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今日は何の日?■国内で初めてフェアレディを名乗ったフェアレディ1500登場
1962(昭和37)年10月4日、日産自動車から国産初の本格スポーツカー「ダットサン・フェアレディ1500」が発売された。1960年に北米向けにセダンベースのオープンカー「フェアレディ1200」を発売したが、専用ボディの本格的スポーツカーとして国内で初めてフェアレディを名乗ったのが、フェアレディ1500なのだ。

日産スポーツカーの始まり
戦後の1950年代、米国を中心に英国製の「トライアンフTR」 や「MGB」、イタリアのアルファロメオ「ジュリエッタ」など欧州製の小型スポーツカーが人気を獲得。日産も、海外市場に進出するために欧州製の小型スポーツに対抗できるモデルの開発を進めた。

まず1952年に日産として、また国産車としても戦後初のオープンカー「ダットサンスポーツ DC-3型」を投入。続いて1959年には、FRP製ボディを纏った「ダットサンスポーツ1000(S211)」、1960年には北米専用モデルながら初めてフェアレディ(表記は、フェアレデー)の名を冠した「ダットサン・フェアレデー1200(SPL212)」(※フェアレディじゃない!)の発売を始めた。ただし、いずれも既存の量産型セダンのシャシーを流用したオープンタイプのスポーツカー、いわゆる“屋根なしセダン”で販売も振るわなかった。

これでは、欧州製の小型スポーツカーには太刀打ちできないことから、本格的なスポーツカーの開発を目指して出来上がったのが、ダットサン・フェアレディ1500だった。ちなみに、フェアレディは当時の日産の勝又克二社長が渡米した際に観覧したミュージカル“マイフェアレディ”に由来すると言われている。

国内で初めてフェアレディを名乗ったフェアレディ1500
満を持して登場したフェアレディ1500は、新しくデザインされた3人乗りの当時欧州で流行っていたクラシカルなスタイリングを採用。初代「ブルーバード(310型)」のシャシーに補強のためのX型フレームを追加し、サスペンションもブルーバード用(前:ダブルウィッシュボーン、後:リーフリジット)のスプリングやダンパーを強化したものが使われた。

パワートレインは、セドリック用の1.5L 直4 OHVを最高出力71ps/最大トルク11.5kgまでチューンナップしたエンジンと4速MTの組み合わせ、駆動方式はFRだった。


エンジン出力自体は突出したものではなかったが、車重が870kgと軽かったため、最高速度は150km/h、0-400m加速19.7秒を記録。その快速ぶりを証明するように、翌1963年には第1回日本GPのスポーツカー1300cc~2500ccクラスで圧倒的な走りを見せつけ優勝した。


車両価格は85万円。当時の大卒の初任給は、1.7万円(現在は約23万円)程度だったので、単純計算では現在の価値で約1150万円に相当する。かなりの高価であったため、日本よりも海外で人気を獲得した。
その後フェアレディZへと発展
米国で人気を博したフェアレディ1500は、米国輸出モデルの重要な役目を担うようになり、米国市場からの要望に応える形で、以下のようにパワーアップを図った。
・フェアレディ1600


1965年に、排気量を1.6Lに拡大し、2連装したキャブレターなどでチューンナップした「ダットサン・フェアレディ1600(SP311)」を投入。最高出力90ps/最大トルク13.5kgmを発揮するエンジンで最高速度は165km/hまで向上し、欧州製1.6Lクラスのスポーツカーを凌駕した。また、2輪で名を馳せていた高橋国光選手(※「高」ははしごだか)が4輪に転向してフェアレディ1600をドライブし、1966年の第4回クラブマンレース、第3回日本GPのGTクラスで優勝を飾ったのは有名な話である。
・フェアレディ2000

1967年には、フェアレディシリーズの最高峰「ダットサン・フェアレディ2000(SR311)」が登場。2.0L 直4 SOHCエンジンにすることで、最高出力145ps/最大トルク18.0gmまでパワーアップ。最高速度は205km/h、0-400m加速は15.4秒を記録し、1967年と1968年の日本GPのGTクラスで2連覇を成し遂げた。

そして、この流れを汲んで1969年に登場したのが、現在も日産のスポーツモデルのフラッグシップであり、日本を代表するFRスポーツの「フェアレディZ」である。

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エレガントなスタイリングとモータースポーツの活躍で自動車黎明期のクルマ好きを魅了したフェアレディ1500。日本のオープンスポーツカー市場を開拓するという重要な役割を果たし、また令和の現在も高い人気を誇るフェアレディZの人気の布石となったのだ。
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