「コーナーがある。攻めたくなるのは本能だ!」雨宮勇美(当時37歳)

蘇るRE雨宮伝説[OPTION誌1983年6月号]

走りは男のロマンだ!

公道を自由に走るのが、なぜいけないのか。今、東京の首都高や大阪環状のサーキット族が摘発され、走り屋に警告信号が出されている。しかし、誰でも命は惜しい。ストリートを攻めるといっても、自己の責任とコントロール下でアクセルを踏むのだ。無論、交通量の少ない道や深夜、早朝しか走れない。こうして俺たちはクルマを知っていく。誰もが経験する青春のモニュメント…マイ・ロード、シティ・サーキット!

雨宮勇美:山梨県生まれ。中卒で東京に就職、鈑金業のかたわらチューニングカーの速さに魅了され、ストリートを走り回る。ロータリーのストリートチューナーとして名を上げるが、1982年のWEC(世界耐久レース)に出場するなど、スピードスピリッツに溢れている。その親しみやすさと人情味で、若者には教祖的存在だ。

ガスが無くなるまで走った!亀戸から第3、東名の往復コース・・・雨宮勇美

俺、昔、暴走族だったからね。20~30台で走ったけど、信号無視なんかしなかったッス。いつものルートを全開で飛ばすだけ。

鈑金業の仕事してたから、土曜日が解禁日。亀戸からスタートして錦糸町、東陽町、そして銀座に出るんだよね。深夜でも12時ごろだから混んでたよ。でも、上手くかわして全開! 青山通りに出て、青学の横で休憩。ニーヨンロク(国道246号線)の三軒茶屋あたりで、ブレーキがベーパーロック起こすんだよ。それくらい、信号まで全開、フルブレーキングで走った。クルマはサバンナGTとかセリカだった。もち、フルチューンっス。

環8に出て第3京浜か東名に乗る。どちらのコースを取るかは、その日の気分。第3に乗って料金所に着くと、大体、競争するヤツが待ってる。俺のサバンナも街中じゃ速いけど、高速はパワー勝負だから、ポルシェなんかには負けたこともある。

第3を往復して環8に戻り、用賀から首都高に乗る。当時はそんなに混んでいなかったから、コーナー、ベタベタ攻めたよ。練習には最高の道だったね。これで、ガス欠寸前になるからね。朝4時ごろ家に帰るワケ。でも、当時の首都高には、今でいう正統派の走り屋グループもいて、”街中でなく、首都高で勝負しよう”なんて言われたもんだ。

検問はよく突破した。路地に入ったり、突っ切ったり。でも、暴走族といってもケンカや無茶はやらなかったし、ただ走るだけの暴走族だよ。

ウィークデーは銀座に出るくらい。並木通りでナンパっス。楽しかったね。

ゼロヨン? いつも信号でやっていたけど、本格的なのは、有明から。台数は少なかったけど、速いクルマがいたし。本物の暴走族が増えてからは、止めたッス。

そして東名レースに移ったけど、ここも今じゃ走れない。また、どこかのルートを捜すしかない。これからは、京葉道路と首都高・湾岸線で1周出来るらしいから、面白いかも。クルマも少ないんじゃないッスか?

今の若い人、可哀想だよね。走るとこがないから。でも、人にケガさせないように走れば良いと思うよ。スピードで捕まっても、自分だからね。いつも走ってないと運転、上手くならないし。

終わりに

伝説の走り屋、雨宮勇美…雨さんは破天荒に見えて、実はシャイでお茶目だったりする。なお、この“MY ROAD東京サーキット”特集は、OPTIONグループ総帥・Daiこと稲田大二郎にもスポットライトを当てているので、またの機会に紹介していこうと思う。

「社会現象と化した“東名レース”とは何だったのか!?」深夜の東名高速が無法地帯だった時代

「東名全開族25時の狂走曲」。OPTION誌が実録したその光景は、熱気と恐怖と狂気が入り混じる、唯一無二の最高速ステージだった。時速260キロの戦いが生んだ伝説と、夢の終焉に迫る。