大正・昭和のレース場跡地に内外のクラシックバイク80台が大集合!

2025年11月23日(日)、愛知県津島市宮川町の天王川公園を会場に全国からクラシックバイクが集まる『ビンテージランin津島』が開催された。今回で8回目を数えるこのイベントは「世界で一番平和なバイクイベント」を合言葉に、1969年(以前は1967年)までに製造された内外の車両約80台がエントリーした。

天王川公園の丸池を周回する外周路に並べられたクラシックバイク。この場所は1926~1967年までオートレース場で使用された。マシンが並ぶのは旧スタート位置。

会場となった天王川公園は、1926(大正15)年9月19日に津島神社の国幣神社指定を祝ってオートバイレースの全国大会を初開催したことをきっかけに、1967年まで二輪や三輪、四輪のレースが開催された。

1955年に天王川グランドで開催されたバイクレースを映した一枚。今回の『ビンテージランin津島』に展示された写真パネルより。

もともと濃尾地方の尾州(一宮市を中心に愛知県尾張西部から岐阜県西濃にかけての地域)では、明治・大正期の頃から機械化された繊維産業が盛んであったこともあり、事業でひと財産築いたオートバイ好きの若旦那衆が、当時高価だったマシンをこぞって買い求め、ここ天王川グランドで二輪競技を行っていたという。

かつて二輪や三輪、四輪競技が行われていた800mのオーバルコースは、天王川公園の丸池を周回する遊歩道となっている。

その後、第二次世界大戦による中断期間を経て戦後復活した天王川のオートバイレースは、1950年代に名古屋がオートバイ王国として勃興したことで、ホンダ、ヤマハ、スズキと地元メーカーが凌ぎを削る激しい戦いの場となった。

『ビンテージランin津島』が開催される天王川公園の全景。

しかし、1960年代に入ると鈴鹿サーキットや富士スピードウェイなどの国際格式のサーキットが誕生したことに加え、津島市も開発が進み、騒音問題などで市街地でのレース開催が難しくなったことから、1967年を最後にレース場としての天王川グランドは閉鎖することになる(その後、1986年に回顧イベントを1度開催)。

「第一回全国オートバイ競争」とのタイトルで、1926(大正15)年9月19日に津島神社の国幣神社指定を祝ってオートバイレースの全国大会が開催され、約20万人の来場者が駆けつけた。

だが、東京の多摩川スピードウェイや浅間火山レース(全日本オートバイ耐久ロードレース)が開催されていた浅間高原自動車テストコースなどのわが国の創成期のモータースポーツの跡地のほとんどが原型を留めていないのに対し、天王川グランドは公園として整備されたあとも、丸池を周回する約800mのオーバルコースは往時のままその姿を残している。

地元の貴重なオートバイの歴史と文化を現代に伝えるべく
活動を開始した有志団体『わっかプロジェクト』

こうした貴重な郷土の歴史と文化を今に伝えるべく、鳥越誉広(とりこし・たかひろ)さんらによって、平成の終わりに発足したのが結成されたのが、『ビンテージランin津島』の主催団体であり、有志団体の『わっかプロジェクト』である。

イベントは朝9時の開会式からスタートした。

彼らは戦前から戦後にかけて日本人の生活を支え、ときに娯楽として津島市民へと深く浸透したオートバイとモータースポーツの歴史を、令和となった今あらためて振り返り、かつてのオートレースを『ビンテージランin津島』として復活・再生させることで、往時を忍びながら世代を超えてわが国の二輪文化を後世へと継承させることを目的としている。

地元・津島市出身の水谷勝選手が今回のスペシャルゲストとして招かれた。1982年の全日本ロードレース選手権・500ccクラスのチャンピオンであり、鈴鹿8耐をはじめとした数多くのレースで活躍した水谷選手のキャリアは、少年期にここ天王川から始まった。

2019(令和元)年から始まった『ビンテージランin津島』には、当時の面影を残す希少なレース場跡地に年に1度ビンテージバイクが集まり、往時の貴重な資料が展示され、ハンチングにツイードのジャケット、ニッカボッカーズにブーツ、カンカン帽にクラシックスーツ、着流しに半纏や法被などの組み合わせによる大正・昭和初期の衣装に身を包んだ紳士・淑女が集う。

ステージ上では水谷選手がレースで使用したスズキRGB500Mk7とGSX-R1000のエンジンスタートデモを開催。RGB500Mk7は白煙とともにレーシーな2ストサウンドを会場に響かせた。

また、ケータリングサービスや企業出展、紙芝居やチンドン屋などの実演、わが国のオートバイ史をテーマにした講演会なども開催されることから、旧車ミーティングの枠を超え、多くの来場者が訪れる郷土のお祭りとして津島市民の間ですっかり定着した感がある。

『二輪文化を伝える会』理事長の松島裕さんによる講演も開催された。レース場跡地が往時のまま残る天王川公園の歴史的重要性や、我が国のオートバイの歴史についてわかりやすく語っていた。

実際、会場となった天王川公園には熱心なエンスージアストだけでなく、当時を知る地元の高齢者や、この場所でレースが行われていたことを知らない若い家族連れまで、幅広い年齢層の人々が会場を訪れ、おのおの休日を楽しんでいた。

懐かしのチンドン屋の実演ステージ。オートバイファンだけでなく一緒に来た家族連れが楽しめるようなプログラムも充実していた。
昭和の風物詩であった紙芝居の実演も行われ、子供たちを中心に人気を集めていた。

エントリー車は国産・欧州車・アメリカ車が1/3ずつ

天王川でのオートバイレースからちょうど100周年を迎えた今年の『ビンテージランin津島』にエントリーした80台のマシンの内訳は、1/3が地元・愛知で生産されたバイクをはじめとした国産車、1/3が英国車やドイツ車、イタリア車を中心とした欧州車、そして残りの1/3がハーレー・ダビッドソンやインディアンによるアメリカ車であった。

8回目を数える今回の『ビンテージランin津島』には、1969年までに生産された国産車、欧州車、アメリカ車が約80台集まった。

ホンダやヤマハ、スズキ、カワサキなどの4大メーカーの旧車のほか、キャブトンや陸王、メグロ、IMC(伊藤機関工業)、山口モーターなど、他のイベントでは滅多にお目にかかれない1950~60年代の希少なマシンがエントリーしていた他、動態保存されているだけでも貴重な100年前のBSAやダグラス、サンビーム、ハーレーなどの参加もあった。そして、驚くべきことにその多くにナンバーが付いていたのである。

展示エリアは車両の間隔が広く取られ、貴重な車両をじっくりと見学することができた。現代のバイクとは異なる構造のマシンも多く、オーナーに直接車両について質問ができる。

また、メインステージ上には、天王川レース場を実際に走っていた1954年型ツバサ・レーサーやツバサT-80、ギャンブルレーサーの極東レーサー、1962年型ホンダCR110レーサー、同ドリーム・スーパースポーツCP77などのレーシングマシンが展示された。

ダイハツの子会社だったツバサ工業が1954年に発表したT80をレーサーに改造したマシン。実際に天王川グランドで行われたレースを戦った車両だ。
1954年型のダートレーサー。フレームは手作りされたようで、エンジンは1954年型ツバサ製、ミッションはBSA製、車種不明のガーターフォークとさまざまなバイクのパーツが流用されている。

さらに、スペシャルゲストとして水谷勝選手が招かれたこともあって、実際に彼が乗っていた1982年全日本500チャンピオンとなったスズキRGB500Mk7、2005年鈴鹿8耐に参戦した際に使用したウォルターウルフカラーのGSX-R1000が特別展示された。

水谷勝選手が2005年鈴鹿8耐に参戦時に使用したウォルターウルフカラーのGSX-R1000。水谷選手がスペシャルゲストとして招かれたことから、ステージ上に特別展示された。
同じく水谷勝選手が1982年全日本500チャンピオンとなった際に使用したスズキRGB500Mk7。

このイベントはその名の通り、これらの旧車がかつてのレース場を走るところに最大の見どころとなるわけだが、津島神社南側駐車場で開催された2024年に引き続き、公園内に工事予定が入っていたため、残念ながら今年も走行展示はなし。

今回の『ビンテージランin津島』にエントリーしたオーナーとスタッフ全員による記念撮影。

やはり、歴史的な名車のデモランが大きな魅力になっていることから、2026年こそは走行展示が復活することを切に祈るところである。なお、次回以降は会場で出会った内外の珍しいクラシックバイクを紹介して行くことにしたい。

『ビンテージランin津島』のエントリーマシンを紹介

極東製のオートレース競争車。オーバルコースを周回することで戦われるオートレース車両の中でも、比較的に早い時期に製作されたマシンのようだ。一般的なレーサーとは構造が異なることがわかる。
スポーツカブC110をベースに、ホンダが世界GPを戦うために1962年に49.9ccDOHC4バルブエンジンを持つワークスマシンとして誕生させたのがRC110である。そして、同車をベースにレース初心者にも扱いやすい市販レーサーとして販売したのが写真のCR110カブレーシングだ。天王川のレースでも大いに活躍した。
1965年型ドリームCB77スーパースポーツの警察仕様であるCP77をオーナーの中川明洋さんがレース仕様にレストア&カスタムした。同じレーサーの部品を使用し、CR110のワークシート、ワンオフマフラーを装着した。
1927年型ハーレー・ダビッドソンJD型。1922年に誕生し、VLにその座を譲る1929年まで生産された同社のフラッグシップモデル。心臓部は1200ccのOHV/排気サイドバルブのオホッツバルブエンジンを採用する。
1952年7月の道路交通法改正を受けて36ccだった自転車用補助エンジンのスズキ・パワーフリーの排気量を60ccまで拡大した改良型のダイヤモンドフリーDF60。
スズキ・ダイヤモンドフリーDF60のリヤビュー。同車は第1回富士山登山レースを自転車用補助エンジンとしては最速の58分59秒で部門優勝したほか、札幌~鹿児島間の日本横断テストを成功させるなど、スズキは後発ながら高い性能を発揮した。
スズキ・ダイヤモンドフリーDF60の空冷2ストローク単気筒エンジン。最高出力は2psを発揮する。その高性能ぶりから月産6000台を販売する振りの人気を博した。
1954年型IMC K型。美しいこのオートバイは名古屋の伊藤機関工業がトライアンフ・サンダーバードを参考に製造した。当時のユーザーからは「もっとも美しい国産バイク」と評価され、『モーターサイクリスト』誌の人気投票で1位に輝く。
1954年型IMC K型のリヤビュー。しかし、伊藤機関工業はキャブトン・ブランドで知られる名古屋市内のみずほ自動車製作所にエンジン供給を頼っていたため、競合を恐れた同社に取引を停止されてしまい、わずか1年で生産中止となる。その後はガスデンにエンジン供給元を変更したが、伊勢湾台風の工場被災や販売競争の熾烈化によって経営が悪化。1962年に事業を精算した。
戦時中は局地戦闘機紫電改や二式大艇を生産していた川西航空機を前身に持つ新明和工業の1959年型ポインター・ラッシー。
1959年型ポインター・ラッシーのリヤビュー。同車はジュニアの後継として誕生したモペッドで、女性へのアピールすべくおしゃれで愛らしいスタイリングが採用された。
1963年型ホンダ・ベンリィスポーツCB92。現代に続くCBブランドの元祖だ。空冷4ストローク並列2気筒SOHC125ccエンジンを搭載したスーパースポーツモデルで、1959年の浅間火山レースのクラブマンレースにおいて優勝した高性能マシン。
1966年型ホンダCL72。スポーツモデルのCB72をベースに、オフロード走行性能を向上させた国産初のスクランブラーで、心臓部には空冷4ストローク並列2気筒SOHC250ccエンジンを搭載した。
1968年型ヤマハ125A-7。「赤トンボ」の愛称で親しまれたYA-1の血統を受け継ぐYA-6の後継車として誕生。スマートなルックスにセルモーターやホワイトリボンタイヤなどの充実した装備、低中速トルクの太いロータリーバルブ式の2ストロークエンジンを搭載した高級車として人気を博した。
1966年型カワサキ250A1サムライ。1965年の日本グランプリからロードレースへ参戦した同社が、ロードレーサーKACスペシャルと基本設計を共有するスポーツバイクとして発表した。輸出市場を視野に入れ、北米で人気のティアドロップ型タンクやキャンディレッド×ホワイトのカラーリングが外観上の特徴となる。
1935年型BMW R12サイドカー。同社のエンジニア兼デザイナーだったアルフレッド・ベーニングが手掛けたR7コンセプトに基づくアール・デコ調のデザインのバイクとして誕生した。心臓部は745cc水平対向エンジンで、世界で初めて油圧式のテレスコピックフォークを採用した。
1935年型BMW R12サイドカーを側車(車両右)側から撮影。同社の生産は戦時中の1942年まで続いた。生産された3万6000台のうち、少なくない数にサイドカーが装着され、軍用車両として斥候・連絡・物資輸送・兵員輸送などに活躍。ナチス・ドイツによる電撃作戦の原動力のひとつとなった。
1935年型BMW R12サイドカーのリヤビュー。同車のフラットツインの動弁形式はサイドバルブ式である。同時期に登場した高性能モデルのR17ははOHVエンジンを搭載していたが、こちらは2年ほどで生産を終了した。これはおそらく軍用車両としての信頼性が重視された結果であろう。
1963年型メッサーシュミット・べスパGS4。イタリア製のベスパ を敗戦後に連合国から航空機製造を禁止されたドイツのメッサーシュミット社がライセンス生産した車両。
1963年型メッサーシュミット・べスパGS4のリヤビュー。車名のGSとはグラン・スポーツの意味で、この車両は160cc空冷2ストエンジンを搭載しているようだ。イタリア製とは異なり、電装系はHELLA社、メーターはVOD社、シートはDenfeld社製となる。
メッサーシュミット・べスパGS4は2000台ほどしか生産されていない希少車。この車両は1990年代はじめに、宮城県の地ビール工場に技術者として来日したドイツ人のスクーターマニアが持ち込んだ車両とのことだ。
1947年型インディアン・チーフ。ハーレーと並ぶアメリカンバイクブランドの雄が世に送り出したフラッグシップモデル。写真の車両にも採用されているインディアンの特徴であるエスカルゴフェンダーは1940年代に採用された。戦後モデルはリーフスプリング・トレーリングリンクフォークからガーターフォークへと置き換えられた。
1949年型ハーレー・ダビッドソンFL1200。心臓部は1948年にナックルヘッドに代えて信頼性の向上したパンヘッドを、写真の1949年型から油圧式のテレスコピックフォークを採用している。この時点で現在に通ずるクルーザーのカタチが成立した。
1950年型ハーレー・ダビッドソンFL1200ハイドラグライド。パンヘッド&油圧式のテレスコピックフォークにディープフェンダーという現在のハーレーに通じるスタイリングをすでに実現している。鮮やかなオレンジ色はオリジナルペイントかもしれない。
株式会社チャンピオン76(ハーレー・ダビッドソン名古屋)のブース。かつては天王川グランドでの二輪車レースで活躍したハーレー・ダビッドソンの地元ディーラーが『ビンテージランin津島』を協賛。ニューモデルの展示のほか、グッズの物販が行われた。
懐かしいグッズを物販する出店。販売するアイテムは昭和の時代を忍ばせる珍しいお宝ばかり。掘り出し物を探す人で終日店舗は賑わっていた。
一般来場者の二輪駐車場にも珍しい車種が集まっていた。写真は目黒製作所のジュニアシリーズの人気モデル・メグロS3。
『ビンテージランin津島』の会場で展示されていてもおかしくないミントコンディションの戦前型BSA(S29か?)。展示エリアだけでなく、駐車場もチェックすることもオススメだ。
同じく一般駐車場にパークしていたヤマハXS650。1970年にXS1がマイナーチェンジして登場したモデル。年式的に『ビンテージランin津島』にエントリーはできないが、車両のコンディションは素晴らしく、また今となっては希少なモデル。