Mercedes 35 HP

「メルセデス」の名を冠した初のモデル

1900年、自動車愛好家のエミール・イェリネックのオーダーによって誕生した「メルセデス 35 HP」は、初めて「メルセデス」の名称が採用された。
1900年、自動車愛好家のエミール・イェリネックのオーダーによって誕生した「メルセデス 35 HP」は、初めて「メルセデス」の名称が採用された。

1900年11月22日、ダイムラー・モトーレン・ゲゼルシャフト(DMG)はカンシュタットで、世界初の近代的自動車であり、初めて「メルセデス」の名称を採用した「メルセデス 35 HP」を完成させた。先月登場した新型「メルセデス・ベンツ GLC」は、その35 HPのラジエーターグリルを再解釈したデザインを採用したという。

カール・ベンツとゴットリープ・ダイムラーが、それぞれ独自に自動車を発明した1886年からわずか14年後。1900年に登場したメルセデス 35 HPは、革命的な総合設計を備えており、近代自動車の将来を方向づける基準を打ち立てる1台となった。

メルセデス 35 HPは、DMGのビジネスパートナーであり、熱心な自動車愛好家のエミール・イェリネックの要望で誕生。優れた人脈を持つビジネスマンのイェリネックは、当時DMGにとって最重要顧客であり、1900年だけで72台もの新車をオーダーし、欧州上流階級の顧客へと販売していた。

メルセデス 35 HPは当時としては、破格の高性能車として登場。スポーツ仕様はレースでも活躍し、格式あるボディを架装すれば、快適なリムジンにもなった。多くの顧客が様々な用途で使用し、あらゆる場所で印象的な存在感を放っている。

馬車の設計思想から離れた近代的自動車

メルセデス 35 HPの5.9リッター直列4気筒エンジン。
メルセデス 35 HPの5.9リッター直列4気筒エンジン。DMGの主任技師ヴィルヘルム・マイバッハは、馬車の設計思想から離れた近代的自動車として「メルセデス 35 HP」を設計した。

メルセデス 35 HPの前史として、イェリネックがDMGの主任技師だったヴィルヘルム・マイバッハに対し、現代的で高性能かつ安全な自動車を要求した事実があった。イェリネックは、当時の自動車に課されていた制限を革新的な技術で克服することを求めたのである。

また、1900年、ニース・レースウイーク内で開催された「ニース〜ラ・トゥルビー・ヒルクライム(Nice–La Turbie hillclimb)」において、イェリネックが投入した「ダイムラー フェニックス 23 HP」をドライブしたレーサーのヴィルヘルム・バウアーが事故死。このレースにイェリネックは、長女の名前に由来する「メルセデス」という偽名で参加しており、この名はDMGが展開する自動車のブランド名に採用されている。

DMGの主任設計者を務めていたマイバッハは、従来とは全く異なる新設計を採り入れ、これまでにない完成度を持った自動車を開発目標に掲げた。そして、メルセデス 35 HPは、初めて「馬車を原型とした構造」から完全に決別した自動車となった。

低重心、ロングホイールベース、広いトレッドが、これまでにない走行安定性をもたらし、さらに傾けられたステアリングコラムやフットクラッチ付きのトランスミッションなど、今日の自動車にも続く重要なエルゴノミック設計も導入されている。

メルセデス 35 HPの画期的なポイントが、パワートレインにある。革新的なシャシー設計により、新しい高性能エンジンの搭載可能になった。ヨーゼフ・ブラウナーが設計したこのエンジンは、5.9リッター直列4気筒から最高出力35PS(25.7kW)を発揮し、当時としては驚異的な高性能を実現した。

また、高い耐久性を可能にしたのが、マイバッハが発明した「ハニカム式ラジエター」だった。この効率的な冷却構造は、単なる技術的必需品を超えてメルセデス、そして1926年以降はメルセデス・ベンツを象徴するデザイン要素となった。今回発表された新型メルセデス・ベンツ GLCでは、このラジエーターのデザインが、最新デザインアイデンティティとして導入されている。

発展の端緒となったメルセデス 35 HP

1900年、自動車愛好家のエミール・イェリネックのオーダーによって誕生した「メルセデス 35 HP」は、初めて「メルセデス」の名称が採用された。
メルセデス 35 HPは続くモデルの土台となっただけでなく、シュトゥットガルトに本社工場を建設するなど、DMG発展の端緒にもなっている。

メルセデス 35 HP 1号車は、数週間にわたり徹底的に走行テストが行われ、徹底的に熟成が進められた。この“慣らし運転”による完成度の向上を経て、1900年12月22日に初の「メルセデス」としてニースのイェリネックへとデリバリーされる。

イェリネックは1901年3月25〜29日に開催されたニース・レースウイークにメルセデス 35 HPを投入。メルセデス 35 HPは、ニース〜サロン〜ニース、ニース〜ラ・トゥルビーのヒルクライムなどで、圧倒的な勝利を持ち帰った。

1900年の35 HPに続き、DMGは1901年に姉妹車「メルセデス 12/16 HP」と「メルセデス 8/11 HP」を発表。これら初期メルセデス・シリーズは、1902年に操作性の簡素さから名付けられた「メルセデス シンプルックス」へと引き継がれている。

同時期、極めて重要な戦略的決断も下されている。1900年、DMGはシュトゥットガルトのウンターテュルクハイムに、18万5000平方メートルの敷地を購入し、新工場を建設した。これが現在のメルセデス・ベンツ本社工場へと発展。ただ、ゴットリープ・ダイムラーは、これらの大きな転機を見届けることなく、1900年3月6日に65歳の生涯を終えている。