角も丸もジウジアーロから始まった

ここまではデザインを構成する要素の「発明」を見てきたが、ジウジアーロが巨匠と呼ばれるもうひとつの理由はスタイルトレンドをリードした実績だ。ショー用のプロトタイプで新たなスタイルに挑戦し、人々のデザインへの夢を喚起して、それを量産車に活かす。こうして彼は、80年代には「世界で最も大きな影響力を持つカーデザイナー」と評されるほどの名声を得た。

伝説のデザイナー「ジウジアーロ」が発明した4つのデザイン革新とは? 圧倒的な実績を探る【連載第3回目】

1960年代からトレンドをリードしてきたカーデザインの巨匠、ジョルジェット・ジウジアーロ。どうやって彼はその地位を獲得できたのか? ジウジアーロ取材歴40年のデザインジャーナリスト千葉匠が解説する。連載第3回目はその圧倒的な実績を振り返ってみよう。 TEXT:千葉 匠(CHIBA Takumi) PHOTO:Italdesign/三栄

【その1】70年代の角張ったフォルム


丸みを帯びた曲面フォルムが主流だった60年代から、シャープな角張ったフォルムの70年代へ。このスタイルトレンドの変化の先陣を切ったのがジウジアーロだった。

▲マセラティ・ブーメラン 1973年 プロトタイプ Photo:ITALDESIGN
▲ロータス・エスプリ 1975年 量産 Photo:ITALDESIGN

ジウジアーロは60年代末からプロトタイプのデザインに少しずつシャープな要素を取り入れ、それを72年トリノショーの2台のモックアップに結実させた。自主開発したマセラティ・ブーメランの木型モデルとロータスの依頼で製作したエスプリの石膏モデルだ。

ブーメランはマセラティ・ボーラのシャシーを使った実用性度外視のショーカー。ドアのウインドウは開閉できないが、それを活かしてボディ断面をシャープな六角形にした。

エスプリはもちろん量産化を意図したデザインだが、1/4モデル段階でロータスのコリン・チャップマンから「ノー」を突き付けられていたにもかかわらず、ジウジアーロはトリノショーでの公開にこだわってリファインを進め、チャップマンを納得させていた。

フロントフェンダーからリヤエンドまでシャープなラインを通し、その上に台形キャビンを載せ、ボンネットはフラットという基本テーマは両車に共通。エスプリのデザインの「先」に、量産の制約のないブーメランが言わば「夢のカタチ」としてある。それを同時に見せれば、エスプリのデザインの説得力が増すとジウジアーロは考えたのだ。

その後、ブーメランは73年ジュネーブショーでプロトタイプとしてデビューし、同年のモナコGPではグレース王妃を乗せてデモ走行。エスプリは75年にようやく量産開始となった。

▲VW ゴルフ 1974年 量産 人物はジウジアーロ Photo:ITALDESIGN

そうした角張ったデザインの経験を、コンパクトサイズにまとめたのが74年の初代ゴルフだ。カーデザイン業界には「折り紙細工だ」と揶揄する声もあったが、これが大ヒットして風向きが完全に変わり、角張ったクルマが続出することになる。

▲ランチア・デルタ 1979年 量産 Photo:ITALDESIGN
▲フィアット・パンダ 1981年 量産 Photo:ITALDESIGN

ジウジアーロ自身も探求を進めた。79年のランチア・初代デルタ、80年のフィアット・初代パンダがこの時期の代表作。しかしそれらが世に出る頃には、巨匠は次の時代に向けたトライを始めていた。

【その2】80年代のソフトシェイプ

1979年のアッソ・ディ・フィオーリはすでに、角張ったフォルムからの脱却を図っていた。70年代の二度の石油危機を経て、ジウジアーロが意識したのは空力だ。72年にピニンファリーナが、78年にフィアットが、それぞれ風洞を建設。イタルデザインもそこを借りて、空力を科学的に研究できるようになっていた。アッソ・ディ・フィオーリでドリップチャンネルをドアに内蔵したのも、空気抵抗の削減を意図したからだ。

▲メデューサ 1980年 プロトタイプ

アッソ・ディ・フィオーリ/ピアッツァは4座とはいえ2ドア・クーペ。ジウジアーロは4ドアの居住性と優れた空力の両立を目指してプロトタイプを開発し、80年トリノショーで発表。メデューサだ。そのソフトでスリークなフォルムとCd=0.263という驚異的な空力性能は、大きな反響を巻き起こした。

しかし当時はまだ、角張ったトレンドを追いかけていたメーカーが多かった時代。量産車が角から丸へ転換していくには少し時間がかかった。例えばトヨタ車のなかでトレンドリーダー役を担っていたセリカの場合、81年の3代目はシャープでパキパキしたフォルム。85年の4代目=通称「流面形セリカ」で滑らかな曲面を採用し、89年の5代目はより丸くなり、93年の6代目は「丸さを極める」をテーマにデザインした。

▲いすゞ・ジェミニ・ハッチバック 1984年 量産
▲トヨタ・アリスト 1991年 量産
▲スバルSVX 1991年 量産

ジウジアーロが手掛けたソフトシェイプの日本車はピアッツァと、そのデザインテーマを受け継ぐ84年の2代目ジェミニ、そして91年のトヨタ・アリストやスバルSVXなどがある。日産が「ジウジアーロに依頼した」と公表している初代マーチも丸みを帯びたフォルムだが、前編で述べたように、イタルデザインの公式な記録にマーチは含まれていない。

【その3】ミニバンの元祖となる背高1.5BOX

「ミニバン」という言葉は、83年11月にクライスラーが発売したダッジ・キャラバン/プリマス・ヴォイジャーに端を発する。が、3列シートの多用途乗用車という意味では、82年8月発売の日産プレーリーが世界初だ。同様の発想から生まれた三菱シャリオ83年2月発売だが、その原形となるコンセプトカーのSSWは79年の東京モーターショーで披露されていた。

▲メガガンマ 1978年 プロトタイプ Photo:ITALDESIGN

ミニバンの「元祖」は諸説入り乱れるわけだが、忘れてならないのが、ジウジアーロが78年トリノショーで披露したメガガンマである。彼は76年にニューヨーク近代美術館が主催したタクシーのデザインコンペに、1BOXワゴン型のプロトタイプで応募。その開発を通じて、全高を上げることによる居住性と乗降性のメリットを体感していた。それを活かしてデザインしたのが、2列シートながら全高を1.6m強に上げたメガガンマだった。

セダンのランチア・ガンマをベースとしつつ、メガガンマはサイドシル段差のないフラットなフロアを設定。これはその後のミニバンのスタンダードになった。大きなキャビンに短いボンネットを融合させた1.5BOXシルエットも同様だ。それらがプレーリーやシャリオ、クライスラーのミニバンにどう影響したかはわからないが、結果的に見れば、背高1.5BOXというメガガンマの提案がミニバンの先駆けになったとは言えるだろう。

▲コロンブス 1992年 プロトタイプ Photo:ITALDESIGN

ジウジアーロは92年のトリノショーでコロンブスという大型ミニバンのショーカーを発表した。前輪の後ろにV12を積み、その上にセンターステアリングの3人分のコクピット空間を配置。そこから一段下がった後部空間には回転対座も可能な4席のシートが並ぶ。それは彼にとって「究極のミニバン」を表現するものだった。

80年代半ばからミニバンが世に広まり始まると、巨匠のもとには「ミニバンをデザインしてほしい」との依頼が多くのメーカーから寄せられたという。「もう飽きたよ。もう最後という意味でこれをデザインした」とは、コロンブスを前に彼が漏らした本音。実際のところ、ジウジアーロ作品として公表されたミニバンの量産車はない。しかし彼は飽きるほどデザイン提案していた。スポットライトを浴びるスターデザイナーであると同時に、巨匠は「黒子」としてもデザイントレンドを動かしてきたのである。