環7沿線にお住まいの方、あなたの知っているところはありますか?

定点観測が好きである。

といっても、自分で興味ある場所に赴いて写真を長期に渡って撮り、その変化を記録するというのではなく、昔のドラマや風景写真を見て、その場所がいまどうなっているかをグーグルアースで見たり、実際に赴いたりしてその変化をおもしろがって見るのである。

その場所の現代の景色を見ると当然ガラリと変わっているのだが、目を凝らして見るとひとつやふたつ、同じ建物が残っているもので、それを発見するとうれしくなる。

きっかけは刑事ドラマの「太陽にほえろ!」。
1972年7月から1986年11月までの14年4か月に渡って日本テレビで放映された「太陽にほえろ!」は、警視庁七曲署の刑事たちが活躍する、新宿が舞台の刑事ドラマだ。
ビデオや再放送で、新宿ビル街で刑事たちが犯人と格闘するシーンを見ているうち、この場所はいまどうなっているのかと思い始めたのが最初だ。

オープニングで石原裕次郎が歩く前に建つ、世界の国旗を飾るビルはてっきり国連だと思い込み、
「おー。石原裕次郎ともなるとオープニングは国連の前まで行って撮ったのか。さすがスター。」
なんて思ったのだから私の群馬のいなかもん指数もかなり高い。
これは当時の京王プラザホテルだったのが、何かの用事で東京に来たとき、初めて京王プラザホテルの外観を見たときは「おー、テレビで見たやつだ」と感慨にふけったものだ。
ネット時代になって、誰かが載せた過去の地図やグーグルアースで調べやすくなり、いまじゃあ画面をパッと見ただけでこれがどこなのか、おおよその見当がつけられるようになった。
その意味で、最近行われている新宿駅周辺の再開発はさびしい。

72年当初、画面を飾る高層ビルは京王プラザホテル1棟のみ。
翌年から1本ずつビルが増えるとともに人気も上昇。
長寿ドラマになるにつれ、当初意識していなかった制作側も、「こりゃあ新宿の変化の記録になる」と、途中からはその変わりようを意識しながら新宿の街を撮っていくようにしたという。
だから1972年7月のスタート当初の画面は昭和40年代風の景色で戦後の名残が見られるが、放映末期ともなるといかにも景気のよさそうな街並みがブラウン管(いまなら液晶場面)を占領する。

ついでにいうと、刑事たちの乗るクルマは、ごく初期こそトヨタ車の他に初代ジムニーや外車が登場していたが、ほどなくトヨタ車に1本化。
長き放映期間中、「クジラ」だったクラウンは当時の最新である「いつかは」のクラウンにまで登りつめ、初代セリカLBはドアミラーやデジタルメーターを持つ流面形セリカに進んだ。
その間、初代~2代目ソアラに初代スープラといったニューブランドが捜査に加入・・・思えば「太陽にほえろ!」は、14年間の新宿の街並み変化だけでなく、トヨタ車の変遷をも映し出すドラマだった。
なお、画面にトヨタ車以外のやれっちいクルマを登場させることで、その数分後、必ず横転したり崖から落ちたりするなどが視聴者にわかるよう配慮されていた(うそ)。

それにしても、自動車界100年に一度の変革とか、自動車を取り巻く環境変化のスピードは大きいというが、その割にいまのクルマと14年前のクルマに、少なくともスタイリングの面ではこの頃ほどの大きな違いは感じない。

「太陽にほえろ!」第1話「マカロニ刑事登場!」で、初代ジムニーで信号待ちしているマカロニ刑事(萩原健一)が、隣り車線のライダーからライター(しゃれ)を借りる新宿中央公園西交差点。
借りたのをニワトリ並みの早さで忘れてそのまま左折し、追いかけられたライダーからライターを取り返されるふれあい通り。
第217話「スコッチ刑事登場!」で、スコッチ(沖雅也)が飛び降りる新宿中央公園の階段の踊り場(公園通り側・ハイアットリージェンシー東京の前)。
第691話「さらば! 山村刑事」で尾行されていることに気づきながら歩く山さん(露口茂)がいったん姿を隠す、公園通りから角筈橋に上がる階段。
刺客と格闘中、山さんが撃たれるシーンは上から。
山さんが左腕から血を流しながらボスと息子に電話したシーンは角筈橋。
向こう側の囲いはさきの階段の出口だ。
放送では囲いの手前側に公衆電話があったが、実際のこの場所に公衆電話はない。
あったら歩行者に邪魔になる場所だ。
受話器を置いて数歩歩いた後、倒れて息絶えた場所。
モーターファン1974(昭和49)年2月号表紙。製作はその前年、1973年11から12月にかけて。

前段が長くなったが、お話変わってわれらがモーターファン。

「モーターファン1974(昭和49)年2月号(以下MF)」では、環状7号線の特集をしている。
タイトルはこの月が新連載となる「道シリーズ」で、第1回目として「東京環状7号線・傷つき苦悩する首都の動脈」のタイトルで環7の要所要所を写真に収めている。

誌面の冒頭でまずカラー写真3ページでダイジェストを、しんがりの方でモノクロ7ページ+2ページの地図掲載という構成だ。

「東京環状7号線」特集。まずは冒頭で、カラーで見せる。
本編は後半にモノクロで。

クレジットには、「文:山内一朗 撮影:CアンドP 白子謙而 福田勉」とある。

山内さんも白子さんも福田さんも、てっきり当時のモーターファン編集部のひと、もしくは常連執筆者&カメラマンだと思ったのだが、「CアンドP」の表記からしてどうも旅歩きの本を編纂する出版社ないし編集プロダクションのひとらしく、「道」は外部委託で製作したページのようだ。

環7特集は全体的には風刺的な内容で、
「かつてはほのぼのとした光景だったのに、土地を切り拓いて幅広の幹線道路とし、高度成長とともに増えた自動車やトラックがまき散らす騒音や排気ガスに古くからの住民が悩んでいる。
ああ、日本はいったいどこへ行ってしまうのやら・・・?」
という論調になっている。

ときは高度経済成長終わりの頃。
ひとの生活は豊かにはなったが、そのトレードオフとして自然破壊や空気汚染、公害病が問題になっていた。
そんな社会背景から「道シリーズ」の第1回目に「環7」を選んだのだろう。
昔は雑誌のみならず、ドラマやヒーローものでも社会的要素を採り入れていたものだ。

それはさておき、この環7特集は、本の月号からして製作は1973年11月から12月にかけての頃のはずだから、「太陽にほえろ!」が始まって1年ちょい過ぎた頃。
萩原健一が演じたマカロニが殉職し、その後釜に松田優作のジーパンが収まって捜査一係の面々となじんできた時期である。

環状7号線・概要

環状7号線(以下「環7」)は環状8号線(環8)に並ぶ東京の主要道路で、大田区の平和島を起点に、多少の屈曲を伴ってまずは目黒区に入り込み、世田谷区、杉並区、中野区、練馬区と、全体的には南から北にまっすぐ進む。
練馬の豊玉南3丁目あたりで北東に向けて環を描き始め、そのまま板橋区に突入。

さらに弧を描きながら北区を通り過ぎた後、足立区に進む。
同じ毎週金曜よる8時でも、1979(昭和54)年10月からは、七曲署の刑事たちが新宿を走りまわっていたそのお隣で、桜中学の金八先生や生徒たちが歩くことで知られるようになった荒川を越えたあたりから西から東へ向かう直線になり、中川公園前のカーブで南下。
ほどなく両さんがいる亀有を入口に葛飾区を通過した後、最終地点のある江戸川区に至る。
その総距離52.8km。
ただしMF掲載の向けて撮られた1973年末時点の環7は、後で述べるが、いまは高架がまたぐ青戸8丁目で国道6号線とのT字路で途切れており、そこから江戸川区までは工事中だ。

これまで「MFラウンジ」は、過去MFに掲載されていた東京都内の写真と現在の写真を気まぐれに載せてきたが、今回はその本格版。
「太陽にほえろ!」で始めた定点観測を、現代的にグーグルアース、そして国土地理院の航空写真を駆使し、MF1974年2月号に載っていた1973年暮れの環7と2026年の環7、ページに載っていた全18か所中、場所を特定できた15か所・52年ちょいの変化をお見せする。

ほんとうは1回に収めるつもりだったが、なにぶん15か所でかなり長くなりそうなのと、お休みの日にいっぺんに読んでほしいと思ったので、3回に分けて本日4月4日(土)朝10:20より、5分刻みで一挙公開することにした。
読み終わった頃にはすぐ次が公開されているというわけだ。
といってもそれは公開初日4月4日だけのことで、もっと後でこの記事を開いたひとには関係ないのだが。

環7の起点は平和島、終点は江戸川区と書いたが、本稿では逆に、終点の江戸川区をスタート地点にして話を進めていく。

なお、本記事に於ける航空写真は、すべて国土地理院ウェブサイトからのものだ。

1.東京都江戸川区堀江町(現・江戸川区南葛西/堀江町)

「環7の終点は堀江町。もとは浅草ノリの産地だったが、埋立のためアサリ採りを主業に転向している。
こののどかな風景も環7の完成とともにきえるのだろうか。」(「道」特集キャプションより。)

どうやら記事内容からして、いまの南葛西一帯が堀江町だったようである。
具体的にいうと、かつての「堀江町」のほとんどの地域が1979年11月、いまの「南葛西」の1~7丁目に住居表示変更を受け、1983年と1987年に残りの一部が臨海町1丁目と3丁目に組み入れられている。

グーグルアースで現在の「堀江町」を検索してみると、旧江戸川沿いに埋め立てた(?)川岸にその町名が残されているのみで、そこは居住エリアではない。
したがって堀江町宛てで手紙を出そうと思っても、そもそも届け先が存在しないことになる。
何だか堀江町がかわいそうになってきた。
このへん、かつて「日産チェリー店」で売られていた日産「チェリー」が「パルサー」に置き換わった後、その名は販売店名だけに残されたのによく似ている。

環7終点は、首都高湾岸線と並走する湾岸道路に突き当たる葛西臨海公園前交差点だ。

1973(昭和48)年12月23日に撮影された、江戸川区堀江町付近の航空写真(国土地理院ウェブサイト)。
この時点で、後に環7になるはずの整地は済んでいる。
といってもわからないだろうから・・・
この写真もとに、色を加えた。
さらに・・・
現在の湾岸道路および首都高湾岸線を重ねてみた。この位置に通されることになる。
その2年後の同じ場所。
1975(昭和50)年5月22日撮影。

また加工。
この頃は赤枠内が「堀江町」だった。
堀江町の整地も進んでいるが、環7予定地の整地はそれほど進んでいない。
こちらにもいまの湾岸道路と首都高湾岸線をラップ。
こちらはいきなり2019(令和元)年6月26日の同じ場所の航空写真。
「堀江町」の町名は江戸川沿いのこれだけのエリアに残され、ひとが住む場所になっていない。
過去、堀江町だったエリアのほとんどは、1979(昭和54)年11月に住居変更を受け、「南葛西1~7丁目」として現在に至る。

いの1枚目から恐縮だが、MF1974年2月号掲載の写真の場所がいまのどこになるのか、正確にはわからない。
写真のキャプション(写真の添え書きのこと)を見ると、このあたりはもともと浅草のりの産地で、埋め立てのためにアサリ採りに鞍替えしたもよう。

当時の掲載写真の場所は海岸あるいは川岸のようで、国土地理院の航空写真と照らし合わせてみるとたぶんこのあたりだとしかいえない。
というわけで、いまの堀江町の写真をいくつか載せることにする。

以後の写真の撮影場所をカメラマークと番号で示す。
カメラマーク1の歩道橋からの風景。
この歩道橋があるのが環7の終点、葛西臨海公園前交差点だ。
2026年1月20日(火)14:24撮影。
カメラマーク2からの風景。
2026年1月20日(火)14:21撮影。
カメラマーク3からの風景。
2026年2月3日(火)14:08撮影。
カメラマーク3からちょっとずれてマーク4からの風景。現在の「堀江町」はここに見える江戸川沿いのみ。
2026年2月3日(火)14:07撮影。
マーク5の川岸から望む湾岸道路。
2026年2月3日(火)14:06撮影。
1973年末のMFページ写真はこのあたりかなと思うのだが、正確にはわからない。
2026年2月3日(火)14:05撮影。

2.青戸の都営住宅跡(東京都葛飾区青戸)

「青戸の都営住宅跡から葛西城が発掘され、この学術調査のため、工事は完全にストップ。再開のメドさえついていない。」(「道」特集キャプションより。)

さきほど「当時の環7は国道6号線との青戸8丁目のT字路で途切れて・・・」と触れたが、途切れた先、環7建設に向けて工事中だったのがこの場所だ。

まずは1966年の航空写真を見ると、環7は青戸8丁目までにも至っておらず、その後交差点になるはずの場所は国道6号線で、その景色に交差点になる気配はない。
環7予定地はどこも家屋が密集していて思いっきり住宅街になっている。

またまた登場、国土地理院の航空写真。
1966(昭和41)年8月29日に撮影された、葛飾区青戸上空。
「環7」の「カ」の字さえ見えず、国道6号線があるのみ。
ここに現在の環7を重ねてみた。
このときの環7予定地は、将来幹線路になるなど予想もつかない住宅地。
キャプションにある「青戸住宅」は、この青枠に囲まれた8棟の建物だ。

1975年航空写真では、青戸8丁目まで環7が到達していて国道6号線とのT字路になっている。
T字路から先・・・すなわちいまの南葛西1丁目、2丁目までが工事区間で、隣接する3丁目、4丁目から現在の湾岸道路までは下地が出来上がっているのは前項堀江町の航空写真のとおり。

MF本誌のページ写真と時期が近い1975(昭和50)年1月19日撮影の葛飾区青戸上空。
青戸都営住宅の写真左側=西側が撤去されている。
ここから葛西城が発見されたのだろう。

1975年航空写真の茶色区間からは、当時存在していた都営住宅やボーリング場立ち退き完了後、戦国時代の葛西城跡が都営住宅跡(赤い囲み線部)から発見され、こともあろうに、さらには弥生時代から古墳時代にかけての遺跡までもが顔を出したものだから、さあ大変!
そのせいで工事が遅れ、遺跡が保存されることに決まろうものなら予定していた道すじを変えなければならないリスクに襲われた。
南葛西3丁目4丁目から先は形が見えているのにどうすんだ、おい・・・そんな不安にかられてあわてふためく関係者の姿が目に浮かぶ。

同じ写真に、またまた現在の環7を重ねてみた。
青戸都営住宅の写真左4棟の場所が、その後環7が覆いかぶさることになるわけだ。
その場所から葛西城が発見されたのだから、工事ストップは当然だったろう。

MFページ写真の撮影時期は工事中断&発掘調査の頃で、その発掘調査の様子を写している。
MFの写真と航空写真の撮影日が異なるので単純比較できないのだが、撮影場所は1975年航空写真に見るエリアのどこかのはずである。

同じページ写真をもういちど。

MF写真の、調査している向こうにある都営住宅は、1966年航空写真で示した8棟の建物のどれかだろう。
うち、左側の4棟の部分がいま環7になっている。
この4棟を解体した場所から遺跡が発見されたわけだ(たぶん)。
そらあ工事も遅れるだろう。

写真はいきなり現代に近づき、こちらは同じ青戸の2024年の航空写真。
撮影は2024(令和6)年4月10日だ。
この写真には逆に青戸都営住宅跡を重ねてみた。
青戸都営住宅跡は環7アスファルトの下、1975年写真右側に残っていた青戸住宅の場所は、いまは葛西城跡公園になっている。

消えた4棟跡の部分の左側・・・すなわち写真で見る環7左側=西側は、現在は東京都指定史跡の葛西城址、環7隔てて右側=東側は、子どもたちのはしゃぐ声が響く葛西城址公園になっている。

現在の青戸の撮影場所をまたカメラマークで。
カメラマーク1から見た環7。
2026年2月3日(火)15:53撮影。
マーク2の横断歩道中央から。かつてこの道に、親子の笑い声が漏れ聞こえてくる住まいがあった。
2026年2月3日(火)15:42撮影。
マーク3から見た環7。道の向こうにあるのは、本文にある葛西城址。
2026年2月3日(火)15:47撮影。
マーク4。遅れて青戸都営住宅跡になった場所は現在の葛西城址公園。
2026年2月3日(火)15:52撮影。

3.加平橋付近(東京都足立区加平)

「「もとは環7の用地内にあった寛文7年の昔からの地蔵さん。
人の世の移り変わりがどのように映っているのだろうか。(加平橋付近)」(「道」特集キャプションより。)

これも確証のない1枚。
キャプションには「(加平橋付近)」とあるが、写真に場所を特定できる地名などはなく、まず最初に苦労した写真だ。

ヒントがないわけではない。
向こう側に見える、道をまたぐ白い橋らしき物体・・・よく見ればその向こうに信号機が見える。

橋は最初、鉄道の高架線路か、もしくは上辺が弧を描いていることから駅のトンネル通路で、不鮮明な文字は駅名か鉄道会社名かと思い、千代田線の北綾瀬駅の高架かと思ったのだが、1975年当時の航空写真には、千代田線の線路はあっても北綾瀬駅はまだ存在していない。
仮にあったとしても、向こうに見える信号機との位置関係が異なるから駅の通路説は×。

それとこの橋、目を凝らせば下辺が直線でないように見えるのも気になる・・・写真に見る橋の右側が手前の木々に隠れて全容がつかめないのだが、つまりこれは上半分の柵に交通標語か何かの垂れ幕を貼った通常の歩道橋なのではないかと仮説づけた。

実はこの写真の元フィルムをスキャンすればわかるのではないかと弊社のフィルム収容庫をあちらこちら探したのだが、同じMF号の他ページの写真フィルムはいくらでも出てくるのに、この「環7特集」のものだけは1枚も残っていなかった。
これが冒頭で述べた、外部委託ページと判断した理由だ。
ああ、CアンドP・・・

それはさておき、写真にはキャプションの「もとは環7の用地内にあった寛文7年の昔からの地蔵さん」が写っているが、その周辺は草ぼうぼうだし、そのシャッターは環7車道より引っ込んだところから押しているように見える。
ここは無断で侵入した敷地内からではなく、環7にぶつかる細い道から撮ったのだと推測したい。

もうひとつはカメラマンの行動から追ってみた。
次項「4」の写真キャプションも同じ「加平橋付近」とあるが、あちらは夕暮れ時の写真である。
対してこちらは完全に夜だ。
先にも書いたが、「環7」掲載がMF 1974年2月号なら撮影は前年12月。
この時期、夕暮れから、街灯やクルマのライト光が際立つ暗さになるまでそうは時間がかからない。
同じ「加平橋付近」なら、夕暮れの「加平橋付近」の場所から歩いていける場所なのではないかと推測した。
垂れ幕に書かれた不鮮明な文字はフォトショップで処理してもはっきりしない中、下辺がわずかに大きな、大きなカーブを描いている歩道橋と、その向こうの信号機の位置関係から、綾瀬警察署の西側にある歩道橋ではないかと結論づけた。

それがこれだ。

同じページ写真をまた。
自信も確証もないが、歩道橋向こうの信号が綾瀬警察署前交差点のものではないか。
2026年2月4日19:00撮影。

ただし、航空写真と照らし合わせるとつじつまの合わない部分がないではないので、あくまでも「ここじゃないかな」という弱々しい結論とさせていただきたく。
もし環7のこの近辺にお住まいの方でわかる方がいたら、ヤフーのコメント欄で教えていただきたい。

1975年1月14日撮影の足立区加平橋航空写真。
環7と当時の営団千代田線に色を重ねる。
撮影したのはここ。
向こうに綾瀬警察署前交差点が見える歩道橋をここから写したのではないか。
今回筆者が撮影したのはここ。
1973年撮影のものとはちょっと場所がずれているが、配電盤などが邪魔をしたため、ずらさざるを得なかった。
もっとも1973年の写真がこの場所ならばの話だが。

4.加平橋付近 その2(東京都足立区加平)

「交通公害が告発されようとする環7。川にはごみが積もり、重油のようによどんだ水が、沈みゆく東京を語り掛けるようである(加平橋付近)」(「道」特集キャプションより。)

同じ加平橋の続編。
タイトルも写真を撮った場所も確かに「加平橋付近」だが、前項3と同じ航空写真&地図をまた引っ張り出すと、橋そのものの名は綾瀬川に架かる「新加平橋」であることがわかった。

「昭和39年の東京オリンピックに向け、環状七号線の敷設工事が進められ、綾瀬川には新加平橋が架けられ(足立区ホームページより)」、元の橋はいまの新加平橋の南側に「嘉兵衛橋」があったという(同)。

というわけで、「加平橋」の読みは「かへいばし」。
勝手に「かひらばし」と呼んでいたのは情けない。

さてこの場所の現在はどうなっているか。
橋と川面上にある配管、そしてその位置関係。
よく見たら川面に潜り込む配管支柱の数も一致していることもヒントに航空写真で撮影場所を特定、写真を撮ってきた。
ここは景色が大変わり。

同じ写真をふたたび。
2026年2月3日(火)16:41に撮影した新加平橋。
当時の撮影した場所と思われる場所に入りたかったが、工事の柵でふさがっていたため、ちょっとアングルが異なる。
太陽は1973年当時と同じものだ(あたり前だ)。

1975年の航空写真を見れば新加平橋の南北を綾瀬川が流れているのだが、現在の航空写真を見ると新加平橋前後区間に限り、川岸をなぞるように首都高6号三郷線が走り、新加平橋の左右を三郷線上り下りから分岐した加平出入口のカーブが、まるで大きな「%」記号のようにとぐろを巻いている。

さきと同じ、1975年1月14日撮影の航空写真を。
同じ場所の、2024年4月10日撮影の航空写真。
さきの歩道橋写真も加平橋付近だとすれば、この新加平橋はこの航空写真で事足りるほど近い。
1973年末のページ写真はこのあたりから撮ったと思われる。

当時の記事には、
「加平橋(筆者注・当時表記のまま)には首都高速のインターチェンジが建設されることになっており、ちょうど小学校のプールの上を高速が通ることになっており・・・」とあり、「高速ができたらどうなるのか心配で・・・」と子どもたちを気遣う主婦の声を載せている。
(※ここまで書いた筆者はいま、「・・・ことになっており」が連続しているのが気に「なっており」、当時の編集部は校正段階で気づかなかったのかなと気に「なっており」ます。)

筆者も子どもたちが心配になってきたのでインターチェンジの姿が見えてきている1984年の同所航空写真を引っ張り込んだ。
首都高建設後の航空写真を見ると、6号本線も、加平インターチェンジのカーブの壁も、プールの真上というわけではないが、なるほど、確かにスレスレにまで迫っており、この主婦がおおよそ心配したとおりになっている。

で、1984(昭和59)年10月22日に撮られた同じ加平橋上空。
首都高6号三郷線が綾瀬川沿いに走り、インターチェンジは旧 足立区立加平小学校のプールスレスレにまで接近している。
MF誌で主婦が心配したのも無理はない。
で、また2024年の写真。
本文中で述べたとおり、1973年MF写真撮影ポイントには入れなかったので、新加平橋に接近した位置から撮った。
1984年航空写真から写した旧足立区立加平小学校跡は、学校の敷地の形を完全に打ち消すほど別の形に区画されており、名残りはいっさいない。

この「小学校」とはどうやら当時の足立区立加平小学校のことのようで、2014年まで存在、いまは同じ校名のまま別の場所に移転している。
もっとも加平インターチェンジも含む小菅ジャンクションから三郷ジャンクションまでをつなぐ6号三郷線が開通したのは、MF1974年2月号から10年以上経った1985(昭和60)年のことだ。

5.鹿浜橋(東京都足立区鹿浜)

「冬の夕日が東京の空をそめあげて沈むころ、”環7”が最も混雑する時間帯がやってくる。(鹿浜橋)」(「道」特集キャプションより。)

これはすぐに特定できた。
キャプションに「鹿浜橋」と書いてあるのだから当然である。

最初この定点観測記事を思いついたとき、わかった場所に行って同じアングルの写真を撮りゃあいいやぐらいにしか考えていなかったのだが、いざ写真を撮りまわっているうち、せっかく1973年暮れと似た時期なのだから、どうせならアングルだけじゃなく、時間やシャッター速度も合わせて撮ってやろうと考えを変えて最初に撮ったのがこの1枚。
運よく1973年当時と同じ夕焼け色の鹿浜橋を撮ることができた。

さあ、1973年の鹿浜橋が2026年になると・・・
こうなる!
この日のこの時間に撮れるかどうかわからないまま現地に向かったが、ギリギリ着いたおかげで逆に同じ夕暮れ色の鹿浜橋を撮ることができた。
2026年1月27日(火)17:37撮影。

2枚の写真で異なるのは鹿浜橋の上で交差する首都高速川口線(S1)の有無だ。
1987年の開通だから、1985年あたりから景色が変わり始めたものと思われる。
1973年版の左側設備が何なのかはわからないし、航空写真でも判然としない。
いまは設備の部分はステーキハウス、写真にはないが、橋の右側は、かつて一戸建てが集合していたのが、現在は立派なマンションが林立している。

夕暮れ写真同士で比べれば川口線有無ととステーキハウスぐらいしか違いはないが、航空写真で比べると周囲がまるで違うことがわかる。
写真は1975年1月14日撮影の足立区鹿浜橋上空。
こちらは同所の2019年8月8日の姿。
周囲、特に鹿浜橋に面した民家は、現代的な形のマンション群に変貌している。
当時のカメラマンはこの歩道橋から撮ったのだろうが・・・
その歩道橋がいまも残っていたのはありがたかった。

今回はここまで。
6.以降は次回まわしにする。
みなさんがここまで読んできた間に第2回目が公開されていることだろう。
「ラウンジ」No.23で逢おう。