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BMW M1
当初はV12エンジン搭載案も

1976年から始まった世界スポーツカー選手権に参戦するために、BMWモータースポーツ社はE21型「3シリーズ」にM12/6ユニットをインストールしたアンダー2.0リッタークラス用「320i」に加えて、オーバーオールウィンを狙えるグループ5専用車両、そしてそのベースとなるグループ4車両の開発をスタートする。
当時、彼らの前に立ちはだかっていたのは、後に「グループ5を滅ぼした」と揶揄されるほどの圧倒的な強さを示していたポルシェ 935だった。それに対応するためにBMWモータースポーツ社のチームディレクターを務めていたヨッヘン・ニーアパッシュはランチア ストラトスのような、グループ4/5を制することだけを目的とした2シーターミッドシップスポーツカーの開発を決断する。
当初は開発を進めていたV12エンジンを搭載する案もあったそうだが、石油危機でプロジェクトが中断されたこともあり、ポール・ロッシュが「3.5 CSL」の3.5リッター直6DOHC24バルブ・ユニットをベースにドライサンプ化、直立マウント化したM88型ユニットを開発。しかしながらBMWは、それを搭載するミッドシップシャシーのノウハウを持ち合わせていなかった。またグループ4カーとしてホモロゲートするためには、連続する24ヵ月間に400台を生産する必要があった。
開発を担当したのはダラーラ


そこでニーアパッシュは当時経営不振に陥っていたイタリアの雄、ランボルギーニに接触し、開発と生産化の契約を締結する。この時、ランボルギーニ側の責任者はチーフ・エンジニアのフランコ・バラルディーニであったが、実際に開発を担当したのはジャンパオロ・ダラーラ率いるダラーラであった。
すでにミウラ、ストラトスなどで経験を積んでいたダラーラは、M88を縦置きし、前後にダブルウイッシュボーン・サスペンションを備えた角形断面の鋼管フレームシャシーを設計。ボディデザインはジョルジェット・ジウジアーロ率いるイタルデザインに託された。
こうして1977年夏に最初のプロトタイプが完成し、順調に進むかと思えたプロジェクトだが、ランボルギーニはBMWから得た資金をクロカンモデルのチータの開発に投入してしまい開発が遅延した。予定していた1978年3月のジュネーブ・ショーに発表ができない事態となってしまう。その状況を打破するためにBMWはランボルギーニの買収へ動き出すが、労働組合やサプライヤーなどの強固な反対を受け頓挫。結局、7台のプロトタイプが完成したところで両社の提携は決裂した。
そもそもの計画では、エンジンはBMWモータースポーツ社、5速ギヤボックスはZF、鋼管フレームはマルケージ、ボディはイタルデザインが製作し、ランボルギーニが足まわりの製造と最終アッセンブリーを行うというものだったが、イタリアTIR社で製造されイタルデザインで組み立てられたFRP製ボディがBMWのクオリティを満たすものではなかったこともあり、すべてをドイツ・バウアー社に集めて組み立て、BMWモータースポーツ社で最終調整を行うこととなった。
グループ4仕様のワンメイクレースを開催


このような紆余曲折の末、BMW M1は1978年9月のパリ・ショーで正式にデビュー。ところが「ポルシェ 911」の2倍近い価格と、月産数台という生産ペースで肝心のホモロゲ取得が難航。そこでニーアパッシュは、マーチBMW時代から親交のあるマックス・モズレーに働きかけ、1979年からF1GPのサポートレースとしてグループ4仕様に仕立てたM1のワンメイク、プロカーレースを開催。さらにプロトタイプ枠でル・マン24時間レースなどにも出場し、その実績をもって400台目の生産が終わった1980年末に特例でグループ4のホモロゲを取得した。
ところがすでに世界スポーツカー選手権が消滅していたうえに、1982年から新しいグループA、B、C既定が発行されることになっており、M1がレースに出場する道は完全に断たれてしまうこととなった。
結局レースカー53台、ロードカー400台(諸説あり)が完成したところで生産は終了。現在に至るまでミッドシップ・レイアウトをもつBMW製市販スポーツカーは現れていない。