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今日は何の日?■豊田自動織機で自動車部門設立が承認

1933年(昭和8年)12月30日、豊田喜一郎氏の要請で豊田自動織機(とよたじどうしょっき)製作所の緊急取締役会が開かれ、自動車部門の開設と増資の要請が承認された。これにより、自動織機に自動車関連の業務が追加され、自動車事業への本格参入が始まったのだ。
戦前の日本の自動車産業

数々の自動織機を発明した豊田佐吉氏が、豊田自動織機製作所を設立したのは1926年。長男である豊田喜一郎氏は、大学卒業後に自動織機の常務取締役として自動織機の研究開発に取り組んだ。
1929年に喜一郎氏は、契約締結のために英国を訪れ、時間をつくって各地の自動車工場を訪れて製作の現場を見学した。さらに同年に米国にも訪問し、デトロイトでフォードの工場を訪れ、ベルトコンベア式の流れ作業で効率的に自動車が生産されている様子に強い感銘を受けた。

一方、その頃の日本にはまだ本格的な自動車産業は立ち上がっておらず、1925年にフォードが横浜に工場を建設し、T型のノックダウン生産を開始。翌年には、GMが大阪で自動車生産を開始するなど、米国自動車メーカーの大きな波が日本を襲っていた。
日本の自動車市場は、瞬く間にフォードとGMに席巻されていった。道を走るクルマは増えてきたものの、そのほとんどはこの2社のクルマだった。フォードの工場は年産1万台の規模に達し、輸出も行なうようになったが、日本は工場として利用されていただけで、自動車の製造技術を学ぶことはできなかった。

この状況に危機感を持ったのが、豊田喜一郎氏だった。自動車産業こそが、日本の将来を支える基盤産業になると考え、米国車に対抗できる国産乗用車を作ることを決意したのだ。
自動車部門を設立して本格的な自動車開発を推進
豊田喜一郎氏がこだわったのは、“日本人の手で日本に合った日本人のための国産車を作る”という理念のもと、エンジンからボディまで完全オリジナルの乗用車を作ることだった。
しかし、自動織機にはクルマの技術も設備もない。しかも、未知な自動車事業への参入には懐疑的な意見も多く、自動車部門の設立は簡単ではなかった。ただし、生前父である佐吉氏(1930年に死去)は、喜一郎氏に“おまえは自動車をやれ”と進言したこともあり、1933年12月の臨時役員会で自動部門設立が承認されたのだ。

さっそく1934年には、シボレーのエンジンを参考にしたA型エンジンの試作機が出来上がり、1935年5月にA型エンジンを搭載した試作車「乗用車A1型」が完成。ところが、当時は戦時体制下であり、政府が求めたのは軍事にも使えるトラックだった。


喜一郎氏は、急遽トラックの生産を優先させ、同じA型エンジンを搭載した「G1型トラック」を約半年で完成させ、1935年8月に発売を始めた。翌1936年には、同じくA型エンジンを搭載したトヨタ初の乗用車「トヨダAA型乗用車」が発売された。


純国産車のパイオニアとなったトヨペットクラウン誕生


戦後になってトヨタは、本格的な乗用車の開発を再開。1947年にトヨタ初の小型乗用車「トヨペットSA型小型乗用車」、1953年にタクシー用に作られた「トヨペットスーパーRH型」などの乗用車を発売したが、いずれも販売は限定的だった。

そして1955年1月、トヨタは満を持して完全オリジナルの本格的な乗用車の初代クラウン「トヨペットクラウン」を世に送り出した。世界レベルを目指したトヨペットクラウンには多くの先進的な技術が投入され、X型フレームにフロントサスペンションはダブルウィッシュボーン独立懸架、リアは改良型リジッドリーフ、ドアは後席の乗降性を向上させるために観音開きが採用された。
パワートレインは、最高出力48ps/最大トルク10kgmを発揮する1.5L 直4 OHVエンジンと3速MTを組み合わせたFRで、最高速度は100km/hを達成。アメ車風のクラシカルなデザインで、日本の道路事情に合わせて作り込んだトヨペットクラウンは、当時の外国部品で組み立てた国内車より高い評価を得ることができた。

車両価格は101.486万円で、当時の大卒初任給1.1万円の100倍近い価格、単純に計算すれば今なら2000万円以上なので、ハイクラスのユーザーやハイヤー・タクシー用として人気を獲得したが、まだまだ高嶺の花だった。
その後、トヨタはコロナ、パブリカ、カローラと次々にヒット商品を生み出し、日本自動車メーカーのトップへと駆け上がったのだ。
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豊田自動織機に自動車部門が発足した頃、日産自動車は1933年に前身となる「自動車製造株式会社」を設立、ホンダはまだ影も形もなかった(創業は1948年)が、本田宗一郎氏が浜松で「アート商会」という修理工場をやっていた。
毎日が何かの記念日。今日がなにかの記念日になるかもしれない。



