いざアメリカへ

先回のColumn #7で書いた経緯により1993年の暮れから転職の矛先を欧州から北米へと転換し、また職種も小さなカロッツェリアだけで無く、一般の大規模な自動車メーカーにまで広げて会社探しを始めました。北米のメーカーと言えば、GM, Ford, Chryslerに代表される、いわゆるデトロイトのBig-3が在り、残念ながらそこに在籍している知人や友人は皆無でしたが、Car Styling誌の情報のお陰で、それぞれの会社の住所やデザインの責任者の方々の名前は知る事が出来ました。また、この頃はトヨタデザインがカリフォルニアにCaltyというデザイン拠点を設けた様に、Big-3を始めドイツ等の殆どの大手メーカーが南カリフォルニアにデザイン拠点を以て活動していました。

日本のメーカーの海外拠点が日本人デザイナーを欲しているか?と言う様な疑問もありましたが、自分の方には選択する権利は無いので、とにかく殆どの事務所にレジメとポートフォリオをひとまとめにしたA4サイズのフォルダーを1993年末までに郵便で発送しました。

年が明けて1994年1月、2社から期待の持てる返事が来ました。1社目は、当時まだ米国Fordの傘下に在った韓国のKIA社のカリフォルニア事務所から、2社目はChrysler Pacifica(これもカリフォルニアの拠点)からでした。ただしChryslerについては、Pacificaでは採用はしていないのでデトロイトに来る準備が有るならばという条件で面接をして頂ける事になりました。

面談スタート

一通りのA4のポートフォリオは既に郵送してあるので、後は当日面接の際に見せる少し大きめのスケッチ類を用意して1994年2月初旬先ずカリフォルニアに飛び、KIA社の面接に望みました。面接は概ね好感を持って頂きましたが、会社からの返事は、「あなたの職歴やデザイン力には大変興味が有るが、当社があなたの就労ビザのサポートをする事は出来ない。あなたが何らかの方法でビザを取得出来たならば採用しましょう。」という内容でした。就労ビザと言う一番の難関と想像していた事がいきなり現実問題となりとても落胆した事を覚えています。

少々出鼻を挫かれた旅でしたが、次の目的地が有るので直ぐに気持ちを切り替えてデトロイトに飛びました。

到着日はそのままホテルに宿泊し、翌朝Chrysler Corp.の本社に向かったのですが、驚いたのは指定された面接の時刻でした。朝の7:15でした。これはいずれ知る事になるのですが、Chryslerの勤務時間が、AM7時~PM4時と言う少し早めにシフトしていたからでした。早朝Chrysler Corp.のビルに入るとデザイン人事のマネージャーが案内してくれて、早速デザイン棟へ赴き、Neil Walling氏というダイレクターの一人に引き合わせてくれました。ここまでの手紙でのやり取りは全て彼がしてくれたのですが、この時が初対面で、まさか2mを超える高身長とは知らなかったので大変驚いたのを覚えています。 面接には当時のデザインVPであるTom Gale氏は同席されなかったのですが、彼の腹心の部下である3人のダイレクター達(John Herlits氏、Neil Walling氏、Trevor Creed氏)が、揃って立ち会ってくれました。

予め私の志望動機や経験についてはレジメで伝えてあったので、面接は持参した新しいスケッチの説明など20分程の短い時間で終わり、先のWalling氏から「今から君には人事のマネージャーと一緒に行って欲しい所が有る。」と言われて、赴いたのは、社外にあるとある弁護士事務所で、ここはいわゆるImmigration Lawyer:移民弁護士のオフィス。そしてそこから約1時間、私の就労ビザ申請の手続きをしてくれたのでした。その後、再びChryslerのデザインオフィスに戻ると、Walling氏が出迎えてくれて、「君の志望動機はしっかり伝わりました。当社としては君にビザを用意するので来る意思があるなら来て下さい。(そして、オフィスの窓から見える真っ白な銀世界の景色を指さし、)こんな雪国で暮らす事は可能ですか?」と聞いてくれました。残念ながら雪国生活の経験は皆無でしたが、スキーは大好きで、雪=スキーゲレンデという好印象しか無かった私は、「全く問題ありません。ありがたくオファーをお受けします。」と返事を返しました。

米国での最初の面接で、大きな難関となった就労ビザの問題をほんの数時間で、しかも面接の当日に見事に解決してくれた、この手際の良さに大きな感銘を受け、迷う事無くこの会社で新しい一歩を踏み出そうとする決意を固める事が出来ました。この後にも幾つか経験するのですが、アメリカのビジネスにおける決断力の速さは本当に見事としか言い様がありません。

アメリカ移住、ミシガンの地へ

そこから、日本に帰国して約2か月で、日本の家の片付けと米国への引っ越し準備をして1994年4月の終わりには家族と共にミシガンの地へやって来る事が出来ました。

1994年5月からミシガン州デトロイト市の郊外アーバンヒルズに有るChrysler Corp.のヘッドクォーターの一角にあるデザイン部での仕事が始まりました。

所属はプロダクションカーの先行開発を主に行うPackaging Studio. しかし、一番最初に任された仕事は93年のデトロイトオートショーでコンセプトカーとして発表され, その後生産化が発表されたPlymouth Prowler専用のトレイラーカーのデザインという面白いプロジェクトでした。

車両本体には殆ど無い荷物の積載スペースの不足を補う為に作る事が決まっていました。簡単なスケッチからCADモデル→スケールモデルを作成しデザイントップのレビューを経て生産型のデザインが決まりました。トヨタ時代にはあり得ないタイプの製品、そしてデザインスピードの速さ、まるで自身の好きなプラモデルを造っている様な楽しい時間でした。

そのトレイラープロジェクトが一段落した頃、Dodge Neonの2代目モデルの先行開発が始まりそのエクステリアデザインを任されました。

Packaging Studioの仕事は現行モデルを研究し、プロポーション的にどこをどう改良して行けばより新しく魅力的なプロダクトを造り出せるか?を追及して行くことでした。

車両寸法はほぼ初代Neonと同じ設定とし、スケッチで全高やルーフラインを調節したりデッキの高さを吟味したりしながらフルサイズモデルを作り始めた頃、デザインVPのTom・Gale氏が1回/週のスタジオウォークスルー(講評会)の際にそのモデルを見て発した一言が、「最初に一目見た際の新鮮なインパクトが無い。ここは一つフロントウインドウのタッチダウン位置(フロントウィンドウの最下端)を100mm前に出してみたらどうだろう?」と、これは私にとっては晴天の霹靂とも言える出来事でした。何故ならば、トヨタ時代の経験からすれば、生産型4Dr.セダンのモデルチェンジでグラスタッチダウンは精々5~10mm程度の変更。時にはタッチダウン位置は変更無しという場合もありました。たった一度のモデルチェンジでいきなり100mm前出しは正直あり得ないと、その時は思ったものでした。しかしそこはデザインが会社を引っ張っていたChrysler Corp.のデザインVPの発言。結果、この2代目Neonのグラスタッチダウン位置は生産車でも75mmも前出しする事が出来たのでした。

会社という組織の中でいかに斬新なデザインを造り出していくのか?それは単にデザイナーの創造力だけによるのでは無く、その創造力の使い方、導き方によるところが大きいと感じたものでした。

チャンス到来

1994年の5月にChrysler Corp.での仕事をスタートして約2年半、所属部署もアドバンスからChryslerブランドのプロダクションカーの開発へと移り、ようやくここでの仕事の進め方にも慣れて来た頃、最初の大きなチャンスが訪れました。
1990年代、Chrysler Corp.はその車両の販売チャンネルとして、Chrysler, Dodge, Plymouth, Jeepの4つのブランドを持ち、毎年1月の初旬に開催される北米最大の自動車ショー:デトロイトのNAIAS (North American International Auto Show)にそれぞれのブランドのコンセプトカーを発表していました。90年代初頭からChryslerブランドはそのブランドの象徴となる様な高級でプレステージ感のある乗用車を毎年発表していました。

そして、来る1998年の1月にもその続編となるプレステージカーを創作しようという事がトップダウンで伝えられました。ここでまた私を驚かせたのはそのパッケージング。全長、全高等の車両寸法は全てデザイナーの自由裁量に任されると言う事。決まっていたのはChryslerブランドを象徴するに相応しいV10の大型ガソリンエンジンを搭載する事と、その前年にオートショー様に車を展示するターンテーブルを新調したのでコンセプトカーのホイールベースがそのターンテーブルに収まる131インチ以内にする事だけでした。

あまりに自由度が大きいと手が止まってしまいがちになるのですが、そこには先輩デザイナー達が築いた幾多のコンセプトカー達が有ったので、先ずそれを参考にすることから始めました。幸いな事にそれらのChrysler Corp.の歴史を紐解いて行くと、1953年のコンセプトカーChrysler D’Elegance という車の写真を見つけることが出来ました。

落着いた佇まい、いかにも大型エンジンが収まっていそうな長いノーズ、必要最小限のコンパクトなキャビン。全てが今回のコンセプトカーの条件に当てはまるものでした。そこで私は「よし、このD’Eleganceを20世紀最後のプレステージカーとして蘇らせようとスケッチを始めました。当時乗用車はFFが主流で、ショートノーズ、キャブフォワードのロングキャビンが主流でしたから、なかなかロングノーズ、コンパクトキャビンのプロポーションが自然に描けませんでしたが、スタジオ内の他のデザイナー達の絵を見る内に、かなり誇張したオーバープロポーションのスケッチが描ける様になって来ました。

そして、プロジェクト開始から約1年後、1998年1月のNAIASで、”Chrysler Chronos”として発表され、日本の自動車メディア初め、様々な雑誌で取材して頂きました。中でもカーデザイナーを目指した当初から自らのバイブルの様に愛読していた”Car Styling誌123号”の表紙に単にコンセプトカーの写真ではなく私の描いたデザインレンダリングを掲載して頂いた事は本当に忘れられない感激でした。