Ferrari 849 Testarossa
美しさよりも逞しさや強さ

ひょっとするとマラネッロは我々のような20世紀からのフェラーリ好きに“隠し事”があるんじゃないか。そんな疑念がふと湧いたのは「F80」のワールドプレミアだった。
ル・マン直系のスーパーカー。その文法は大いに納得する。けれどもV12ではなくV6でハイブリッド(現代のLMだから当然なのだが)、スタイルはとにかく空力重視。まるでF1マシンのようなカーボンフロアが展示され、そちらの美しさに目が向くほどだった。
次に「アマルフィ」。オールドファンをも虜にした「ローマ」の後継だが、どちらかといえばもっと分かりやすく、マッシブな印象に変化した。女性的から男性的へ、とでも言おうか。
そして「849 テスタロッサ」が「SF90」シリーズの後継としてデビューするに及んで、その流れは確定した。名前は古く、中身も継承する(もちろん大幅にグレードアップした)がスタイルはF80譲りで美しさよりも逞しさや強さを意識させるものに。
つまりはブランドイメージの変換

さらにさらに先日の「ルーチェ」。20世紀からのフェラーリ好きにとってフェラーリは“ザ・イタリア”だ。イタリアらしさの権化である。ところがルーチェのインテリアにイタリアの香りはほとんどない。
グローバルなモダンデザイン。機能美に徹した。壊れそうなくらい華奢な美しさなど微塵も回顧させない。その代わり、要素のひとつひとつは伝統的だ(3本スポークハンドルのアルミリムやトグルスイッチ、アナログニードルなど)。ラブフロムに担当させたのだから、その結果は当然だろう。しかもルーチェはブランド初のフルバッテリー駆動モデル……。
そういえばサンフランシスコのディナーで隣に座ったジョン・エルカン会長が日本のマーケットについてしきりにこう聞いてきた。「なぜ日本でそれほどまでにフェラーリは人気なのか?」と……。何もその(簡単すぎる)理由を知りたいわけじゃあるまい。ブランドイメージの変換に日本の市場が反応できるのかどうか、が気になっているのではないか。
古い世代の拒否と新しい世代の歓迎

ひと言でいえば、ユーザー層の拡大と若返りの布石である。そう考えればこのところマラネッロ製の新型モデルがデビューするたびに巷で繰り広げられる侃侃諤諤の論争の理由もよく説明できるのではないだろうか? 古い世代の拒否と新しい世代の歓迎と……。
849テスタロッサをスペインで試してみた私の感想は、
①SF90ストラダーレとは乗り味が全く違う(ローマからアマルフィも同じだった)
②フェラーリに乗るということの意識のありようも異なる
③けれども市井の人たちのリアクションはひょっとするとこれまで以上
というものだった。詳しく説明しよう。
まず①だが、とにかく走り始めから扱いやすく、全てがスムーズだ。工業製品としてまたしても完成度が上がった、とも言えるが、それ以上にユーザーフレンドリーな設計が貫かれたという印象が強い。裏を返すと、これまでのモデルにあったような“ヒリヒリ”する感覚は失せた。ドライブ後に無事ガレージに戻すことができてホッとするという、安堵の感覚もない。妙な汗もかかない。サーキットであっても!これが②だ。
そして③。ある意味、最も大事なことだけれど、モデルの変遷に詳しくない市井の人々にとってSF90も849テスタロッサも“ただただフェラーリ”でしかない。跳ね馬のエンブレムさえ付いてあれば、すでに憧れの対象として成立している。だからプロサングエも成功した。
ハードではなくドライバー視点

マラネッロは古い世代の拒否反応など重々承知なのではないか。確信犯的に世代交代を促しているように思える。
テスタロッサというネーミング自体、私にはその隠し事を象徴する名前に思えてならない。過去のテスタロッサは、テスタ・ロッサ(1950年代の500TRや250TR)も含め、現状の打破、未来への挑戦という文脈で誕生している。いずれも歴史的なビッグマイナーチェンジに際して採用された名前であった。
翻って、SF90というモダンミドシップスタイルの完成系から、中身の本質を変えることなく、新しいスタイルを、それもただ奇抜に新しいだけでなくヘリテージモチーフもさりげなく散りばめつつ、実現した。F80を新たな頂点とするロードカーポートフォリオは、実をいうと「ドーディチ・チリンドリ」も含めて、全くもって挑戦的である。
そういえばマラネッロは最近、そのポートフォリオをクルマというハードの視点ではなくドライバーの視点で区別するようになった。それに伴ってこれまで頑なに本国開催にこだわった国際試乗会も積極的に海外で行うようになってきた。世界のクルマ好きの視点でフェラーリの世界を見つめる。マラネッロはそんなことを志向しているように私には見える。


