歴史から紐解くブランドの本質【マクラーレン編】

究極のクルマでイメージが形成された「マクラーレン」ロードカー【歴史に見るブランドの本質 Vol.26】

現在のブランドを形作った「マクラーレンF1」。現在では極めて貴重な車として認識されており、オークションでは20億円を超える値が付いているという。
現在のブランドを形作った「マクラーレンF1」。現在では極めて貴重な車として認識されており、オークションでは20億円を超える値が付いているという。
自動車メーカーは単に商品を売るだけではなく、その歴史やブランドをクルマに載せて売っている。しかし、イメージを確固たるものにする道のりは決して容易ではない。本連載では各メーカーの歴史から、そのブランドを考察する。

若き天才ドライバー「ブルース・マクラーレン」

ブルース・マクラーレン。このニュージーランド出身の天才ドライバーからこのブランドの物語は始まる。ブルースの父親レス・マクラーレンはオークランドでガソリンスタンドを経営しており、趣味でレースにも参戦していた。ブルース少年は幼い時からレーシングカーに親しんでいたわけだ。

ブルースは14歳の時にヒルクライム競技に参戦したのを皮切りに16歳でレースに挑み、瞬く間に好成績をあげる。その才能を見いだしたニュージーランド国際グランプリ協会は1958年に彼をヨーロッパのF2レースに参加させた。1959年からF1にステップアップ、同年のアメリカGPで初優勝を果たす。22歳での優勝は当時のF1最年少記録である。

1966年には自ら開発に関与したフォードGT40でル・マン24時間に勝利する。同年、F1とCan-Amで自らの名を冠したマシンの製作をはじめ、コンストラクターとなる。Can-Amでの活躍は凄まじく、マクラーレンのマシンは1967年から1971年まで連続チャンピオンとなり、ブルース自身も1967年と1969年のドライバーチャンピオンとなった。

レースカーとともにロードカーを

しかし1970年、Can-Amマシンをテスト中にクラッシュ、帰らぬ人となってしまったのである。ブルース亡き後のマクラーレンは残ったチームメンバーが引き継いだ。1981年からはロン・デニスがチームを率いて黄金時代を迎えたのは皆さんご承知の通りである。ちなみにこの時期から車名に使われるMP4はマクラーレンとロン・デニスが1976年に設立したレーシングチームである「プロジェクトフォー」を組み合わせたものである。

一般的に、レーシングチームがロードカーを発売することはほとんどない。彼等はレーシングカーのスペシャリストだから、市販車の開発にはほとんど関心がないからである。しかしマクラーレンは違った。創始者のブルース・マクラーレンはマクラーレンのロードカーを作ることを模索していたのだ。1969年、クローズドボディのM6GTのうち2台をロードユースに改装し、1台を自らのプライベートカーとして使用していたのである。これを量産化する計画もあったが、ブルースの死によって頓挫してしまう。

その思いを引き継ぎ、ロン・デニスはロードカーを開発するマクラーレン・カーズを1985年に設立し、1992年にマクラーレンF1を発表する。ロン・デニスの完璧主義に基づき、ゴードン・マレーが究極の車として設計した。市販車として初めてカーボンモノコックを採用するなど、その類を見ない性能と仕上がりは自動車界に衝撃を与えた。マクラーレンF1はただ高性能なだけでなく、快適性や実用性にも優れており、まさに「究極のクルマ」と言えた。

今や20億円を超える幻のロードカーに

市販車として初めてカーボンモノコックを採用するなど、その類を見ない性能と仕上がりは自動車界に衝撃を与えた「マクラーレンF1」。

ただしこのF1、約1億円と当時としては飛び抜けて高価であったため(1995年発売のフェラーリF50でも新車時は5000万円程度だった)、ロードカーとしては64台しか売れなかった。それ故、現在では極めて貴重な車として認識されており、オークションでは20億円を超える値が付いている。

現在の市販車としてのマクラーレンブランドはこの伝説的なマクラーレンF1をベースに形成されていると言って良いだろう。

映画『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』でスタントを務めたレプリカ「アストンマーティン DB5」。映画『007』シリーズ60周年を記念したチャリティオークションにかけられ、292万2000ポンド(当時約4億6700万円)で落札されたという。

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著者プロフィール

山崎 明 近影

山崎 明

1960年、東京・新橋生まれ。1984年慶應義塾大学経済学部卒業、同年電通入社。1989年スイスIMD MBA修了。…