昭和バイク話|65年ぶりに聖地に帰還した2ストパラレルツイン、浅間仕様のヤマハYDS1|参加したヴィンテージレーサー【1/3】

群馬県と長野県をまたぐ形で存在する浅間高原では、1950年代中盤~後半に2つの団体が主催するレースが開催されていた。当記事で紹介するのは、1959年の第2回クラブマンレース・ベテランクラスで優勝を飾り、65年ぶりに浅間を走ったヤマハYDS1だ。

REPORT●中村友彦(NAKAMURA Tomohiko)
PHOTO●柴田直行(SHIBATA Naoyuki)

最上級のレア車?

グリズリーカップには多種多様なクラスが存在する。この写真は日本GPクラスのスタートシーン。

近年の日本ではいろいろなところで、1970年代以前の空冷エンジン+ツインショック車を主な対象とした、ヴィンテージオフロードレースが開催されている。それらの会場に足を運ぶと、一般的なバイクライフではめったに見かけない、数多くのレア車に遭遇するのだが……。

65年ぶりに浅間高原に帰ってきた、鈴木家のYDS1レーサー。

そういう視点で語るなら、2024年11月9/10日に群馬県のアサマレースウェイで開催された、グリズリーカップ・第6回浅間T.T.でデモランを行ったヤマハYDS1浅間レーサーは、最上級のレア車と言っていいだろう。

1959年の第2回クラブマンロードレース。右の革ツナギ姿が鈴木三郎さんだ(カラー加工が行われているが、本来はモノクロ写真)。

何と言ってもそのYDS1は、1959年8月22~24日に浅間高原で開催された第2回クラブマンレースで(第3回浅間火山レースと共催)、ベテランクラスを制覇したレーサーそのもなのだから。しかも今回のデモランでライダーを務めたのは、1959年のレースで優勝を飾った鈴木三郎さんのお孫さん、鈴木飛雄さんだったのだ。

“浅間”と“YDS1”

第2回浅間火山レース・125ccクラスのスタートシーン。この年は3位にホンダが入ったものの、1-2位は前年に続いてヤマハYA-1。

そんなわけで、当記事では2024年の浅間T.T.で鈴木飛雄さんが駆ったYDS1の詳細を紹介するのだが、本題に入る前に、“浅間”と“YDS1”の概要を説明しよう。

第2回浅間火山レース・250ccクラスの表彰台。ドルフィンカウル付きのヤマハYDレーサーを駆る、♯75益子修さん、♯65砂子義一さん、♯66下良陸夫さんが表彰台を独占。

まずは“浅間”の話から始めると、2輪の昔話でその地名が出てきたら、たいていは群馬県と長野県をまたぐ形で存在する浅間高原の略である。そして浅間高原では、日本のモーターサイクルレースの黎明期となる1950年代中盤~後半に、メーカー主導の浅間高原/火山レースと、アマチュアが主体となるクラブマンロードレースが開催され、ヤマハ以外にもホンダやスズキ、メグロ、ライラック、トーハツ、キャブトン、モナークなど、数多くのメーカーが自社の技術力向上を念頭に置いて、2つのレースに積極的に参戦・車両供給を行っていた。

1959年に登場したYDS1は、日本車初の250ccスーパースポーツだった。

そんな状況下で、1955年からモーターサイクル事業への参入を開始したヤマハは、1955年の第1回大会はYA-1で125ccクラス、1957年の第2回大会はYD-1をベースとするファクトリーレーサーで250ccクラスの表彰台を独占し、1959年には日本車初の250ccスーパースポーツとなる、2ストロークパラツインの“YDS1(当初の車名は250S)”を発売。そして前述したように、1959年の第2回クラブマンレースでは、YDS1を駆る鈴木三郎さんがベテランクラスで優勝を飾ったのだ。

YDS1の発売と同時に、ヤマハはレーシングキットパーツを販売。現在の同社のコミュニケーションプラザには、それらを装着したマシンが展示されている。

鈴木飛雄さんに聞く、浅間後の経緯

外装類は当時のままではないが、1959年の姿を忠実に再現。前後フェンダーとそのステーには、鈴木さんの並々ならぬこだわりを感じる。

ここからは、鈴木さんに聞いたYDS1浅間レーサーの話を紹介したい。最初の質問は、この車両の1959年以降の状況。第2回クラブマンレースで優勝を飾った後は、現状の姿で保管されていたのだろうか。

「いいえ。実は10年ほど前までのこの車両は、私の父がずっと保管していて、1990年頃にクラブマンレースに出場するという知人に貸し出したら、なぜか市販レーサーのTD-1スタイルになって戻って来たんですよ。でも私が譲り受けた段階で、祖父が駆った浅間レーサーの姿に戻すことを決意して、そこからはモトハウスミネギシの峯岸さんやYDSマニアの皆さん、友人知人の協力を得て、約10年をかけて現状の姿に戻したんです」

1959年の浅間を走る鈴木三郎さんとYDS1レーサー。

1959年の浅間レーサーの姿を取り戻す復元・修復作業を行うにあたっては、どんな苦労があったのだろう。

「苦労ではないですが、人脈作りと情報収集にはかなりの時間を使いました。10年前の私はヤマハの旧車に関する知識はほとんど無かったので、いろいろな人からお話を伺ったんです。レストアで苦労したのは、パワーユニット関連ですね。ピストンやクランクなどの見直しは想定内でしたが、YDS1の弱点と言われているミッションやキャブレターの修復は一筋縄では行かなかったですし、ラバー製に変更されていたインテークマニホールドは、懇意の鋳物屋さんにアルミ製を単品製作してもらいました。もっとも本来の素性を活かすこと、YDS2以降のパーツや汎用品を使わないことにこだわらなければ、作業はもっとイージーだったのかもしれません」

当日の会場では、1959年の浅間で鈴木三郎さんが使用したヘルメットやウェア、当時の写真などを展示。
1959年の鈴木三郎さんは45歳。ベテランクラスでは最も若かったけれど、1958年の125ccクラスではダントツの最年長だった。

ちなみに、ヤマハがYDS1の原型となる250Sを発表したのは1959年6月で、正式な販売開始は同年9月だが、8月に開催される第2回クラブマンレースを念頭に置いて、7~8月には一部の有力チーム/ショップへの先行配車が行われていた。鈴木三郎さんが駆ったYDS1浅間レーサーは、そういった車両の1台なのだろうか。

「だと思います。と言うのも、私の祖父は1953年に横須賀で鈴木モータースを設立し、1955年からはヤマハのディーラーになって、YA-1で参戦した1958年の第1回クラブマンレースでは125ccクラスで優勝を飾っているんですよ。おそらくその功績が認められて、YDS1とレーシングキットパーツが先行供給されたんじゃないでしょうか。また、1958年に撮影したと思われる写真を見ると、初期のヤマハで活躍した望月修さんや、後にヤマハ入りする伊藤史郎さん、メグロとホンダで活躍した折懸六三さんが一緒に写っていますから、当時の祖父はレーシングライダーと交流があったんでしょう」

鈴木モータースの前で行われた記念撮影。右から三番目が鈴木三郎さんで、そこから左に、望月修さん、折懸六三さん、伊藤史郎さんが並ぶ。ゼッケンの数字は変更されているが、手前の車両は1958年の第1回クラブマンレースで優勝を飾ったYA-1。

現在のアサマレースウェイに、かつてのレースで使用したコースはほとんど残っていないものの、今回のデモランは1955~1959年の浅間火山レース/クラブマンレースで使用したストレートで実施。もちろん、65年ぶりに聖地に帰還した勇者(車)の走りを目撃した浅間T.T.の参加者と観客は、大いに盛り上がることとなった。

「自分の祖父が65年前に走った場所を、65年前と同じ車両で走ったというのは、やっぱり感無量ですね。ここに至るまでの道乗りは非常に長かったですが、デモランを終えて浅間T.T.の参加者の皆さんとお客さんから大きな拍手をいただいて、今までの苦労が報われたと思いました。おそらくデモランの最中は、天国の祖父と祖母も、笑顔で見守ってくれていたんじゃないでしょうか」

2024年の浅間T.T.に、鈴木飛雄さんはご家族と息子さんの友人と共に参加。テントを訪れる参加者や観客に、当時のレースの説明や車両の解説を懇切丁寧に行っていた。
円型メーターはYDS1の純正部品(上は速度計で、下は回転計)。低めのハンドルはYC-1用。
YDSマニアから譲り受けたガソリンタンクは当時のレーシングキットパーツで、オリジナルペイントを維持。
レーシングキットパーツのシートには、前期型と後期型が存在。現在は前期型を忠実に再現したシートを装着している。
空冷2ストパラレルツインの最高出力は20ps/7500rpm。ただしレーシングキットパーツ装着時は、25ps/8000rpmに向上すると言われた。
エンジンは鈴木さんが自らの手でフルオーバーホール。アマル/ミクニのフロート別体式キャブレターは、当時のレーシングキットパーツ。

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著者プロフィール

中村友彦 近影

中村友彦

1996~2003年にバイカーズステーション誌に在籍し、以後はフリーランスとして活動中。1900年代初頭の旧車…