【02】パリダカを走り抜いた先達に訊く|パリダカ経験インタビュー第一弾/風間深志さん

前回の記事でお伝えしたように、私は2024年3月に開催されるアフリカ・エコレース(AFR)に参戦するために準備を進めています。これから定期的に、そんなアフリカ・エコレースのルーツである黎明期のパリダカに挑み、見事完走を果たしたライダーのインタビューをお届けします。
第一回目のゲストは風間深志さんです。

まとめ●佐藤旅宇
写真提供●風間事務所
撮影協力●CafeRacers Stand

 こんにちは!田中愛生です。前回の記事でお伝えしたように、私は2024年3月に開催されるアフリカ・エコレースに参戦するために準備を進めています。そうした中で、とても参考になるのが先輩からのアドバイス。とくに冒険ラリーの趣が色濃かった黎明期のパリ・ダカ―ルラリー(以下「パリダカ」)を走った方の言葉は重みがあります。インターネットすらない時代に、現在よりもはるかに性能の劣るマシンに跨ってアフリカの砂漠を駆けたんですからね。完走する難しさ言うに及ばず、出場するだけでもとてつもない苦労があったと思います。

今回の記事では、そんな往年のパリダカを知るライダーのインタビューをお届けします。

当時のパリダカと現代のAFRでは異なる部分も多いですが、過酷な冒険ラリーに必要な対応力や心構えなど、参考になるお話も多くあると思います。

第一回目のゲストは風間深志さんです。風間さんといえば、私がオフロードバイクに乗るきっかけをくれた人でもあります。私はかつて風間さんのもとで3年ほど働いていたのですが、じつは面と向かってパリダカのことを聞いたことはなかったんです。

日本人ライダー初となるパリダカ挑戦。得たものとは?

田中:風間さんは1982年に賀曽利 隆さんと共に日本人として初めてパリダカの二輪部門に出場し、完走を果たしていますよね。

風間:そもそもレースというよりツーリングのつもりでエントリーしたんだよね。パリダカに出ればサハラ砂漠の深部を補給を受けながら走れる!って賀曽利さんと盛り上がって(笑) 16歳の頃からモトクロスをやっていたからライディングのスキルはあったけど、ずいぶんと無謀なチャレンジだよ。フランス語で書いてあるルールブックはまったく読めないしさ。荷物を運んでくれるサポートカーはいないし、予備パーツすら持っていないんだから。


田中:公式記録を確認すると、この年の大会はとくに大変だったみたいですね。行方不明になる選手が続出して完走率は30パーセントほど。選手として参加していた英首相マーガレットサッチャーの子息が行方不明になるなんて事件もあったり……。

風間:出場にあたってフランスのスズキの代理店に協力してもらったんだけど、そこの人達もそれほどパリダカに詳しいわけではなかったからね。マシンのレギュレーションも良く分からないまま出場することになった。どんな規模のイベントかも知らずに現地へ行ったら、車検場の物々しい雰囲気に驚いたね。マシンも凄くてさ。すでにFIAとFIMの公認競技になっていてファクトリーチームが多数出場しているぐらいだから、いま考えると当たり前なんだけど、当時はそんな認識すらなかった。

田中:風間さんのマシンはどういうものだったんですか?

風間:当時、海外向けに発売されたばかりのスズキDR500だね。42Lのビッグタンク大容量とクッション性の高いシートに交換してある以外はほとんどノーマル。エンジンガードも付けていなかった。当時は仲の良いスズキの社員がいたので、フレームの補強はスズキの本社でやってもらったよ。ただ、当時はスズキの社員でもパリダカがどういうものなのかほとんど知らなかった。だから過去の大会の写真を見て「こういう場所を走るならここに補強をいれましょうか」みたいな大雑把な感じだったね。

田中:それで実際にラリーを走ってみてどうだったんですか?

風間:まず失敗したと思ったのはライト。自分のような弱小プライベーターはマシンを壊さないよう慎重に走るから、どうしても夜まで走らなきゃならない。だけど当時の市販車の電装は6Vじゃない。ヘッドライトが暗くて全然見えないんだよ。ワークスのマシンはもともと高性能なヘッドライトが付いているうえに補助灯まで装備していたね。
あとはとにかくパンクに泣かされた。

田中:岩でパンクするんですか?

風間:いや、植物のトゲ。サハラ砂漠はトゲのある植物が多いんだけど、そのトゲが落ちて砂に埋まっているわけ。毎日パンクするんだよ。俺は予備のチューブも持っていなかったからパッチで修理だもんね。余計に大変だよ。人生でもっとも早くパッチでパンク修理したのはこのとき。パリダカのスタートって3分おきにライダーが出発していくんだけど、自分のスタートまであと5人というところでマシンがパンクしているのに気付いて(笑) 急いで車輪を外して穴をパッチで塞いで携帯ポンプで空気を入れてさ。さすがに自分のスタート順には間に合わなかったけど、1人遅れぐらいの時間で直したね。つまり約18分。いや~ホント毎日が大変だった。

田中:極限状態のまま20日間も走るんですもんね。

風間:朝4時にゴールに到着した日もあったからね。次のSSは朝7時にスタートしなきゃいけないのに(笑)

田中:食事やビバークはどうされていたんですか?

風間:サポート体制が一切なかったから荷物は全部自分で運ぶしかない。だからテントや着替えも持ってなかった。シュラフに入って砂の上で寝てた。食事はアフリカツールという会社のケータリング。ボルシチや野菜の煮物、それにパンやクスクスだったかな。みんな自分の容器に料理をよそってもらっているんだけど、俺はそれすら持っていなかった。料理で使われた缶詰の空き缶を拾ってそれを皿がわりにしていたね(笑)早くマシンをメンテしなければいけないので食事を楽しんでいる暇はなかったけど、あのときは何を食べても旨かった。
いつも一人ぼっちで奮闘していたせいか、アフリカツールのスタッフのおばちゃんが気を使って声をかけてくれたり、料理を運ぶトラックの運転手がシュラフの下に敷きなさいと段ボールをもってきてくれたりしたね。

田中:ラリーが進むにつれて心境に変化はありましたか?

風間:マリのガオという折り返し地点までやってきた頃にはパリダカライダーとして周囲に認められた気がした。もう二輪のエントランスが50台ちょっとしか残ってなかったから目立つんだよね。サポートなしで孤軍奮闘している日本人というだけで。パリで犬のトリマーをやっているという身長190㎝ぐらいあるハンサムなフランス人ライダーが声をかけてくれてね。みんな必死だから基本的に他人のことまで考えてられないんだけど、彼はこの大会で唯一できた友人だったね。


田中:当時のパリダカは海岸を一斉に走る劇的なシチュエーションで最終日を迎えますが、あのときってどういう気分なんですか。

風間:この年の二輪は23台しかゴールまで辿り着けなかったんだよ。だから終盤になると自然と死線をくぐり抜けた者同士という意識が芽生えて仲良くなる。でも自分以外の選手は、ダカールのゴールに家族や友人、フィアンセが待っていて抱き合いながら完走を喜んでいたんだ。レースが進んでようやく孤独から解放されたと思ったらゴールした瞬間にまた一人ぼっちになってしまったわけ。感動のゴールというより、寂しく海を眺めていたことを覚えているよ。
完走後、最後ぐらいは贅沢しようと思って「ホテル・メルディアン」というホテルを予約した。部屋に入ると大きな鏡があったんだけど、そこに映った自分の姿を見てびっくりした。別人のような風貌になっていてさ。修羅場をくぐり抜けた顔というやつだよね。

田中:風間さんがパリダカを完走して得たものって何だったんでしょうか?

風間:パリダカという極限の体験を通じて、生きるうえで何が本当に必要かを図らずも知ることになったんだ。食べ物より大切なものは水であり、そしてその水より大切なものは空気だったんだなって。そういう人生における根源的な問いへの答えを与えてくれるのが冒険の意義なんだと知ることができたよね。その後「冒険家」として活動する大きなきっかけになったと思うな。

田中:それは。パリダカ創始者、ティエリー・サビーヌが言うところの「冒険の扉」を開けた人にしか分からない境地ですね。私も頑張ります!

最初に出場したパリダカはあまりに強烈な体験の連続だったため、その後15年は日々の出来事を克明に思い出すことができたそう。

ライダープロフィール

風間 深志

1980年にアフリカ大陸最高峰、キリマンジャロをバイクで登攀、ライダーとしては日本人で初めてパリ・ダカールラリーに出場。84、85年世界最高峰エベレストに挑み高度6005m の世界高度記録達成、87年に北極点、92年に南極点にそれぞれ到達するなど、数々の金字塔を打ち立てた「バイク冒険家」。近年は自己の体験をもとに発案したツーリングイベント、SSTR(サンライズ・サンセット・ツーリング・ラリー)の主催者として活躍している。

最後に小ネタ!

オフロードの練習と国内ラリーを走るため、KTM250EXC-F(の中古)を購入しちゃいました! これからAERに向けて大きくてパワーのあるマシンに慣れていこうと思ってます。

キーワードで検索する

著者プロフィール

MotorFan編集部 近影

MotorFan編集部