AMG
レース部門のエンジン開発者として

AMGの設立は1967年。ダイムラー・ベンツでエンジンの開発を担当していた2人のエンジニア、ハンス・ヴェルナー・アウフレヒト(Hans Werner Aufrecht)とエアハルト・メルヒャー(Erhard Melcher)が、バーデン=ヴュルテンベルク州ブルクシュタルにあった製粉工場の跡地に拠点を構えたのが、そのスタートだった。
1938年生まれのアウフレヒトは、戦後のシルバーアローの活躍に憧れ、大学卒業後にダイムラー・ベンツに入社。レース部門のエンジン開発者として活躍していたが、1955年のル・マンでの大事故をきっかけにワークス活動を休止し、レース活動へのサポートも徐々に削減していたダイムラー・ベンツは、1965年をもってレース部門自体の閉鎖を決定してしまう。
メルセデスのレース部門閉鎖を受けて

そこでアウフレヒトは志を同じくする後輩エンジニアのメルヒャーとともにグロースアスパッハ(Großaspach)にあったアウフレヒトの実家のガレージで、独自にエンジンのチューニングを開始。彼らが手がけたエンジンを搭載したW112型「メルセデス・ベンツ300SE」は、マンフレート・シークのドライブで1965年のドイツ・ツーリングカー選手権に出場する。
シークがツール・ド・ヨーロッパ・ラリーで事故死したため終盤の2戦を欠場することとなったが、2500ccクラスで10戦中10勝を挙げ、総合ランキングでも2位に輝く大活躍を果たした。
その実績をもとにアウフレヒトとメルヒャーは独立。アウフレヒトのA、メルヒャーのM、そしてグロースアイバッハのGを取ったAMGを社名としたのである。
スパ24時間レースでの快挙

1971年、彼らは「300SEL 6.3」の6332cc V8 SOHCエンジンに、独自のピストン、カムシャフト、クランクシャフト、ロッカーアームなどを組み込み、排気量を6835ccへと拡大することでノーマルの250hpに対して428hpへとチューン。それを本社から提供されたボディ(そこにも130kgの軽量化と様々なモディファイを敢行)に搭載したグループ2マシン「300SEL 6.8 “Rote Sau”(紅い豚)」を開発する。
300SEL 6.8 “Rote Sauはいくつかの国内レースを経て、スパ・フランコルシャン24時間レースに出場。ハンス・ヘイヤーとクレメンス・シッケンタンツのドライブで予選5位、決勝総合2位という好成績を残し、AMGの名を世に知らしめた。
アウフレヒトとメルヒャーは翌年には、6.8リッターV8にターボを装着した「マクラーレン M8F」でインターセリエ・シリーズへの参戦を目論むが失敗。一方300SEL 6.8 “Rote Sau”はマトラに売却され、航空機の主脚の耐久試験を行う高速テストベットへと改造。任務を終えたのちスクラップにされている。
「450SLC」の活躍

話を戻そう。レースでの活躍で名を馳せたAMGは市販車ベースのチューナーとしても活躍。1976年にはシュトゥットガルトに近い、アファルターバッハに自社専用工場と事務所を設立し、メルセデス・ベンツR107/C107型「SLC」、W116型「Sクラス」、W123型「ミディアム・クラス」のチューニングで名を馳せるようになった。
そして1978年、AMGは本社のバックアップをうけ、ヨーロッパ・ツーリングカー選手権(ETC)用にC107型「450SLC」をベースとしたグループ2マシンを開発する。ドイツのメディアによって「シルバー・アローの再来」と呼ばれたAMGメルセデス450SLCは、10:0に高めた圧縮比とボッシュDジェトロなどによって、ノーマル比150hpアップの375hpを発生。トランスミッションは3速ATのままながらクレメンス・シッケンタンツ、ハンス・ヘイヤーのドライブで、デビュー戦となったモンツァ4時間で予選5位、決勝3位を記録。ル・マン24時間にもエントリー(予選落ち)するなど、多くの話題を呼んだ。
結果的にAMGメルセデス450SLCでの活動は3年で終了し、好成績は残せなかったが、これらの活動のおかげで随一のメルセデス・チューナーとしての地位を確立。ダイムラー・ベンツとは完全に独立した会社として、メルセデス・ベンツを中心に様々なエンジン・チューニングパーツ、アルミホイール、エアロキットなどを開発、販売するようになった。
