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最上級のレア車?
近年の日本ではいろいろなところで、1970年代以前の空冷エンジン+ツインショック車を主な対象とした、ヴィンテージオフロードレースが開催されている。それらの会場に足を運ぶと、一般的なバイクライフではめったに見かけない、数多くのレア車に遭遇するのだが……。
そういう視点で語るなら、2024年11月9/10日に群馬県のアサマレースウェイで開催された、グリズリーカップ・第6回浅間T.T.でデモランを行ったヤマハYDS1浅間レーサーは、最上級のレア車と言っていいだろう。
何と言ってもそのYDS1は、1959年8月22~24日に浅間高原で開催された第2回クラブマンレースで(第3回浅間火山レースと共催)、ベテランクラスを制覇したレーサーそのもなのだから。しかも今回のデモランでライダーを務めたのは、1959年のレースで優勝を飾った鈴木三郎さんのお孫さん、鈴木飛雄さんだったのだ。
“浅間”と“YDS1”
そんなわけで、当記事では2024年の浅間T.T.で鈴木飛雄さんが駆ったYDS1の詳細を紹介するのだが、本題に入る前に、“浅間”と“YDS1”の概要を説明しよう。
まずは“浅間”の話から始めると、2輪の昔話でその地名が出てきたら、たいていは群馬県と長野県をまたぐ形で存在する浅間高原の略である。そして浅間高原では、日本のモーターサイクルレースの黎明期となる1950年代中盤~後半に、メーカー主導の浅間高原/火山レースと、アマチュアが主体となるクラブマンロードレースが開催され、ヤマハ以外にもホンダやスズキ、メグロ、ライラック、トーハツ、キャブトン、モナークなど、数多くのメーカーが自社の技術力向上を念頭に置いて、2つのレースに積極的に参戦・車両供給を行っていた。
そんな状況下で、1955年からモーターサイクル事業への参入を開始したヤマハは、1955年の第1回大会はYA-1で125ccクラス、1957年の第2回大会はYD-1をベースとするファクトリーレーサーで250ccクラスの表彰台を独占し、1959年には日本車初の250ccスーパースポーツとなる、2ストロークパラツインの“YDS1(当初の車名は250S)”を発売。そして前述したように、1959年の第2回クラブマンレースでは、YDS1を駆る鈴木三郎さんがベテランクラスで優勝を飾ったのだ。
鈴木飛雄さんに聞く、浅間後の経緯
ここからは、鈴木さんに聞いたYDS1浅間レーサーの話を紹介したい。最初の質問は、この車両の1959年以降の状況。第2回クラブマンレースで優勝を飾った後は、現状の姿で保管されていたのだろうか。
「いいえ。実は10年ほど前までのこの車両は、私の父がずっと保管していて、1990年頃にクラブマンレースに出場するという知人に貸し出したら、なぜか市販レーサーのTD-1スタイルになって戻って来たんですよ。でも私が譲り受けた段階で、祖父が駆った浅間レーサーの姿に戻すことを決意して、そこからはモトハウスミネギシの峯岸さんやYDSマニアの皆さん、友人知人の協力を得て、約10年をかけて現状の姿に戻したんです」
1959年の浅間レーサーの姿を取り戻す復元・修復作業を行うにあたっては、どんな苦労があったのだろう。
「苦労ではないですが、人脈作りと情報収集にはかなりの時間を使いました。10年前の私はヤマハの旧車に関する知識はほとんど無かったので、いろいろな人からお話を伺ったんです。レストアで苦労したのは、パワーユニット関連ですね。ピストンやクランクなどの見直しは想定内でしたが、YDS1の弱点と言われているミッションやキャブレターの修復は一筋縄では行かなかったですし、ラバー製に変更されていたインテークマニホールドは、懇意の鋳物屋さんにアルミ製を単品製作してもらいました。もっとも本来の素性を活かすこと、YDS2以降のパーツや汎用品を使わないことにこだわらなければ、作業はもっとイージーだったのかもしれません」
ちなみに、ヤマハがYDS1の原型となる250Sを発表したのは1959年6月で、正式な販売開始は同年9月だが、8月に開催される第2回クラブマンレースを念頭に置いて、7~8月には一部の有力チーム/ショップへの先行配車が行われていた。鈴木三郎さんが駆ったYDS1浅間レーサーは、そういった車両の1台なのだろうか。
「だと思います。と言うのも、私の祖父は1953年に横須賀で鈴木モータースを設立し、1955年からはヤマハのディーラーになって、YA-1で参戦した1958年の第1回クラブマンレースでは125ccクラスで優勝を飾っているんですよ。おそらくその功績が認められて、YDS1とレーシングキットパーツが先行供給されたんじゃないでしょうか。また、1958年に撮影したと思われる写真を見ると、初期のヤマハで活躍した望月修さんや、後にヤマハ入りする伊藤史郎さん、メグロとホンダで活躍した折懸六三さんが一緒に写っていますから、当時の祖父はレーシングライダーと交流があったんでしょう」
現在のアサマレースウェイに、かつてのレースで使用したコースはほとんど残っていないものの、今回のデモランは1955~1959年の浅間火山レース/クラブマンレースで使用したストレートで実施。もちろん、65年ぶりに聖地に帰還した勇者(車)の走りを目撃した浅間T.T.の参加者と観客は、大いに盛り上がることとなった。
「自分の祖父が65年前に走った場所を、65年前と同じ車両で走ったというのは、やっぱり感無量ですね。ここに至るまでの道乗りは非常に長かったですが、デモランを終えて浅間T.T.の参加者の皆さんとお客さんから大きな拍手をいただいて、今までの苦労が報われたと思いました。おそらくデモランの最中は、天国の祖父と祖母も、笑顔で見守ってくれていたんじゃないでしょうか」