景色は変わっても、その混雑ぶりは変わらぬ52年・・・
東京環状7号線、52年間の変貌を写真で追う3本立て記事の第3回目にして最終回。
今回は、世田谷区から環7の終点がある大田区にレンズを向ける。
前々回、前回と等しく、記事内の航空写真はすべてすべて国土地理院ウェブサイトからのものだ。
11.大原交差点(東京都世田谷区大原)
1973年写真キャプションには「地下に国道20号線、地上に環7、その頭上に首都高速がクロスする大原交差点」とあるが、こちらで補足すると、手前から向こうに走る道のうち、写真右側の地下に潜る道が、その上方に見える橋=大原陸橋をアンダーパスしようとするだけの国道20号線で、地下走行がずっと続くわけではなく、橋をくぐった後、地上に出る。。
左側の地上の道が国道20号から環7に入るための側道。
その先でクロスしているのが環7だ。
つまり「大原交差点」とは大原陸橋の部分だ。
なお、ここの「首都高」とは首都高4号新宿線で、写真では向こう側が都心となる。
その現在の姿がこちらだ。
1973年写真とイメージを合わせるため、2026年写真も同じくらいクルマがあるシーンを撮ったが、おもしろいのは、日本一混む交差点(?)とはいうものの、シャッターチャンスをうかがっているわずかの時間の間でも、クルマの量が激増・激減を代わりべったに繰り返すことだ。
全体的には混雑or渋滞に違いないのだが、混むときは混むが、流れるときはクルマが溜まることなく、植木等並みにスイスイスーダララッタ・・・なんだか不整脈みたいなクルマの流れ方をする道路である。
それは撮影場所から眺めた国道20号線とその側道の話だが、それは環7はさんだ対抗側も、環7そのものも同じだろう。
さて、写真を新旧比較すると、地上の環7と側道を中心に、上に首都高4号新宿線、地下に国道20号線のアンダーパス部・・・いったん造った3層構造の道路だけに、52年経っても変わっていないし、「日本一混む」交差点だけに通行止めの影響を考えると構造を変えようがない。
したがって、「日本一混雑」しているのがいつでも変わらないのは当然のことなのだ。
変わっているのはいつでも取っ替えがきく表面的な部分で、変化はガードレールや案内標識、首都高高架外壁のパネル有無に過ぎない。

といっても、交差点そのものは、首都高に隠れていて空からは見えない。



首都高の北側は住宅地のままだが、南側はマンションに変わったところが増えている。


12.若林陸橋から南方面(東京都世田谷区若林5)
歩道橋橋げた上の文字、方面看板・・・本来ならヒントになってもよさそうなものが、モノクロ&不鮮明なために解読できず。
それでも何かヒントになるものはないかと往生際悪く目を凝らして見ると、まずは方面看板2枚の矢印。
直進と左向きがあるということは、歩道橋をくぐった先に側道があることになる。
先といえば、向こう側の道が、光化学スモッグ(?)のかすみに隠れたクルマの並びから、いくらか上り勾配になっているのもヒントだ。
さらに向こうに見える横棒は歩道橋または鉄道の高架なのか、印刷でたまたま生じたにじみだろうか?
歩道橋or高架だとすれば、いくら上り勾配の向こう側とはいえ、写真で見て手前の歩道橋より上に写っていることの説明がつかない。
やはり印刷にじみだろう。
写真正面にバイク、その右=バイクの左側にクルマが並んでいる。
バイクが正面だなんて、この撮影者はいったいどこに立って撮ったのか?
これはカメラマンの背後に大きな交差点があり、左折待ちのクルマが後ろまで並んでいるのかと思ったが、はたしてこんな撮り方ができる場所があるのか?
歩道橋からかなりの望遠で撮ったのではと考えたが、歩道橋から撮った場合ほどクルマの屋根は低くないし、クルマが直進区間からV字・・・こちらから見ればΛ型に並んでいるので、これはただの左折待ち以前に、側道に入ろうとする車両の列と決め打ちした。
というわけで、ここは野方駅のアンダーパスから北向きに撮った場所だと判断し、撮ったのがこれだ。

2026年1月25日(日)22:46撮影。

歩道橋、その向こうに坂という点は合致するが、側道と歩道橋の距離など、つじつまの合わない点も多い。
2026年3月8日(日)15:07撮影。
・・・・・・・・・。
どうもしっくりこない。
これはまだ未確定の推測段階で、所用の帰り道に試しに撮ったものなので夜間撮影だが、おおよその景色はわかると思う(後日明るい時間に撮り直したものも載せておく。)。
歩道橋には直進と側道案内、その向こうは上り勾配。
1973年ページ写真と勾配の角度が違うように見えるのはカメラ画角の相違によるものだろう。
右側は側道と環7と隔てるフェンスになっているが、これも52年の間に追加されたとすれば納得がいく・・・のだが、いくら52年の隔たりがあるとはいえ雰囲気が違う。
だいたい、1973年ページ写真に対して歩道橋がやけに近い。
それともうひとつ気になっていたのは、さきほど述べた、印刷にじみと判断した歩道橋の向こうのうっすら横棒だ。

にじみがたまたま直線状に表れたと都合よく解釈したが、やはりこれは歩道橋なのではないだろうか。
次の項は「若林踏切」だが、ここも案外、この若林踏切から歩いて行ける距離に行けるのではないか。
そう判断して、グーグルアースをもういちど見直し、
・手前側歩道橋の向こう側が上り勾配で、歩道橋または高架がもうひとつあること。
・手前側歩道橋の向こう側に側道があること。
・レンズ内に側道が入り、クルマの屋根よりちょっと高い位置で撮影できる場所があること。
・場所が次項「若林踏切」から歩いて行けそうな距離であること。
これらを元にグーグルアースで若林踏切付近をもういちど見直したら、ここではないかと結論づけて撮ったのがこの場所だ。


まずはモノクロで。
1973年ページ写真とそっくりなバイクが写っているのは偶然。
ねらったわけじゃなく、写真セレクト時、多く撮った中からバイク入り写真を撮っていたことに初めて気づき、迷うことなく掲載を決めた1枚。
神様はほんとにいるのかも知れない。
黒いヘルメット、黒いスーツ、バイクの触覚みたいな丸いバックミラーにふたつのメーター、ヘッドライト・・・そっくりだ。
このライダーも、まさか52年前の写真に写っていたひとと同じひとじゃあるまいな。

黒装束のバイクの姿はカラーになってもあまり変わっていないぞ。
2026年2月5日(木)16:04撮影。
これで間違いないだろう。
結局このページ写真は、次項「若林踏切」から北にある、アンダーパス上の若林陸橋から若林踏切に向けて撮ったものだったのだ。
1973ページ写真では、こちら側に向かうクルマが平地を直進しているように見えるが、実はやや上り勾配を経た後、アンダーパスに向かう。
撮影者はそのアンダーパス上の高架=若林陸橋の端っこあたりから望遠レンズで撮ったのだろう。
この写真の判明が最後になったのは、地名の文字が不鮮明だったこともあるが、これまでの写真はいずれも環7の歩道ないし歩道橋からのものばかりだったから、立ち位置が環7側道を経てのアンダーパス上という発想ができなかったのだ。
場所がわかって全容が掴めると、さきの1973ページ写真で、うっすらにじみの歩道橋位置の疑問も自然に解けてくる。
すなわち、アンダーパス上の若林陸橋に立つカメラ側から見て道がいちど低くなっているなら、にじみ歩道橋が手前のそれより上方に写っているのは当然のことだったのだ。


結構な望遠で撮ったことになる。




「カーブミラーや歩道橋、信号といった設備は何年たっても意外と同じ場所にあるままであることが多い」とどこかで書いたが、それはこの場所にも当てはまる。
2026年写真で、歩道橋の「環七通り 世田谷区若林二丁目」の看板下に見える歩道橋前後ふたつのカーブミラー、そして向こう側ミラーの隣に「駐停車禁止」「駐車禁止」の標識があるのがわかると思うが、1973年版の写真を拡大すると、同じ場所にそれらしきものがうっすら写り込んでいることがわかるのだ。

もしやと思って1973年ページ写真の同じ部分を見てみると・・・

場所がわからないうちは気づかなかったが、判明した後にそうだと思って見るとカーブミラーや標識だとわかる・・・ここまでくると、山崎豊子「白い巨塔」で、胃の噴門部がんの存在をレントゲン写真で見つけ出す財前五郎並みの読影力が必要になってくるというものだ(最初はわからなかったくせに。)。
いや、この写真にばかりは歩道橋向こうの横棒に振り回された格好で、場所の特定がいちばん最後になってしまった。
ところで私が撮った2026年写真の上辺には、スレスレまでクルマが写っているばかりでにじみ歩道橋が存在していないことにお気づきだろうか。
その秘密はコマーシャルの・・・じゃなかった、次の項で。
13.若林踏切(東京都世田谷区若林4)
というわけで、13項目め同じ若林で「若林踏切」。
前項12「若林陸橋」の次なのに、所在地は世田谷若林5から1引いた世田谷区若林4だ。
これはものの1秒で場所がわかった。
なぜなら信号の下にもキャプションにも「若林踏切」と書いてあるからである。
信号の向こうがやや上り勾配になっているから向きもすぐにわかった。
というわけで、写真は若林踏切を南に見る歩道橋から撮ったもので、これである。

これがいまでは・・・


2026年2月4日(水)14:42撮影。
ただし、これは余儀なく撮り直しを強いられたものだ。
というのも、最初1973年ページ写真とできるだけ同じ画角にして、向こう側の歩道橋がファインダー上部に入るように撮ったのだが、後からPC画面で確認したら、歩道橋の位置が違うようで、1973年よりも、2026年のいまのほうが交差点からより遠くにあるように見えることがわかったのだ。
最初に撮ったのがこちらだ。

撮り直しに再度同じ場所に行くのもイヤだったので、画角の問題として片付けたかったが、そのひと言で片付けるには位置があまりに遠い。
実際、線路を越えてすぐ左に曲がる道があるが、その道と歩道橋の距離は明らかに違うし、いまは上り勾配をあるていど上った後の位置にある。
航空写真を調べたら思い違いでも画角違いでもなかった。
若林踏切上空からの1975年版と2019年版を見たら、現在の歩道橋の方がより向こう側=南に位置しているではないか。
トリミングでごまかす手もあるが、そんなことはできない性分。
しょうがねえ、もういちど行くか。
そう思って再度現地に向かって撮ったのが、青い電車が走る写真なのである
(2枚の写真で、電車の載っかるレールが違うように見えるだろうがそれはあなたの気のせいだ。)。

1975年1月5日撮影。





ここから前項12の最後でほのめかした謎ときだ。
若林踏切向こうの歩道橋が移設は、前項の印刷にじみと思っていた向こう側の歩道橋が、私が撮った2026年の写真には写っていないことの答えになるのだ。
ここでもういちど前項「若林陸橋」の1973MF写真と2026年写真を引っ張り出してみよう。


向こう側の歩道橋が写る元画像が次の写真だが、にじみ歩道橋がより向こう側にある。
前項のにじみ歩道橋は、若林踏切向こうの歩道橋であり、次の写真の向こう側にある歩道橋は移設後のものなわけなのだ。

文字で書くと、書くほうも読むほうもわからなくなってくるので、前項の若林陸橋とこの若林踏切2か所全体が入るようにトリミングした、1975年と2019年の航空写真を載せておく。
MF1973年ページ写真と筆者の2026年写真を入れた1975年&2019年の航空写真とで、この2か所の位置関係、および南側歩道橋の場所違いがお分かりいただけると思う。


14.馬込第三小学校前の浅間歩道橋から見たPマーク(大田区北馬込)
これはだまされた1枚(何だか今回はだまされたり惑わされたりばっかりである)。
1973年ページ写真でまず誰の目にも入るのは、右向こうにある、屋上に「P」を掲げた建物だろう。
私はてっきりモータリゼーション時代ならではの、たくさんのクルマを置くことができる、ビルごと駐車場にした大型駐車施設だと思い込み、だから「P」なのだと思っていた。
そしてこのまるまる駐車場はいまはないものと思いこんでいたのだが、前々項の撮影場所をグーグルアースで探しているとき、偶然「P」を発見! ・・・まだあったのである。
撮影場所は馬込第三小学校前の浅間歩道橋。
「P」の建物のみならず、馬込第三小学校、浅間歩道橋はいまも同じ場所に存在する。
撮ったのがこれだ。
それにしても、「P」の看板が形もカラーリングも同じまま残っていたなんて!
でも、てっきり「駐車場」であることを示しているとばかり思っていた誇らしげな「P」が、マンション名は伏せるが、「●●パレス」の「P」だったのには参った。
この「P」、このあたりの住人や、この道を常用しているひとにとってはおなじみのものなのだろうか。

1975年1月3日撮影。



2019年11月1日撮影。


15.環7の起点・平和島
そして今回の定点観測記事のしんがり、平和島である。
ここは環7の起点で、前々回に述べたとおり、この平和島のある大田区をスタート地点に、目黒区、世田谷区、杉並区、中野区、練馬区、板橋区、足立区、葛飾区を経て江戸川区に至る。
これだけだと「環」になっていないが、始点の平和島と終点の江戸川区は後に湾岸道路で結ばれ、晴れて真の「環状」線となるわけだ。
まず1973年版のページ写真をお見せしよう。

キャプションには
「環7の起点は平和島。モノレールを越えたところで工事区間になり、将来はこの先で湾岸道路に結ばれる。」
とある。
ということは、モノレール向こうに見える橋は大和大橋で、つまりこの写真は、首都高羽田1号線と並走する都道316号(湾岸通り)の南向きから側道に逸れて環7に合流する地点で撮ったことになる。

4つ葉のクローバー形のインターチェンジが出来上がっている。

クローバーの内側や周辺エリアには緑がいっぱいだ。


そう考えて撮ったのがこの写真だ。


2026年1月29日(木)8:57撮影。
・・・・・・・・・。
新旧照らし合わせ、どうも気になるところを残しながらもこの写真を載せようと決めたのだが、1973MF写真で、土砂や鉄材(?)が置いてあるのは、どう見てもモノレールの手前である。
キャプションは向こう側の橋は大和大橋で、その向こうに湾岸道路があるかのような書き方をしているが、実はこの写真、反対側・・・大和大橋を背に、首都高1号羽田線と湾岸通りをまたぐ中之島橋(昭和46年完成)を撮っているのではないだろうか。
根拠はさきに「気になる」と書いた点も含めて3つ。
まずひとつめは、モノレール向こうの大和大橋ということになっている橋の上り勾配路の軌跡が違うことだ。
1973年ページ写真は、土砂に隠れて全容はつかめないものの、下から頂上まで直線に見えるのに対し、2026年現在は屈曲している。
52年の間に橋の全幅そのままに軌跡を変えることができなくはないだろうが、それにしても屈曲度合いは大きい。ここがまず最初に気になった不自然な点だ。
ふたつ目が中央分離帯の幅だ。
1973年ページ写真の向こう橋が大和大橋だとすると、勾配部分は往復車線を縁石できっちり区分けしているが、1975年1月の航空写真を見ると縁石は手前部分にとどまり、写真に見える部分は、航空写真では1本の白線だ。
ふもとから橋向こうまでの全域縁石なのはむしろ中之島橋のほうなのである。

ヘンだと思ってページ写真と1975年の航空写真を眺めていたら、環7の中央分離帯の形がページ写真と違うことに気づいた。
3つ目の根拠はさきに述べた建設資材が手前にあること。
1973年撮影のページ写真と1975年の航空写真とでは1年ちょいの開きがあり、「その間に変わったかも知れないじゃないか」といわれればそれまでなのだが、1975年航空写真を見ると、筆者が2026年に撮影した場所の対角側にこそ資材置き場にふさわしい空き地がある。
ここはむしろ大和大橋側から中之島橋側にレンズを向けた写真と考えるのが自然じゃないだろうか。
誌面写真とキャプション内容が食い違っているのではないかというわけだ。
それと、写真というのは、まずは現地で撮れるものを許されるだけバシャバシャ撮り、後のページ製作段階で、載せる・載せないのふるいにかける。
この「道」特集の当時のカメラマン、CアンドPの白子さんや福田さんは他にもジャンジャン撮ったにちがいない。
そしてさらにその中から景色やピント、移動物(通行車両や電車、この平和島ならモノレール)の通過タイミングで納得のいく写真を選ぶ・・・何百枚撮っても使えるのはたった数枚ということが多い。
ページ数の都合で撮っても余儀なく捨てざるを得なかった区の写真だってあっただろう。
今回筆者が撮った写真も同じだ。
この平和島写真もモノレールの両側から撮っておきはしたものの、そんなこんなの製作作業の中のセレクト段階でまちがえたものと推察する。
ましてやモノレールのどちら側から撮ってもおんなじような景色の写真だ。
まちがいが起こるのも無理はない(なーんていって決めつけているが、もしこの記事を当時のCアンドPの山内さん、白子さんや福田さんが読んでいて、違うよといってきたらどうしよう。)。
というわけで、筆者がここまで書いてその不自然さに気づき、あわてて再度平和島に赴いて取り直したのがこちらだ。


たぶんこっちだ。
2026年3月7日(土)8:27撮影。
うん。
橋の勾配は直線でくねってもいない。
歩道と車道の間の街路樹が邪魔なのは悔しいが、これとて車道を隠しているという点で1973年版ページ写真の土砂と似ているといえば似ている。
16.どうしてもわからなかった写真たち
さて、最後におまけとして、どうしても場所が特定できなかった写真をお見せして、この環7定点観測特集の幕とする。
1.「新連載 道シリーズ 第1回」のとびら写真
これが環7の中のどこなのか、わかるひといますか?
これまたどうやって撮ったものか、レンズの中心をセンターラインに合わせ、そのライン寄りに走るトラック写真をとびらにしている。
たぶん渋滞中の車窓から望遠にして撮っているのだろうが、対向する52-90トラックのグラサンドライバーには奇異に見えたに違いない。
あっぶねえ撮り方だなあ。
ヒントになりそうなのはセンターライン上の鋲とアスファルト路面の形。
路面は遠方で波打っており、こちらから見ていったん下って上る谷状になっているが、これだけで場所を特定するのは不可能だった。
タイトルには「傷つき苦悩する首都の動脈」なんてあるが、私は「この道がどの部分なのか」が一向にわからず苦悩した。
パス!
2.センターラインとトラックのドアップ
これもとうてい特定が不可能な1枚。
向こうの景色が逆光で白飛びしていてなおわからない。
センターラインの鋲からして前項の写真と近い場所なのだろうという想像するしかない。
これじゃあわかるわけねえやと、これも早々にあきらめた。
お手上げ!
3.ほうきづくりのおじさんの家
「代田の環7に面してホウキづくりをつづけるこの人。『騒音なんか平気さ。ちっとも気にならないねぇ。』という声がびっくりするほどの大声。環境に慣らされてしまった江戸っ子気質を感じさせられる。」。
このキャプションを頼りに、トラック向こうに見える家屋(?)と同じ形の建物を見つけようと、航空写真やグーグルアースで環7・代田(だいた)区間を何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も往復したのだが、なにぶんトラックがあまりに邪魔で建物の形がごく一部しかわからず、見つけることができなかった。
おじさん家の戸の前の正方形ブロックの歩道もヒントになるかと思ったが、いくら高精細で撮った航空写真といえど、1200m上空からの撮影ではさすがに地面の方眼模様まで捉えてはおらず、場所の特定は不可能。こちらもさじを投げた次第だ。
どこかに書いたが、このおじさんの写真も含め、3本立てでお送りしてきたこの定点観測記事の中で、トラックが写る写真が数枚あり、「なんで当時のカメラマンは、場所がわかるように、背景がすっきりするようにトラックが去るのを待ってシャッターを押さなかったんだ!」と恨めしく思ったが、後から意図的なものだと気づいた。
考えてみたらこの特集は「トラックやクルマの騒音、排ガス公害に苦しむ環7沿い住民の苦悩」がテーマ。
あえて、いや、むしろトラックがやってくるのを待ってシャッターを押していたのだ。
というわけで、環7主要エリアの52年間の移り変わり&移り変わらなさを追った定点観測はこれでおしまい。
いや、今回はこの3本立て記事の着想から完成まで難航を極め、時間がかかってしまった。
場所の特定も去ることながら、総距離50キロ超の環7全域をひとりで見てまわり、撮影に臨んだからである。
クルマでの移動だったが、路上駐車するわけにもいかず、駐車場を見つけちゃあ狙った場所まで歩き(その場所と駐車場が離れていることも多い)、撮っちゃあまたクルマで移動・・・1973年当時のCアンドPのカメラマンは2名で、どうやら場所を分担して撮ったと思われるが、場所によって早朝、昼間、深夜と分けていたこともあり、ひとりでの行動は1日2か所が限界だった。
撮影ばかりか、航空写真のダウンロード、ページ写真、自前写真、航空写真の加工・・・3本記事作成しているうち、載せたい写真が増えに増え、加工作業も増えに増え、公開が桜の時期になってしまったのは、自分で思いついて決めてかかったテーマとはいえ、われながらいただけない話だ。
全15か所のうち、こちらの誤解釈で「ここ違うよ」という場所があるかも知れない。
お気づきの方、ヤフーのコメント欄でご指摘していただければ幸いである。
また、特定できなかった最後の3枚についてわかる方がいたら(いないと思うが)同じくコメント欄にて教えていただければ。
できりゃあご当人たちから、当時の様子も含めて教えていただけるとありがたい。
CアンドPの執筆者・山内さん、カメラの白子さん、福田さん、そしてほうきづくりのおじさん、連絡待ってます!
ではごきげんよう。












