トヨタへ
学生時代に読んでいたCarStyling誌に度々トヨタデザインの事が書かれていて、車種のバリエーションが豊富である事、またコンセプトカーなど新しいデザインへのチャレンジの機会が多く有りそうに思えたのでトヨタを目指す事にしました。また以前のコラム#3でも書いた様に、大学の先輩が良い道標となってくれたのでその背中を追う様に1978年の春にトヨタの春季実習を受けその秋に内定が決まり79年の4月から晴れて正社員となりました。

しかしいきなりデザインの仕事をするのでは無く、この年は約200人いた学卒新入社員と共に工場や販売店での研修を含め半年間の実習が有り、その後ようやくデザイン部へ配属となりました。更にそこから4か月程、デザイン部内での研修が有り個々の特性を見極めた上で翌80年の2月(入社から10ヶ月後)にやっと実際にデザインワークをする部署に配属されました。
最初に配属されたのは部内に幾つか有るエクステリアデザインを担う課の一つで担当車種は当時のトヨタで最量販を誇るカローラでした。そして、最初に手掛けたプロジェクトは70カローラのマイナーチェンジ。続いて80カローラのフルチェンジでした。

トヨタではこの7 0カローラ以前の世代の車のハンバーは他のフロントエンドの部品とは別部品で、メッキ或いは黒塗りの鉄製のバーにウレタンのコーナーピースがつけられていました。そして8 0カローラがボディーー体型のカラードバンパーを最初に採用したモデルでした。この後、トヨタ車に限らず一気にバンバーの樹脂化、カラー化が進んで行きます。ヘッドライトがそれそれの車種専用デザインとなって行ったのもこの頃からです。
70年代前半まで、日本の自動車メーカーは米国車のデザインをお手本としていましたが、全長&全幅は米車の約80%程でしたのでキャラクターラインやパーツの形を参考にしてもなかなか米車の様な伸びやかさは表現できないことが認識されはじめ、70年代後半からは、徐々に車両サイズが近い欧州車を参考にする様になっていました。ちょうどその頃、イタルデザインやピニンファリーナというイタリアのカロッツェリアのデザインが注目を集め、中でもイタルのアッソシリーズというシャープな線と平面で構成されたコンセプトカーはその斬新さでカーデザイナー達の注目を集めました。

左下:VW Golf 右上:VW Scirocco
トヨタの70カローラもこのデザインを参考にした事は明らかです。そして、80カローラをデザインを始めるにあたってトヨタのデザイナー達が議論したのはこのシャープな線と平面の構成が今後もトレンドとして続くのか?或いは丸さや豊かな膨らみを持つ面が新しく見えるのかと言う事です。
ちょうどその頃、イタルデザインがメデューサというコンセプトカーを発表し直線的なキャラクターと丸みを持った面の構成で新たな表現手法をトライして見せてくれました。このデザインテーマは大きな参考になりました。

カラーデザインチームでの経験
配属1年後、八重樫部長が退任。渚氏が新部長となり、トップが代わったので、部内で大きな人事異動が有り、私は突然カラーデザインへ行く事に。
カラーデザインというのは車の内外の目につく全ての部品の色を決めていく部署でエクステリアでは先ずボディー全体のペイントの色、インテリアではインパネやステアリング等の樹脂部品の色、そしてシートファブリックの布地やレザーの選択をする事が主な仕事です。当時トヨタでは外板塗装の下塗りからカラー化して発色を良くするスーパーホワイトやスーパーレッドという高彩度な外板色の市販化そして一般的なメタリックペイントのアルミ粒子に変えて雲母の粒子をペイントに混合させるマイカペイントの量産化が進んでいました。また私が担当したFFコロナの外板色では新しい顔料の開発により、上塗りを通常の2回分重ねた様な深い色味を出すディープレッドを生産車で初めて導入しました。

ちょうどこの頃からクロームメッキのバンパーに代わって樹脂製のバンパーにボディーと同色をペイントするカラードバンパーが主流になって来たので魅力的なボディー色は更に重要視される様になって来ました。この仕事に就くまで全く知らない世界でしたが、始めてみると実に奥の深い世界でした。
ACCD 留学
ところで、私が就職先としてトヨタを選んだ理由の一つは会社からの派遣留学制度が有ったからです。当時のCarStyling誌にはよく米国のデザインカレッジACCDの事が掲載されており、中にはトヨタからの派遣留学生の作品等が掲載されていました。


自身で米国への留学費用を捻出する程の自己資金は無かったので、もし会社員になってその会社の費用で留学出来るならば正に一石二鳥と考えていました。しかしトヨタは1978年に米国カリフォルニアにCaltyというデザイン拠点を設けました。その事は当時のCarStyling誌でも取り上げられました。
ちょうど私が入社した当時、Caltyの開設により米国の殆どのデザイン情報はそこから入手できるのでもう派遣留学制度は要らないと判断され取りやめになっていました。

ところが、捨てる神あらば拾う神あり。ちょうどその頃ACCDが当時のトヨタの社長に名誉博士号を贈呈し、そして社長は、デザイン部長にACCDとはどう言うカレッジで会社とは過去にどう言う繋がりがあったのかを聞き、社長は名誉博士号の返礼として百万ドルをACCDに寄付したのです。そして、そう言う繋がりが有ったのならば、また留学生を派遣すれば良いとアドバイスしてくれたそうです。そして、デザイン部としては派遣留学制度を復活させる事に、そして誰を派遣するかと言う事で人選が始まるのですが、その候補になりそうな私を含む同年代の若手デザイナー達の殆どが英語での授業を受ける事に尻込みしていました。私は学生時代からいずれは海外に行きたいと考えていたので細々とではありますが、英会話の勉強を続けていたので米国への留学というチャンスに迷わず手を挙げる事が出来ました。私にとって幸いだったのは他に手を挙げる若手のライバルがいなかった事です。そして、1985年の夏から1年間3学期の予定でカリフォルニア州パサデナに有るACCDへ留学しました。
短い期間でしたが、幾つもの新しい体験が出来た留学でした。ACCDは美術系全般のカレッジでしたが、自動車デザインに特化したトランスポーテーションコースが有り、そこを目指して全米から学生が来ていました。そして海外からも留学生が何人か来ていました。勿論、日本からの留学生も居て、一緒に学ぶことが出来ました。同時期に在学できた訳ではありませんが、ACCDの先輩である伊藤邦久氏のスケッチはCarStyling誌にも掲載されていて、おおいに参考にさせて頂いたことを覚えています。後に伊藤氏とは個人的にも親しくなり海外で働くためのヒントを教えて頂きました。

ACCDの授業は私にとって、日本人以外の学生と共に学ぶという初めての体験でした。中には後に米国ヒョンデーのスタジオへ私を導いてくれた学友と知り合えたのもこの時でした。
ACCDで初体験した事は幾つも有りますが、先ず第一に上げるとすれば、頭の中であれこれとコンセプトを模索する前に先ず手を動かし一日に何十枚ものスケッチを描きそれを元にまた考えて描くという事。(ACCD留学中の1年間で日本の芸大4年間以上のスケッチを描いた気がします。) 次に自分で描いたスケッチを自分でクレイモデルという立体にすること。3Dにすると、思いもしなかった発見も有ります。そして、サイドビューのみですが、テープとインクでフルサイズのレンダリングを描くと言う事。やはりフルサイズは迫力が有り、今で言うVRに近い現実感が有りました。等がデザイナーとして初めての経験でした。
そのACCD留学中にCarStyling誌上のスケッチやレンダリングをたくさん参考にしたり、私達学生のプロジェクトをCarStyling誌面で写真入りで紹介して頂いたりと大変お世話になりました。


以下Drawing Classesでの作品
様々な画材で様々な表現テクニックを学びました。それぞれの道のプロに学ぶので的確なアドバイスが頂けます。


トヨタ/後編 に続く…