポートフォリオを見てご丁寧に返事を下さいました。そうして何社かが面接をして頂ける事になったので、1993年の秋、単身欧州に飛びました。イタリアを皮切りに、ドイツにも渡り6社程の面接を受けましたが、再就職先は決まりませんでした。この時私がした失敗が、欧米の採用の仕方を良く知らなかった事でした。 欧米では、新卒でも中途採用でも履歴書とポートフォリオだけで判断する事は難しいので、短い場合で1~3ヶ月、長い場合で6ヶ月という試用期間(インターン)を設けて実際に社内で仕事をさせてみてその実力を判断するというのが一般的です。私のこの欧州での面接でも2社からは6ヶ月のインターンの申し出は有ったのですが、家族も有った私は正式採用に拘りインターンを断ってしまいました。多少のリスクは有ったとしてもインターンを経て正式採用に至る道を取るべきだったと今では思っています。
そしてアメリカへ
約5週間に及ぶジョブハンティングの旅を終え日本に戻った私は今回の就職活動で様々なアドバイスをしてくれたH先輩を尋ねました。ACCDにも在籍し欧州での仕事の実績も有るH氏は、欧州での私の就職活動の経緯を聞いた後、「鹿戸さん、どうして米国の会社にはチャレンジしないの?」と聞いて来ました。米国のACCD在学中、多くの学生から聞いたことは、米国で外国人が働こうとする場合に合法的に働く為の就労ビザの取得が大変困難であるという事でした。まだその当時、米国で働きたいとは真剣に考えていなかった私は、それがどの程度難しい事かを知る由もない状態でした。しかし、もう引き返す道は残されていなかったので1993年末から私の米国企業へのチャレンジが始まりました。
米国への挑戦の経緯はまた次回のコラムで、
