きっかけは中学2年生でのポケバイとの出会い

 1965年8月、加藤義昌選手は京都市で生まれた。加藤選手が2輪に触れたのは中学2年生の時、加藤選手の叔父がポケバイの代理店を始めたことがきっかけとなる。開店祝いに父にポケバイを買ってもらったのだ。

 加藤選手の叔父は、ポケバイ業界を活性化させるために京都府八幡市にポケバイのコース、関西スポーツランドを作った。加藤選手はすぐにポケバイにのめり込み、夏休みのほとんどをそのコースで走行することに費やすほど没頭した。

2年連続2クラスのダブルチャンピオン!

 ポケバイのレースにも参戦した。戦績はJAXというメーカーのシリーズ戦で2年連続チャンピオン。それもノーマルクラスと改造クラスのダブルチャンピオンとなった。ちなみにチーム名は「フェニックス」。のちにオクムラエンジニアリングに呼び寄せた富田選手はこの時のチームメイトだった。

母親のパッソーラでミニバイクデビュー

高校1年生になると、身長も伸び、ちびっこ相手では体重差も厳しくなってきたのでミニバイクレースにステップアップ。京都府八幡市の竹林の中にあったカートコースで開催されていたキタコ主催のレースに挑戦。母親が乗っていたフルノーマルのパッソーラで6位となる。
 これを機に、高校2年生になった加藤選手は、アルバイトで貯めたお金でパッソル2を購入。翌年から堺カートランドなどで開催されていたオールジャパンシリーズのノーマルスクータークラスに参戦。タイヤやサスペンションはノーマルのままで6戦中5勝(2位1回)という成績でシリーズチャンピオンを獲得。

賞品で作った改造スクーターでエントリー

 その翌年は改造スクータークラスにエントリー。マシンのスペックはノーマルクラスに出場していたパッソル2をベースに、レースの賞品として獲得したキタコ製のボアアップキットやビッグキャブ。オクムラエンジニアリングのスカイ用のチャンバーは町工場で加工して装着。なんと改造スクータークラスでは無敵を誇っていたオクムラエンジニアリングの車両に競り勝って開幕戦で優勝という快挙を成し遂げた。

問題点がもたらしたオクムラとの出会い 

ただし問題点も浮上した。ノーマルの前後ブレーキでは改造クラスの速さには対応できず、レース終盤にはブレーキ部品が焼けて効かなくなってしまっていたのだ。加藤選手はさっそくこれらの問題点をオクムラエンジニアリングの奥村社長やキタコの由井さんに相談。すると奥村社長から「次戦からウチのマシンに乗ってみないか」という誘いを受ける。加藤選手とオクムラエンジニアリングの黄金タッグが誕生した瞬間だった。

スカイ(ホンダ)やポッケ(ヤマハ)、フォーゲル(ヤマハ)などのチューニングパーツを訴求する月刊モトチャンプの誌面広告(80年代初頭)。スペシャルボアアップキット(4万2500円)は、全てのポートを手削りで加工されたシリンダーと、加工されたピストン、シリンダーヘッドのキットとなっていた。
ハミング(ホンダ)やパッソーラ(ヤマハ)、モトコンポ(ホンダ)やパッソルII(ヤマハ)のチューニングパーツが掲載された月刊モトチャンプの広告(70年代後半)。フロントをディスクブレーキ化する加工も受け付けており、プライマリーギヤもローギヤやハイギヤが販売されていた。

レース当日に初めて乗るマシンで優勝

 オクムラエンジニアリングでのデビュー戦となる第二戦の朝、堺カートランドに到着してみると、見知らぬマシンが用意されていた。オクムラワークスのイエローのスカイではなく、スカイをベースにホイールベースを短く加工し、ミニトレのタンクやランディ(スズキの2スト50ccファミリーバイク)の油圧式フロントフォークを装備したニューマシンだった。

 このニューマシンには、レース前のわずかな練習走行時間だけで慣れ、加藤選手は晴れてデビュー戦で優勝を勝ち取る。高校3年生の春。卒業間近の出来事だった。

それまではノーマルを基調としたスカイがオクムラのワークスで、加藤選手は自作のマシンでこのスカイと戦ってきた。
オクムラ入りした初のレースではスカイをベースにホイールベースを短くし、ミニトレのタンクや油圧式フロントフォークを装備したニューマシンがレース当日の朝にシェイクダウンされた。
当時のモトチャンプに掲載されたオクムラエンジニアリングの代表、奥村繁一氏。キャプションでは「スクーター博士の異名で知られる奥村繁一・代表」と紹介されている。私も当時はいろいろとお世話になった関西のレジェンドだ。