MotoGPの現場で行われるクシタニのレーシング・サービス

MotoGPのパドックでレーシングスーツを供給するメーカーの一つが、日本メーカーであるクシタニだ。2025年シーズン、クシタニは、MotoGPライダーとなった小椋藍(トラックハウス・MotoGP・チーム)、ソムキアット・チャントラ(イデミツ・ホンダLCR)とともに最高峰クラスに進出。今季はMotoGPクラスの小椋、チャントラを始め、Moto2クラスのイデミツ・ホンダ・チームアジア、Moto3クラスのホンダ・チームアジアのライダーたちをサポートしている。

そんなMotoGPの現場の様子について、日本GPで、クシタニのレーシングサービス課長、六浦真樹さんにお話を伺った。なお、今回は主にレーシングスーツにフォーカスした記事だが、グローブにフォーカスした記事も別途掲載しているので、ぜひご一読いただきたい。(記事「MotoGPライダーの手を守る。クシタニが挑むグローブ開発の最前線」

まずは、レーシング・サービスのルーティン。サーキットには水曜日に到着して作業場の設営を行い、木曜日からは作業がスタートする。木曜日は走行がない日ではあるが、金曜日からの走行に向けた準備が行われるのである。

「その前のレースで転倒したレーシングスーツがあればそれを修理したり、エアバッグのメンテナンスや充電をしたり、といったところからスタートします。ヨーロッパのグランプリの場合は、修理したもの、あるいは新品のレーシングスーツを日本から持って行くことがあります。もちろん、現場で直せるものは直すのですが、MotoGPクラスとなると転倒したものを現場で完全にリカバリーするのは難しいことがありますから、その場合は一度日本に持ち帰り、日本またはタイで直して次のラウンドに持っていくんです」

「(ヨーロッパにレーシングスーツを)持って行くときは、少しでも軽い形にするために肩や肘のパッドを全部外すので、現地に着いてからそれらを組み立てる作業が発生します。そしてエアバッグを装着して選手にお渡しする、という準備をするわけです。あとは、転倒していなくても、レーシングスーツの細かい補修、塗料を塗り直したりといった作業を行っています」

ライダーと打ち合わせを行い、要望を聞くことも大事な仕事だ。特に木曜日は走行がなく、ライダーもまだ比較的余裕がある。もちろん、メディア対応やイベント出席などは多いが、走行が始まる金曜日になると、ライダーのムードもかなり変わる。

「現場でできることは多くないのですが、できることもありますからね。小椋選手はふらっと(レーシング・サービスのオフィスに)寄ってくれたりしますし、こちらからお話を聞きに行くライダーもいますよ」

金曜日になると走行が始まる。MotoGPクラスの小椋やチャントラの場合は、基本的にアシスタントが使用したレーシングスーツをレーシング・サービスまで持ってくる。Moto2、Moto3クラスのライダーの場合、クシタニのレーシング・サービス担当者がピットまでレーシングスーツを取りに行って、それをケアする。クシタニは3クラスのライダーをサポートしているので、想像するだけでも忙しい。ここに転倒が発生すれば、さらに作業が加わる。

「ライダーが転倒してしまったら、実際のレーシングスーツを見て、きれいにします。それが次の走行に使えるかどうかの判断もしなければならないし、使用できないのなら用意しているレーシングスーツを出さなくてはなりません」

「と言っても、転倒後すぐに使えることはそう多くないんです。別のレーシングスーツを渡して、転倒したものはその間に拭いたり、(色がはげてしまった部分の)色を塗ったり、状況によっては縫製します。ですから、常にスペアはいくつか用意しています」

外していたパッドがあれば、走行が始まる金曜日前にその取り付けなどの作業も必要©Eri Ito
パドックでミシンによるレーシングスーツの補修も行う©Eri Ito
タンクと接する部分が擦れてしまう。こうした部分の色を塗り直す作業も行う©Eri Ito
ニーグリップする部分はこのように革が変色してしまう。こちらも塗装が必要になるという©Eri Ito

日本メーカーだからこその難しさ

MotoGPのパドックで、唯一、レーシングスーツをサポートする日本メーカーとして、ついてまわるのは「日本とヨーロッパの距離と時間の壁」だ。

モータースポーツの本場は、ヨーロッパ。例えば2025年シーズンで言えば、全22戦中、半分以上がヨーロッパで開催される。ヨーロッパにおけるレーシング・サービスは移動式のサービストラックで行われるため、設備の何もかもが日本とまったく同じというわけにはいかない。現場での修理が難しければ、ヨーロッパから日本に持ち帰る必要がある。予備の補充が必要なら、日本からヨーロッパに持って行かなければならない。おおまかに見積もっても、日本からヨーロッパの各サーキットまでは飛行機とレンタカーで2日はかかる。

「日本の場合は物流を考えなければなりません。日本から持っていける量も限られます。送ろうとすれば最低1週間、場合によっては2週間、余計にかかります。ヨーロッパ、例えばイタリアのメーカーなら、すぐに持って来ることができますよね。そのあたりは、ヨーロッパのメーカーさんに対してハンディキャップを負っています。でも、それを承知でやらなければならないんですね。その分、場合によっては数をお出ししなきゃいけないのかもしれませんし、現場でのミシンを他メーカーよりも多めに作業する、といったことが必要です」

そうした状況のなか、クシタニは今季から全レースでのレーシング・サービスを実施している。

「これはどのカテゴリーでもそうですが、現場にいるのと、いないのとではやはり違います。当然、海外ではやれることはちょっと減るところもあるんですけどね。クシタニのレーシング・サービスが全戦、現地にいることで、選手には安心していただいているのではないかと思います」

クラス昇格でレーシングスーツのサイズが変わることも……

ライダーのリクエストを聞くことも大事な仕事の一つだ。今季MotoGPライダーとなったチャントラは、サイズについての要望が多いという。

「チャントラ選手は、トレーニングして腕が太くなってしまったとか、そのような要求に変化してきましたね。特に今年、MotoGP に上がってからです。トレーニングをされているからなのでしょうけれど、『こんなに腕太かったかな?』と。それに対して、どんどんサイズを修正していく、という作業をしました」

「場合によってはサイズが変わった部分だけ採寸しますが、全体を見てあまりにもバランスが違っていたら、当然、全部採寸し直します。その状況によって、レーシングスーツの腕だけ伸ばすとか、バストを伸ばそうかとか、いや、これはもう無理だから作り直そう、といった判断は、ケース・バイ・ケースになります」

一方、同じく今季からMotoGPライダーになった小椋は、サイズのみならず、レーシングスーツについての要求そのものが多くないそう。

「うちの方で用意させてもらって選択肢をお渡ししても、『特に変えなくていい』と言われることが多いんですよ」と、六浦さんは苦笑する。

「CEV(現FIMジュニアGP世界選手権。MotoGPへの足掛かりとなる重要な選手権)のときからずっとお付き合いはしていますので、信用していただいているのでしょうけれども。改良はこちらの方からどんどんさせてもらっていて、それに対して多くは語らない選手、という印象はあります」

「サイズの要求にしても、小椋選手は、例えばビルドアップして腕が太くなりました、とか、そういった変化も多くはないんですよね。主にバイクに乗るトレーニングをしていますから」

リクエストが多くはない理由は、自分のできることにすべての集中を向ける小椋藍らしいものだ。

「小椋選手の場合、そういった細かいところよりも、自分の走りでなんとかする、ということに集中されているようなイメージがすごくありますね」

「『(レーシングスーツに言及するのは)全部自分がやり尽くして、マシンもやり尽くしてからじゃないんですか?』と、一回言われたことがあります。『そういうことじゃないんですよ。まだやることがいっぱいあるんですよ』って」

しかしそれは、大前提としてクシタニのレーシングスーツが、走行中に意識を向ける必要がないほど快適だということでもある。

そうした中で、クシタニはさらなる改良に向けて、小椋に、チャントラに細やかな提案を続けている。例えば、小椋自身のリクエストではなく、クシタニ側からの改善案としてサイズを変更することがあるという。

なお、MotoGPライダーたちが使用するのは、「ネクサス2」のK-0080XX ARISE SUITをベースとしたものだ。

「もちろん、まだ成長期の頃はサイズ変更も若干あったと思うんですけれど、今では基本的にボディサイズは大きくは変わってないはずです。でも、こちらから『このシワを取りたいよね』といった形でサイズを変えていっています」

「『シワ』というのはシャーリングだけでなくて、着たときに余ってしまう部分のことです。少しでもシワを取れば(使う革が少なくなって)軽くなりますからね。担当している皆川(知彦)さんはそういうことをすごく気にするんです」

「それがあったほうが動きやすいか動きにくいか、そういうところも考えながら、そのような細やかな修正は行って、進歩してきました。なので、小椋選手のチームアジアの最初の頃に比べると、レーシングスーツの着用写真は、だいぶスマートになっている(シワがなくなっている)と思いますよ」

レーシングスーツでも空力は重要な要素

こうしたMotoGPの現場で培われた技術が、新しい市販製品にフィードバックされることになる。現行におけるクシタニのレーシングスーツのハイエンドは「ネクサス2」だが、次のモデルが控えている、と六浦さんは明かす。

「実は『ネクサス3』がもうスタンバイしています」

「(ネクサス3では)MotoGPで改良したディティールや修正しているところを、かなり取り入れています。だから、ネクサス2よりも、かなりMotoGPのものに近いレーシングスーツになります」

改良点の一つが、ハンプ。いわゆる背中のコブだ。

バイクがそうであるように、レーシングスーツやヘルメットといった装具もまた、空力が非常に重要な要素になっている。空力に影響を及ぼすハンプ(背コブ)は、「ネクサス3」で変わるという。これは、まさに世界最高峰のライダーが300km/h以上の高速で走るMotoGPの現場だからこそ培われた技術だ。

「じつは、ネクサス2の前の型では、クシタニが代々使っていた背コブを使っていたんです。でも青山博一選手(現ホンダ・チームアジア監督。2009年250ccチャンピオン)がうちのサポートライダーに戻ってきて、2015年にRC213Vをテストライドするということになったので、レーシングスーツを供給したんです」

「そうしたら、首を振られる、と言うんです。それで背コブの形状を検証して、最終的に空力を考慮した形を着てもらったところ、まずそのブレが軽減したのと、とにかくトップスピード出た。その時のテストは青山さんがトップスピードだったんですよ」

「それはコーナー進入で首を振ったときにブレない形を考えたものです。本当のところはわかりませんが、僕は立ち上がりで無駄な形にならないからアクセルを開けられたんじゃないか、と思っているんですけどね。その背コブを市販に落としこんだのが、ネクサス2なんです」

ただ、2018年にレーシングスーツへのエアバッグの搭載が義務化された。クシタニは他社のエアバッグを搭載しており(現在はアルパインスターズのTech-Air®)、ECUとガスボンベをハンプに収納する関係から、そちらを優先した形状になっている。

「ただ、せっかくネクサス2でいいものができているのだから、それの反映型をやりたいということで、ネクサス3はコブがちょっと変わるかもしれません」

現在、MotoGPライダーが使用するレーシングスーツのハンプ©Eri Ito

装具における空力といえば、ヘルメットもまた、非常に空力が考えられている。ヘルメットとの相互作用などは検討されたのだろうか。

「完全にヘルメットと一体型してしまうと、トップスピードはいいのですが、体がコーナーのイン側に入った状態で立ち上がるときに、エアロダイナミクスによって、出ようとするのを戻される力が働くんです」と、六浦さんは説明する。

ヘルメットとレーシングスーツが空力面で完全に一体化してしまうと、逆に頭が降られてしまうはずだという。

「だから、わざと独立した形にしたんですね。完全に一体化しようとしていたのが、むしろ今までのものだったんですよ。つまり、ヘルメットに沿う形状でした。でも、青山さんに指摘されたとき、あえてレーシングスーツ単体で空力を出せるように、という方向性に持っていったんですよね」

「ヘルメットはすごく空力が考えられています。レーシングスーツと切り離した形で、各々、空力が発揮できれば変な挙動が出ない。そういう発想です。それが功を奏して、頭がオートバイから抜ける瞬間もぶれない、引き戻されないものになりました」

「アルパインスターズのガスボンベも収納できる、空力も損なわない、これを両立させる形のものを、今、開発しております。そして、それを市販型に落とし込む予定です」

まさしく、MotoGPという現場だからこそ得られる世界最高峰のフィードバック。そうした技術が、私たちも手にする市販製品につながっている。

クシタニ
レーシングサービス 課長
六浦真樹さん

1989年、クシタニ入社。1990年より商品管理、生産管理、営業管理を経て、2003年からはレーシングサービスを担当。以降、全日本を中心にサービス活動を行う。

©Eri Ito