オートカルトはドイツで2015年に設立された特異なミニチュアモデルカーのメーカー。「unknown」というテーマで、モーターショーなどで展示されたコンセプトカーやプロトタイプ、試作車や図面のみなど、市販されていない忘れ去られたクルマをレジン製のミニチュアモデルとして蘇らせている。各モデルとも333台限定生産というこだわりで、世界中のコアなコレクターから支持されている。
直輸入代理店としてオートカルト設立当初から関係が深い株式会社国際貿易では、10周年を記念したキャンペーンを12月1日より実施する。国際貿易直営のWebショップ「KBマート」において、期間中オートカルトブランドのモデルカーが通常価格から5,000円値引きのキャンペーン価格で購入できる。さらに、キャンペーン期間の先着10名には、非売品のオートカルト特製USBメモリーがプレゼントされる。
キャンペーン内容
①オートカルトブランドのモデルカーがキャンペーン価格で5,000円値引き
②先着10名様にオートカルト特製USBメモリー(8GB)プレゼント
期間:2025年12月1日(月)~2026年1月31日(土)
対象店:国際貿易直営Webショップ「KBマート」(注意:YahooショッピングのKBマートは対象外)
ストーリーで楽しむオートカルトのモデルカー
オートカルトの公式ホームページにはモデルごとにその車のストーリーが紹介されている。忘れ去られた歴史や関係者の思いなどを感じながら眺めるのもコレクターの楽しみ。そのごく一部を紹介する。
オートカルト公式ホームページ(DE)

創業者の子孫ジャンニ・ランチア専用に製作された試作車LP01は、「カロッツェリア・ギア」の手により非常にモダンなボディが装着された。大きなラジエーターグリル、ルーフからなだらかに傾斜したリアの切り替え部分には、独立したエアスクープもあった。 リアに2リッターV8エンジンを搭載し、3列フロントシートで、中央のシートに座って運転する。このクルマは今では現存しておらず、ジャンニ・ランチアがどのように使用していたのかについては何もわかっていない。

1930年代半ば、バスに空気力学的形状のボディを被せることは大胆なことだった。コーチビルダーのルードヴィッヒは、オペル・ブリッツのシャシーをベースに少なくとも4台のバスを製造した。独自形状の鋼板構造を図面に書き込んだ関係者は、その依頼主とともに歴史の流れの中で消えていった。半円形の後部にある2つの直立フィンが特徴的で、両側の乗客が景色を楽しむため45度に回転する椅子を備えていた。残念ながら、流線型のこのバスは1台も現存していない。

1966年、フォードのコンセプトカー、レンジャー IIが登場した。当時のアメリカではピックアップといえば、快適性も洗練性もなく、物資を運ぶための実用車だった。しかしながらレンジャー Ⅱは快適なピックアップであり、非常に未来的なデザインであり、そして何よりも高貴なピックアップだった。デザインを担当したのは後にSF映画で活躍するシド・ミード。彼のデザインは当時、時代の数十年先を行っていたと言えるだろう。なぜなら、今の時代、ピックアップは高級車の分野で確固たる地位を築いているのだから。

キース・コープランドのレコードカーは、1971年製のトライアンフGT6をベースにしたものだった。しかし、2012年に最高速度に挑戦する車としては時代遅れで通用しないため、空気抵抗を抑え、ホイールベースは大きく延長された。シボレーの5.9Lの360ciエンジンを搭載し、最高出力2,200psを引き出すことに成功。2012年、キースはユタ州ボンネビルの塩湖に乗り出し時速380マイルの最高速度を達成、往復の平均速度は364.051マイルで公式に承認され歴史に残る世界新記録となった。

ベルンハルト・ピションとアンドレ・パラの2人は、1951年のパリモーターショーで発表したチューニングカーが人気を博し、1953年の同モーターショーではパナール・ダイナのシャーシを使った「パナール X86 ドロミテ」を発表した。小型で軽快なそのスポーツカーに自信を持っていたが、当初の予定より需要は減り、ドロミテはごくわずかしか生産されなかった。このモデルはスポーツカーシーンの期待に応えたとは言い難く、総生産台数は15台にとどまった。

商社「カイロモーターカンパニー」は、英国の会社「Frisky」と一緒に、ノックダウン方式で車を輸入し、エジプトで組み立てることを計画した。しかし、エジプト当局は英国からの輸入を許可しなかった。そこでドイツの会社NSUの協力を得ることになった。1958年にエジプト・ギザの近くに工場が建設され、ジョヴァンニ・ミケロッティによって設計されたこの車は、偉大なファラオにちなみ「ラムセス・ガミラ」と名付けられ、最高速度は116 km / hに達した。

1923年、自動車構造における空気力学のパイオニア、ポール・ジャレイがアウディKを手にし、研究の末、新しい車体を作った。1920年代初頭の時代風潮の中で、ジャレイのボディは市販のそれとはまったく似ても似つかないものであり、流線型の未来的なクルマに対してアウディ経営陣は、大量生産では売れないと懐疑的であった。最高時速を標準の95km/hから130km/hという驚異的なスピードに引き上げられたことでさえ、買い手を納得させることはできないと判断したのだろう。

1935年に工科大学を卒業したチャールズ・トーマスはノーム・リチャードソンとチームを立ち上げ、ニューヨーク州バタビアでロケットカーを作り始めた。中央のとがったフロントフード、奥行の深いフロントライト、ホイールをカバーするボディ、曲線を描くボディデザイン。このモデルが一流企業に大きな興奮をもたらすだろうと期待して、彼らは自動車産業の中心地デトロイトにやってきた。しかし、3大自動車メーカーの代表は乗り気にはならず、そのユニークなモデルを量産するという大きな夢を叶えられることはなかった。
