連載

【メトロポリタンとナッシュのコンパクトカー】

ランブラーよりも小さなエコノミーカー「メトロポリタン」の開発

1950年4月に誕生した小型車ランブラーの成功が追い風となって、ナッシュ=ケルビネーター社は、1949~1951年の3年間に過去最高の売り上げを記録し、文字通りの全盛期を迎えていた。

1950年型ナッシュ・ランブラー・コンバーチブル・ランドー。

当時、同社を率いていたのは家電メーカーの経営者出身のジョージ・W・メイソンだった。創業者チャールズ・W・ナッシュの「独立系メーカーが作るべきクルマとは、ビッグスリーのクルマとは違ったものでなければならない」との経営哲学を引き継いだ彼は、第二次世界大戦が終結すると、これまでアメリカの自動車産業が作ってこなかった斬新なコンセプトの新型車の開発に乗り出した。

ナッシュ=ケルビネーター社の会長兼CEOを務めていたジョージ・W・メイソン。彼の詳しい経歴については過去記事を参照のこと。

その第1弾が「顧客に支払った以上のものを提供する」という創業以来の社是に従い、比較的安価な小型車でありながらも、性能や品質でワンクラス上のライバルに匹敵する革新的な小型車であり、1950年代以降に同社の主力車種となるランブラーであった。

1951年型ナッシュ・ランブラー 「カントリークラブ」。

だが、メイソンはそれだけで満足するようなことはなく、商圏を拡大するためによりニッチな市場へも目を向けており、1940年代後半からアメリカの自動車産業では成功例がほとんどない2種類の新型車開発に着手した。

そのうちの1台が1951年2月に誕生した戦後初のアメリカ製量産スポーツカーとなったナッシュ・ヒーレー・シリーズ25(詳しくは連載5~8回を参照のこと)であり、もう1台が1953年10月に誕生したアメリカ史上最小サイズの乗用車のひとつとなったナッシュ・メトロポリタンだった。

1952年型ナッシュ・ヒーレー・ロードスター。

当時、ビッグスリーが業界をリードしていたアメリカの自動車産業は「クルマは大きければ大きいほど良い」という単純な価値観のもと、新型車はモデルチェンジを繰り返すたびに大型化していった。しかし、モータウン(デトロイトの通称)の経営者のなかでメイソンだけはまったく異なる視点で市場を見ていたのだ。

1954年型ナッシュ・メトロポリタン・コンバーチブル。

メイソンは女性の社会進出によってサブコンパクトカー市場の拡大を予測

アメリカにおける女性の社会進出は、第二次世界大戦中の「ロージー・ザ・リベッター」運動に始まり、戦後の好景気による労働力不足、そして消費社会の到来とともに女性の就労意欲が高まりを背景に、独身はもちろん既婚女性の就労者数も増加を見せており、労働参加率は右肩上がりに増加していた。すでに職業婦人は珍しい存在ではなくなりつつあり、まだまだアメリカ社会は男性優位の風潮が支配的ではあったが、今後は社会のあらゆる場所で女性の労働参加が進むものと見られていた。

1942年にカリフォルニア州ロングビーチのダグラス社で撮影された写真。徴兵により男性が兵隊に取られたことから、労働力を補うために雇われた女性がB-17爆撃機を製造している。彼女ら大戦中に工場や造船所で働く女性のことを総称して「ロージー・ザ・リベッター」と呼んだ。

開明的なメイソンはそのことをいち早く見抜いていた。女性ユーザーをターゲットに、経済的で取り回しが良く操作のしやすいランブラーよりもさらに小さなコンパクトカー、彼が言うところの「エコノミーカー」(今日アメリカで使用される「サブコンパクトカー」という言葉はまだ存在しなかった)の需要が伸びると予測。それに商機を見い出していたのだ。

ウェスティングハウス社の戦時生産調整委員会の依頼により、J・ハワード・ミラーによって描かれた「We Can Do It!」のポスター。銃後の守りとして国内工場で働く女性の士気高揚の目的で製作された。このイラストが戦時増産のアイコンとなり、女性労働者の地位向上と戦後の権利拡大へと繋がった。

彼は自身の予測の正しさを証明し、エコノミーカーの開発プロジェクトを推進するため、マーケティング担当者に命じてアメリカ国内のユーザーがより小さな経済車を欲しているかの市場調査の実施した。すると、ほどなくしてメイソンのもとに一通の調査報告書が届けられた。そこには「ビッグスリーを含むアメリカの自動車メーカーはこの市場に有力な商品を投入しておらず、欧州からの輸入車が市場の中心となっている。その販売台数は年間1万5000台未満に過ぎない。女性を中心に小さな経済車を求める声はあったものの、現時点ではさほど有望な市場とまでは言えない」と書かれていた。

シアトルの写真会社で働く女性オペレーター。1945年撮影。

この結果に重役の中には落胆の声を上げる者もいたが、メイソンは報告書の結果から、小型車市場がいずれかなり重要な市場に成長するとの確信をますます得たのであった。それというのもアメリカに輸入された小さな欧州車を誰が購入しているのかという調査結果に着目したからだった。そこには主な購買層はアメリカ東部を中心にした郊外の住宅街に住む白人中流家庭と書かれていた。敏腕経営者の彼はそのことを見逃さなかったのだ。

アメリカでは女性の社会進出に伴い、経済的に自立した彼女たちは権利意識に目覚め、1960年代の「ウーマン・リベレーション・ムーブメント(ウーマン・リブ:女性解放運動)」へと発展する。写真は1970年8月にワシントンD.Cで撮影された女性の法的平等を要求するデモ行進。

ターゲットは都市部から郊外へと住居を移した白人中流層のセカンドカー

第二次世界大戦が終結すると、多くの若者が戦場より復員して家庭を持ったことで、1940年代後半のアメリカでは住宅不足が深刻な社会問題となっていた。それに対して中堅の住宅会社を経営するウィリアム・J・レビットは、建築業にフォード流の流れ作業を取り入れることで短期・安価に住宅を建築し、販売することを思いつく。

モータリゼーションの普及に伴い、彼が社長を務めるレビット&サンズ社は地価の安い郊外に住宅街を造成し、プレハブ住宅を建築して手頃な価格で売り出すと、白人のヤングファミリーを中心に申し込みが殺到したのだ(アフリカ系やユダヤ系アメリカ人からの申し込みは拒否されて販売されず、顧客が彼らに転売することも禁じた)。

ウィリアム・J・レビット
ウィリアム・J・レビット
(1907年2月11日生~1994年1月28日没)
アメリカの不動産開発・建築会社経営者。1907年にユダヤ系ロシア移民とオーストリア移民の間の子として生まれる。ニューヨーク大学を中退後、父親の起こしたレビット&サンズ社に入社。同社は1930年代はニューヨーク州ロングアイランド周辺の高級住宅の設計・建設・販売を手掛けていた。彼は父親から経営を引き継ぐと、設計は建築家である弟のアルフレッドに任せ、マネジメントを担当。第二次世界大戦が勃発するとレビットは米海軍に入隊し、設営隊の一員として太平洋戦線で仮設飛行場の建設に従事した。終戦後、復職した彼は帰還兵のための手頃な価格の住宅の必要性を痛感し、ニューヨーク州ロングアイランドに広大な土地を入手。巨大不動産プロジェクトとなる第一次「レビットタウン」を開発する。フォード流の流れ作業を建築業に取り入れるとともに、電動工具を積極的に導入して省力化・合理化を図った結果、短期・安価に住宅を建築し、販売することに成功。彼が売り出した手頃な価格の住宅は申し込みが殺到し、彼のビジネスは大ブレイクする。第一次レビットタウンが完売すると、続けてペンシルべニア州バックス郡に第二次レビットタウンを開発。その後も順調に不動産開発を進め、数多くの新興住宅街を誕生させた。それは、1週間で180戸、1日当たり36戸というハイペースであった。彼は1968年にITT(国際電話電信)にレビット&サンズ社を売却して9000万ドルを得たが、株式投資に失敗してほぼすべての資産を失ってしまう。しかし、彼の開発手法はアメリカの不動産ビジネスに多大な影響を与え、郊外に巨大なコミュニティを出現させたことでアメリカの景観を一変させたのであった。1994年1月、ニューヨーク州の病院で腎臓病のためレビットは死去する。享年86歳。

「レビットタウン」と名付けられた彼の不動産ビジネスは大成功し、同社の設計と建築手法は住宅建設業界に革命をもたらし、瞬く間に全米に普及していった。そして、巨大な郊外コミュニティを形成することでアメリカの景観を一変させたのである(と同時にアメリカの人種差別・人種隔離の象徴にもなった)。

1959年に撮影されたペンシルバニア州のレビットタウンを上空から撮影した写真。

その結果、アメリカ北部では中流家庭の白人は郊外に移り住み、白人住民の退去によって空室となった都市部のアパートには、人種差別の激しかった南部から移り住んできたアフリカ系の市民が住み着くようになる。

1958年に撮影されたニューヨーク州のレビットタウン。地価の安い郊外に宅地造成されたレビットタウンは、通勤や買い物などはマイカーの使用を前提にしており、2台分の車庫を標準で備えていた。

レビットタウンは交通の便が悪い地域にあることから日常生活を営むにもクルマが不可欠なものとなり、新興住宅街に住む白人中流家庭では、夫の通勤用のほか、妻用にもう1台乗用車を持つことが当たり前のこととなり、アメリカの自動車市場はいっそう拡大したのであった。

カナダ・オンタリオ州アンカスター郊外の住宅街。レビットタウンは北米の住宅市場に革命をもたらし、短期間でアメリカとカナダ全体に普及。その景観を一変させた。

しかし、1950年代前半のアメリカはモータリゼーションがまだまだ過渡期にあった。すなわち、加速度的に増加する自動車の台数に対してインフラ整備が追いついていなかったのだ。駐車場が整備された郊外の工場に勤めるブルーカラーはともかく、都市部でオフィスワークに就くホワイトカラーは、最寄り駅までクルマで行ってから電車に乗り換えるか、そのまま愛車で通勤する場合は、充分な広さを持たない都市部の駐車場を利用するか、路上駐車をするのがごく普通のことだった。

1949年に撮影されたカリフォルニア州ハリウッドのハドソンアベニューの駐車場。駐車スペースに余裕がないことに注目。1940~1950年代は急激な自動車の増加にインフラの整備が追いついているとは言えない状況だった。

また、アメリカでは戦前からマイカー利用を前提とした郊外型のショッピングセンターが散見されたが、全米に普及するのは1950年代後半からのことであり、それまでは買い物をダウンタウンの商店や都市部のスーパーマーケットで済ませることが日常の風景だった。そのようなときは、乗りつけたクルマは当然のように路上に放置されることになる。

1930年にワシントンD.Cにて開業した小規模のショッピングセンター(パーク&ショップ)。アメリカでは第二次世界大戦前からマイカー利用を前提にしたショッピングセンターが散見されたが、大規模化して全米に普及するのは1950年代後半に入ってからのことだった。

通勤や通学、買い物、夫や子供の送り迎えに全長6mにも達しようとするフルサイズカーを引っ張り出すのは使い勝手も悪く、不合理というものだろう。そこでファーストカーに対するセカンドカーという概念が生まれたのだ。多くの場合、夫がステアリングを握るファーストカーは見栄えが良い豪華なセダンやクーペが選ばれたが、妻が運転するセカンドカーには、日常の買い物や子どもの送迎、休日のレジャーに便利なステーションワゴンが選ばれることが多かった。

1949年型オールズモビル88ステーションワゴン。郊外の住民がセカンドカーとして購入したステーションワゴンの一例。

しかし、都市部に勤める若き職業婦人や郊外に住む専業主婦の中には、ランブラーに代表されるコンパクトカーを選ぶユーザーも少なくなかった。とは言うものの、それは当時のアメリカ車においての話であり、コンパクトカーにカテゴライズされるランブラーを一例に挙げると、全長4470mm×全幅1867mm×全高1518mmと他国の大型車に匹敵するサイズであった。

1954年型ナッシュ・ランブラー。

いかに国土が広大なアメリカにおいても絶対的に使いやすいサイズとまでは言えず、東部のインテリ層を中心によりコンパクトな欧州車を求めるユーザーがいたのも無理からぬことであった。

だが、シトロエン2CVやルノー4CV、モーリス・マイナー、フィアット500(初代:トッポリーノ)などの欧州車はアメリカ車に比べて信頼性に劣り、装備や快適性においても貧弱で、何よりもサービス網の整備が立ち遅れていた。ひとたび故障すれば部品の入手に数週間~数ヶ月も掛かることはざらで、近くに信頼できるディーラーでもない限り、平均的なアメリカのユーザーがおいそれと手を出せる代物ではなかったのだ。

1953年型シトロエン2CV。
1947年型ルノー4CV。
1951年型モーリス・マイナー。
1949年型フィアット500C。

それでもアメリカ自動車産業がコンパクトカー市場に熱を欠いていたこともあって、欧州車は年に1万5000台も売れ続けており、市場を独占していたのだ。この事実に注目したメイソンは市場を欧州車から奪うべく、これらを性能や品質面で凌駕し、充実したサービス体制で販売するアメリカ製エコノミーカーの開発プロジェクトを推進するとの決定を下したのである。

ヨーロッパ製小型車が大量輸入される前にサブコンパクトカーを作れ!

決断に当たってメイソンにはこのような考えがあったと推察される。

「幸いなことにビッグスリーを含むライバル社はファーストカー市場ばかりを追いかけてセカンドカー市場の存在さえ認知していないらしい。今後、女性の社会進出はますます盛んになるだろう。私の予測が正しければ将来的にエコノミーカーの市場規模は女性の社会進出に合わせてさらに拡大するはずだ。企業規模に劣る独立系メーカーのわが社が取りうる選択肢はひとつしかない。それは他メーカーがエコノミーカーの有望性に気づく前にいち早く新型車を投入し、市場を完全に制覇してしまうことだ。だが、海外メーカーの動向も気になる。今は欧州から輸入される小型大衆車はメーカーが契約したインポーターが細々と輸入しているに過ぎないが、いずれはアメリカに現地法人を設立し、サービス体制を整えた上でアメリカに大量輸入する欧州メーカーが現れることだろう。おそらく、それはそう遠くないうちに現実となるはずだ。その前にナッシュ=ケルビネーター社は魅力的なエコノミーカーを開発・販売し、市場を確保しなければならない。だが、我われに残された時間はそう多くはないだろう」

1949年型VWタイプI。

このメイソンの読みはまったく正しかった。アメリカの自動車産業は利幅の薄い小型車にほとんど注意を払っていなかったが、ヨーロッパのメーカーは外貨獲得のため北米への輸出を強化しつつあった。とくに顕著だったのがドイツのVW社で、1949年にはオランダで代理店契約を結んでいたホフマンを通じてアメリカへ2台のタイプI(のちにビートルの名で販売)を輸出していた。だが、戦争終結から間もないこの時期、アメリカ国民のドイツへのイメージは最悪と言ってよく、その出自から「ヒトラーのクルマ」との誹りを甘んじて受け入れざるを得ず、アメリカに上陸した2台のタイプIの売却先を見つけるのにも苦労するほど、当初販売はまったく振るわなかったのだ。

オランダのVW正規代理店のホフマンによって1949年にアメリカ市場に輸出された最初のタイプI。のちのアメリカ市場における爆発的なヒットからは想像ができないが、このときに輸出された2台のタイプIはアメリカの消費者には見向きもされず、スペアパーツとセットにして二束三文で投げ売りされた。

しかし、この結果を受けてもVW社長だったハインツ・ノルトホフはアメリカ攻略を諦めなかった。製品イメージを改善すべく、1953年にユダヤ系のウィリアム・バーンバックが経営するアメリカ有数の広告会社DBB社に宣伝・広告を依頼。同社のエース級アートディレクターのヘルムート・クローネが担当となったことで、ウィットに飛んだ広告を展開。なかでも1959年からの「Think Small」(シンク・スモール)キャンペーンは大ヒットし、これが功を奏して売り上げを伸ばしていくことに成功する。

ハインツ・ノルトホフ
ハインツ・ノルトホフ
(1899年1月6日生~1968年4月12日没)
1899年1月に銀行家の息子として生まれる。ベルリン工科大学を卒業後、1927年にBMWに入社。航空エンジン部門に配属される。1929年にオペルに転職。同社はノルトホフの入社直前にGM傘下に入ったことで、アメリカ流の大量生産システムや商習慣、文化などを学んだ。社内で昇進した彼は、第二次世界大戦勃発後の1942年にオペル・ブリッツなどを生産するブランデンブルクの軍用トラック工場の責任者に就任する(その際に捕虜やユダヤ人を強制労働させたことが後年問題となる)。敗戦後、ナチスに協力したことを理由にアメリカ占領地での就業を禁止されたが、イギリス軍のアイヴァン・ハースト少佐の推薦もあり、イギリス占領地内で英陸軍工兵隊の管理下にあったVW工場の取締役に就任する。就任1年目に生産台数を倍増させたノルトホフは、1961年末までに年間生産台数は100万台を超え、VWタイプI(ビートル)を世界的なベストセラーへと押し上げた。同社のCEOに就任した彼は1965年にはアウトウニオンを傘下に収めている。1960年代後半、タイプIの旧式化に伴い、後継車としてフェルディナント・ピエヒの開発による先進的な小型車EA266の開発計画を推進するが、1967年夏にノルトホフは心臓発作を起こす。10月に職場に復帰したものの、その半年後に他界。後任にクルト・ロッツが短期間CEOを務めたあと、ルドルフ・ライディングが後任となる。なお、床下ミッドシップ式という凝った設計のEA266は、ライディングによって採算性なしと判断されてキャンセルされ、代わりにジョルジェット・ジウジアーロが提案したゴルフ(I)が採用されることになった。

すなわち、ナッシュ=ケルビネーター社がエコノミーカーの開発の検討をはじめたのとときを置かずして、のちにライバルとなるVWタイプIもまた北米でのビジネスを本格始動したわけで、ここでもメイソンの予測が正しいかったことが証明されたのだ。

1959年からの「Think Small」(シンク・スモール)キャンペーンのなかでも、もっとも人気のあった新聞広告。余白をたっぷり使い小さくVWタイプIが写っているだけで、必然的に読者の視線は小さなクルマとキャッチコピーに目が行くレイアウトだ。DBB社アートディレクターのヘルムート・クローネの傑作広告のひとつ。

もしもメイソンの適切な時期に適切な経営判断を下さなければ、メトロポリタンの誕生はなかったであろうし、1960年代を待たずにVWはアメリカのサブコンパクトカー市場を完全に独占していたのかもしれないのだ。

サブコンパクトカーの必要性を見抜いていたふたりの男の運命的な出会い

こうしてナッシュ・メトロポリタンの原型となるコンセプトカー・NXI(ナッシュ・エクスペリメンタル・インターナショナル)の開発がスタートした。このときナッシュ・ケルビネーター社に協力したのがフリーランスのカーデザイナーとしてデトロイトを中心に活躍していたウィリアム・J・フラジョールだった。

1950年1月にニューヨークのウォルドルフアストリアホテルで発表されたナッシュ=ケルビネーター社のコンセプトカー「NXI(ナッシュ・エクスペリメンタル・インターナショナル)」。同社初のサブコンパクトカーで、その名から分かるとおり、開発当初からアメリカ国内市場だけでなく海外市場への輸出も考慮されていた。

幼少期からカーデザインに興味があった彼は、1930年に若干15歳にしてクライスラー社主催のデザインコンテストにスケッチを出品。それがウォルター・P・クライスラーの目に留まったことから高校在学中に同社からカーデザインの仕事を発注された経歴を持つ若き天才カーデザイナーだった。高校卒業後、クライスラー社に就職した彼は、6年後にはエドセル・フォード(フォード2代目社長)から高給を提示されてヘッドハンティングされ、フォード社に移籍する。そこで彼はデザインチームの一員としてリンカーン・コンチネンタルMK.I(主任デザイナーはユージン・T・グレゴリー)の開発に尽力した。

1939年に発表されたリンカーン・ゼファー・コンチネンタルMK.Iのコンセプトカー。半年後に内外装の意匠をあらためた生産型のコンチネンタルMK.Iがデビューする。

1939年に独立し、自身のスタジオを起こしたフラジョールは、イラン国王のレザー・シャー・パーレビ(1979年のイラン革命で失脚するパーレビ2世の父親)から発注を受けた装甲車キャデラック・リムジンなど、富裕層からのカスタムカー製作を請け負っていた。

第二次世界大戦後、自動車以外の工業デザインを手がける一方で、先見の明を持っていた彼はアメリカ国内の人口動態が大きく変化したことに注目。ヤングファミリーが大都市を離れて急速に発展する郊外へと移り住み始めたことで女性ユーザー向けのセカンドカーの必要性を強く意識し、アメリカの自動車メーカーが生産していた大型車ではなく、女性の体格に合わせて小型で扱いやすく駐車しやすいクルマを企画したのである。

ウィリアム・J・フラジョール
ウィリアム・J・フラジョール(1915年生~1999年5月9日没)
1915年にミシガン州フリントに生まれ、ベイシティのフラジョール夫妻に養子として引き取られて7人家族の一員として育つ。幼少期からカーデザインに並々ならぬ興味を抱いており、クライスラー社主催のデザインコンテストにスケッチを出品したことが縁で、高校在学中にクライスラーから仕事としてカーデザインの発注を受ける。これがきっかけとなり、高校卒業後に同社に就職。その6年後にはエドセル・フォードからの誘いでフォード社に移籍し、リンカーン・コンチネンタルMK.Iの開発に携わった。1939年に自身のスタジオを起こしたフラジョールは、富裕層向けのカスタムカーのスタイリングを請け負う一方で、ヨットや家電、時計、精密機器、おもちゃなど自動車以外の工業デザインを手がけるようになる。第二次世界大戦後、アメリカ国内の人口動態の変化を受けてサブコンパクトカーの必要性を痛感し、自身のデザインした小型車のスケッチと企画書でビッグスリーにプレゼンするが芳しい評価を得られず、状況好転のためにデトロイト市内で度々小型車の有用性を訴える講演を開催。そのような活動を通じてナッシュ=ケルビネーター社代表のジョージ・W・メイソンの知己を得て、コンセプトカー・NXIの仕事に携わる。同車がメトロポリタンとして市販されたあとも、デザインコンサルタントとしてナッシュ=ケルビネーター社で働き続けた。その後は野球選手のテッド・ウィリアムズのための特注車のスタイリング(ベースはナッシュ・ヒーレー)、ジャガーXK-120のシャシーに特製ボディを架装したフラジョール・フォアランナーなどを発表し、高い評価を得た。1950年代以降はトレーラーハウスメーカーと契約し、世界初のダブルワイドトレーラーハウスなどのデザインを担当。1978年に工業デザイナーを引退した。晩年、メトロポリタン・オーナーズクラブに見いだされて「メトロポリタンの父」と呼ばれるようになる。彼は気さくで穏やかな人柄からメトロポリタンファンに愛され、彼もファンを大事にし、頻繁にイベントや会合に足を運んだ。1999年5月没。

フラジョールはスケッチと企画書を携えてビッグスリーの門を叩いたが、その反応はけっして芳しいものではなかった。彼らは利益率の高い大型車を売ることに満足しており、アメリカにはコンパクトカー市場が存在しないものと頭ごなしに決めつけていたからだった。だが、諦めきれなかった彼はこのような状況を少しでも好転すべく、デトロイト市内で開催されていた業界団体や女性団体の集まりに顔を出し、コンパクトカーの必要性を訴える講演を精力的っていたのだ。

そんな1948年のある日、いつものように講演を終えると、ひとりの恰幅の良い紳士がフラジョールに声をかけてきた。「じつに素晴らしい講演だった。私もキミの意見に全面的に賛同するよ。ところで、このあと少し時間があるかな? もっと詳しく話を聞かせてもらえないだろうか? ああ、失敬。挨拶が遅れたね。私はこういう者なのだが……」。彼が懐から差し出したビジネスカードにはナッシュ=ケルビネーター社 会長兼CEO ジョージ・W・メイソンと書かれていた。これがモータウンでコンパクトカーを開発したいと考えていたふたりの男の運命的な出会いだった。

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