本田宗一郎の「夢」の一歩 “スーパーカブ” [モーターサイクルデザイナーのデザイントーク Vol.2 ]

旅するモーターサイクルデザイナー、一條厚さんのデザイントーク第2弾。今回は「世界のホンダ」の地位を確立させたバイク「ホンダ スーパーカブ」のデザインストーリー。朝から夜まで雨でも雪でも身近に新聞配達、郵便配達、牛乳配達や出前で目にし、毎日日本列島を動脈静脈のように結び、国民全員がお世話になってきたカブ。そしてアジアでもアメリカでも同様に市民権を得た偉大なバイクのデザインを紐解きます。デザインとは?の問いに対する大切な視点のひとつになるでしょう。
TEXT : 一條 厚 PHOTOS : HONDA、一條 厚

「スーパーカブ」の前に歴史あり「バタバタ」から「赤カブ」

移動は人間の活動と生活の基本です。奇しくも敗戦国から庶民の移動と運搬の名車のカブとベスパが生まれたのは偶然でなく必要が生んだ必然なのです。庶民と妻の自転車移動を少しでも楽にさせたい。本田宗一郎の移動の夢への一歩。戦後の日本には自動車は少なく自転車が移動の主役。山道の多い日本の未舗装の道の移動へ軍放出の小型発電機を加工しました。

彼は小学生の時浜松に来た曲芸飛行会を見たくて自転車で天竜の自宅から行きました。この時飛行機から受けた感動がその後の本田がホンダになった出発点です。その時に感じた志は夢になりホンダドリームになったのです。

エンジンのピストンリング製造から動力付き自転車「バタバタ」の発動機「赤バイ」の製造から2輪車製造を始めました。後のホンダジェットに結実する夢への翼は2輪のシンボルのウィングマークになります。少年宗一郎はこうして世界の本田宗一郎になるのです。
小さな少年には帰路の山路の重い実用自転車で登りは難渋した筈です。まだサドルにまたいで跨げず横からフレームに片足を入れ漕ぐ三角乗りです。その体験は赤カブ開発の原点になったと思います。


ベンリィ「便利」という看板商品の2輪の名前からも誰にでも便利な商品を届けたいという宗一郎の意志が伝わってきます。F1やレースのイメージが強いホンダですが実は世界中の人々に移動の幸せと喜びを届ける、その為のレースであり技術なのです。

以上3枚とも、Barber Vintage Motorsports Museum、LHM Museumにて 撮影:一條厚

自転車エンジン赤カブF型誕生は1952年で一気に販売を拡大しました。戦後の日本の大衆の移動と運搬の手段は自転車でした。1950年の名画「自転車泥棒」でビットリオデシーカ監督が描いたのは戦後のイタリアで自転車が如何に生きていく仕事の移動に無くてはならない存在だったかが分かります。本田宗一郎もこれを観て意を強くしたと思います。庶民に手の届く文字通り原動機付き自転車は荷台に生活と平和を積んで時代を運んだのです。

アラバマのBarber Vintage Motorsports MuseumのF型カブ

移動を便利にBenly、夢はDream

デザインとスタイリング 量産性への合理的構成
スーパーカブを語るとは、スタイリングを超え移動具としての機能のデザインを語る事です。2輪は嗜好性の高いジャンルと実用性の高いジャンルとに大別されます。実用性とは生活や社会性に即した信頼性や乗り易さやなど乗り物と人間との密接な関わりが求められます。求められる人の移動具への機能合理性を成立させる巧みな量産性への構成がスーパーカブの真骨頂でそれがデザインです。

オリジンの創造
乗り降り重視の前傾エンジンを低く置き、中央部とリアフェンダーは一体プレス成形で前半部とパイプで繋ぎ、当時最新のポリプロピレン樹脂製レッグシールドで機械部はクリーンに隠され、それをカラーアクセントとし全体バランスを整えた機能と合理性が生みだしたデザインです。巧みなレイアウトはさりげなくもバランスの取れた必然のフォルムで、一目でスーパーカブというアイコンを生みました。誕生以来今日まで変わる事のない優れた基本構成とその熟成こそがスーパーカブのデザインの根幹です。

美しいデザインと好ましいデザイン。
美しいデザインとは端的にいえば情緒性を喚起させます。一方好ましいデザインとは日常的な道具性を持ちそれは機能性に繋がります。両方を備える例もありますがそもそもはどちらかに軸足を置き開発されます。どちらが良いのではなく道具や移動具にはそれらの要素が備わるのです。
例えるならベスパは情緒的でファッション性と美を感じさせます。一方カブは高い道具性で使い続ける過程で情を経て情感を感じさせます。ベスパは多くのファッションアイテムに使われるように存在自体がチャーミングです。一方カブは移動の足としての信頼性と操作性でいつしか情が湧き感情移入する。つまり用の美なのです。

アメリカのビッグバイクブランドのインディアンもモペットを作リました。
しかし、比較するとカブの非凡さが理解出来ます。

初代カブは極めてスリムコンパクトです。それは軽量化こそ技術者の腕の見せ所で乗り物設計の鉄則で性能と燃費と運動性に寄与します。
また巧みな構成から生み出したアウトドアイメージのハンターカブもアメリカ人の心を掴みました。週末には家族でアウトドアを2輪で楽しむ文化が芽生え。その後のオフロードの大ブームのきっかけになったのです。キャンピングカーの後ろに積まれるのもハンターカブが定番でした。

樹脂製のカバーが車体色とのバランスの良い2トーンなのもフレンドリーなポイントです。当時のクルマで流行った2トーンと通じる時代と世相を感じさせます。振り返れば歴史的にもこの時代特有のカラーセンスです。現代のクルマで多用される基本色に黒い樹脂パーツでフォルムの間延びを整える構成とはその趣旨が異なります。

注目すべきはセンターにラインが入っているところ。デザイナー的には本来入れたくない筈ですが、これはプレス製のボディやシート下のタンクを左右で溶接する際のラインと統一性を持たせるため、樹脂製のリアフェンダーにもレッグシールドにもセンターラインを入れてます。溶接ラインを全体に一本筋を造形に通す、実直な実用車のデザインテーマが垣間見えます。

そして多くの若者たちは実用車のシンボルのレッグシールドを外しました。すると一気にバイクっぽくなりバイク乗りを気取りバイクの世界に入ったのです。それは優れた機能的レイアウトのなせる技の二面性です。レッグシールドを外すと空気と燃料で内燃機関が動く2輪車の構造の教科書が現れ感銘します。
2輪の魅力は乗るだけでなく自分でも分解整備出来ることです。若者たちはスパナを握り、体験からメカニズムを学んだ彼らは後に様々な分野で活躍し戦後復興の礎になるのです。そうですそれはカブ先生の若者生徒への青空機械学校だったのです。そんな若者たちが長じて夢中で働き乗り物を基幹産業にしたのです。

20世紀は乗り物の時代、多くの青年は乗り物に自らの夢を託しました。より速くより遠くへの身体能力拡張装置。この小さな前傾4サイクル単気筒エンジンは彼らのハートのエンジンを微速前進させたのです。私も高校の校庭で初めて乗った瞬間に自由の翼を得た感動に痺れた一人です。走り始めた瞬間に動くバランスを取る動物たる人間の血が騒いだのです。この写真は2台目の私の所有車です。

俯瞰すると車体を目一杯コンパクトにし、対比する座面の広いシートに乗る人への快適の思いやりを感じます。
タンクをシート下に配置し足周りを広くし視覚的にも車体の軽さを感じさせレッグシールドは守ってくれる安心感も演出します。

ライディングポジション
低めのフラットなハンドルは人を前気味に座らせシート後方の長いスペースを確保させてます。
荷台長確保と長いシートはアメリカ人や東南アジアの3〜4人乗りへの対応も可能にした優れた構成です。2輪は全体構成でデザインが大方決まります。

メーターもハンドルカバーも人の視野からは’メカニカル’は排除し人に優しい構成は一貫してます。

小さなヘッドライトは車体のコンパクトさを象徴し愛らしく、通称カモメタイプのハンドルカバーは最もデザインでカブを主張しかつユーザーフレンドリーさを演出してます。フォーンのレイアウトもデザインのアクセントです。

タイの私設博物館での見解ですが、左のタイのレッグシールドの肩の形状が撫で肩になってます。
明らかにバランスが良いのはタイ生産車。タイ生産の際にタイの美意識が働いたなら興味深いです。この変化は次のカブにも継承されます。
レッグシールド下端が広いのは冷却性の向上と思われます。このような型変更を躊躇なく行ったのも当時のホンダの改良への姿勢です。また2輪は早くから海外生産を開始し現地ニーズを合わせたきめ細かなモデル開発を行った事も現地の人々に受け入れられた要因です。

左がタイ生産車。

You Meet Nicest People on a Honda
なんとも素敵なポスター。この2輪が広げる素敵なライフスタイルをイラストレーションで見事に展開したポスターでアメリカに進出したのです。自分のライフスタイルを積み、今日の私を演出し人が振り返る。タンデムとリアキャリアが生む素敵なライフスタイル展開に笑みが溢れ思わず買わせるマーケティングの戦略の成功例です。
イラストレーションで描かれる当時のアメリカ車のカタログはクルマが拡げる生活の素晴らしさに満ちた憧れの扉でした。それを2輪ならではの多彩多様さをアピール出来たのはカブの新鮮なデザインとカラーリングに明日の等身大の夢を載せる私が見えたのです。
小さな乗り物の幸せな可能性を伝えた傑作です。当時の黒のダークなバイクの世界に鮮やかな赤と白の展開もインパクト大でした。北米での芳しくない2輪イメージを一気にYou Meet Nicest Peopleに変えてその後に続く2輪ブームは此処から始まりました。エルビスプレスリーなど著名なスターたちも乗り拍車をかけました。こうして本田からホンダそしてHondaに駆け上ったのです。

こんなポスターには僕も彼女もノックアウトされますよね。

リアキャリアが生むライフスタイル展開
こちらのイラスト広告にサンタクロースが描かれているのはスーパーカブが子供へのクリスマスプレゼントでよく売れたからです。
何故アメリカでピックアップトラックがメジャーなのか日本では理解出来ないのはその使い勝手の多用途性の見える生活です。物の運搬だけでなく様々なアクティビティを視覚にも演出出来るアクティブな文化の象徴です。あの小さなカブも2人乗りに加え様々な使い勝手の夢を荷台に積めるのがアメリカ文化にアピールしたのです。

北米では当時アウトローだったオートバイのイメジーを変え、誰でも乗れる親しみやすさでその後のオートバイブームの先駆けとなりました。また安かろう悪かろうのMade in Japanのイメージを信頼の高いイメージに変えたのはカブを始めとする日本製2輪車の功績です。そして誰にも乗り易い事で途上国の人々の移動の足として愛用された功績は計り知れません。累計1億台を超えて売れ続けているのが物語ります。

展開への拡張性 コミューターからアウトドアへ オフロードへ レジャーへ
路面状況を選ばない機動力を狙ったカブのために開発した17インチタイヤが様々は派生モデルを産みました。巧みなデザインから生み出したアウトドアイメージのハンターカブもアメリカ人の心を掴みました。週末には家族でアウトドアを2輪で楽しむ文化が芽生え、その後のオフロードの大ブームのきっかけになったのです。キャンピングカーの後ろに積まれるのもハンターカブが定番でした。この多用途で多彩な拡張性はベスパなどスクーターには出来ないカブの基本構成がもたらせた利点です。

カブは2輪世界へのパスポート
この優れた前傾エンジンは2輪へのパスポートとなりスポーツモデルからレジャーモデルと全米のに広がりメイドインジャパンの素晴らしさを浸透させました。

カラーリング
その主張し過ぎないツートンは日本の津々浦々の四季の風景に溶け込み、一方北米では一転して世界進出の夢の意気込みを主張するかの赤と白のツートーンです。その後本田宗一郎は神社仏閣から学び日本発信のデザインを訴求したように色も日本の象徴の白と赤を海外戦略の色としたのでしょう。ソニーやMacの例までもなく経営トップのデザインへの理解は重要です。

カブは特に美しいとは言われないが可愛いと言われ、2輪なのに危ないとも言われない稀有な存在です。2輪を嫌いでもカブが嫌いな人は稀なのがカブのカブたる所以です。それは誕生からいつも朝から夜まで雨でも雪でも身近に新聞や郵便や牛乳や銀行や出前を目の当たりにし、毎日日本列島を動脈静脈のように結び国民全員がお世話になってきたからでしょう。誕生から72年。日本人の情報と便りと身体を育んだ小さくも偉大な交通インフラの恩人です。

LHMモーターサイクルミュージアム
タイで販売された全ての日本車を展示する稀有な素晴らしいディーラー私設LHMモーターサイクルミュージアムでもカブの変遷の歴史が展示されてます。

カブから始まるモペットの現地でのデザインの変遷です。優れた基本構成は変わらず時代とユーザーニーズに合わせたデザイン変化が読み取れます。また大きなデザイン要素として4輪にはないグラフィックデザインがあります。特にアセアン各国はそれぞれの文化風土の違いやトレンドに敏感で各国ごとにカラー&グラフィックが異なります。それを可能にするのは各国で生産するからです。その国の人々の生活文化や嗜好に根ざした4輪には無い2輪ならのきめ細かなデザイン対応なのです。

新型でもスーパーカブのアイコンはキープしより乗り降りし易く進化しているホンダの初代へのリスペクトと乗る人への絶え間ない良心が分かります。

カブは絶えず進化しその子孫は庶民に愛され今日も各国で大活躍です。
4輪が大型化した今2輪無しには交通渋滞は深刻な社会問題です。

日本での大ヒットと共にアメリカでは多用途性の2輪ピックアップトラック版のハンターカブが、タイではニューレトロなトレンドにと直系のスーパーカブはこれからも人々に移動の楽しさと喜びを届け続けます。

偉大な日本発世界スタンダード
日本で生まれ世界の移動のパートナーになったカブ。オイルが無くても走ると言われる程の信頼性は絶え間ない改良で絶大な信頼を築き上げ、それは現代のカブにも引き継がれてます。この先もこの小さな大きな乗り物は世界で愛され続けるでしょう。Thanks Cub!

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著者プロフィール

一條 厚 / Atsushi Ichijo 近影

一條 厚 / Atsushi Ichijo

1948年岩手県盛岡産まれ。4年のフリーター浪人経て7年後1978年東京藝術大学工芸科へ大学院染織専攻修了。