1960年代末、日本の自動車文化が変わった

1968年に登場したC10型スカイラインは、性能と実用性を兼ね備えた中型セダンとして注目を浴びた

1960年代後半、日本は高度経済成長の真っ只中にあった。一般家庭にテレビや冷蔵庫が普及し、三種の神器から「自動車」へと国民の憧れが移っていく時代である。

モータリゼーションの波に乗り、各自動車メーカーはこぞってスポーティな車両の開発に力を入れ始めた。若者を中心に車がステータスの象徴となり、より速く、よりカッコいい車への関心が急速に高まっていたのである。同じ頃、社会の空気を映すように文化の世界でも大きな変化が起きていた。

音楽では、ザ・タイガースやザ・スパイダースといったグループサウンズが若者の心を掴み、1971年には小柳ルミ子の「わたしの城下町」や尾崎紀世彦の「また逢う日まで」が国民的ヒットを記録した。テレビドラマでは『太陽にほえろ!』(1972年放送開始)が刑事ドラマの新しいスタイルを築き、映画では高倉健や石原裕次郎らが銀幕を飾った。車と並んで音楽・ドラマ・映画が若者文化の中心を成し、街全体が活気にあふれていたのである。

こうした時代背景のもと、1968年に登場したC10型スカイラインは、性能と実用性を兼ね備えた中型セダンとして注目を浴びた。そして翌1969年、ついに「スカイラインGT-R(PGC10型)」という、国産スポーツカーの歴史を塗り替えるモデルが登場する。

プリンスの技術が息づく「GT-R」

最高出力160馬力、排気量1989ccという驚異的なスペックを誇ったS20型エンジン

GT-Rの開発には、日産と合併した旧・プリンス自動車の技術陣が大きく貢献している。なかでも注目すべきは、心臓部ともいえる「S20型エンジン」である。

このエンジンは、元々プリンスが開発していたレーシングカー「R380」に搭載されていた直列6気筒DOHCエンジンを市販用にアレンジしたもので、最高出力160馬力、排気量1989ccという当時としては驚異的なスペックを誇った。

車体は4ドアセダン(PGC10型)をベースにしていたが、レースを視野に入れていたため、軽量化や足回りの強化も徹底された。後に2ドアハードトップ版の「KPGC10型」が登場すると、より本格的なレース志向のモデルとして支持を集めることとなる。

一方で1960年代末の日本文化では、海外の最先端を取り入れる風潮が広がっていた。ビートルズが来日し、洋楽やファッションが若者文化を席巻、同時に国産技術に対する自信も芽生えつつあった。GT-Rの誕生は、そうした「日本も世界に通用する」という時代の空気を象徴する存在であったといえる。

モータースポーツで無双した「羊の皮をかぶった狼」

「羊の皮をかぶった狼」と称されたハコスカGT-R

ハコスカGT-Rの伝説を決定づけたのは、その圧倒的なレース実績である。1969年の鈴鹿サーキットでデビューを飾ったGT-Rは、瞬く間に国内レースを席巻。デビューから2年足らずの間に50勝以上を挙げ、通算勝利数は52勝にも達した。

この強さから、ハコスカGT-Rは「羊の皮をかぶった狼」と称されることになる。見た目は普通のセダンだが、中身は完全なレースマシンであった。

当時のレース会場は、単に自動車好きだけの空間ではなく、時代を反映した娯楽の場でもあった。70年代初頭のテレビでは『8時だョ!全員集合』や『巨人の星』といった国民的番組が大ヒットし、劇場映画では『男はつらいよ』シリーズが人気を博した。

さらに1970年、日産はGT-RをWRC(世界ラリー選手権)の一環である「東アフリカ・サファリラリー」に投入。この過酷な環境に挑戦した背景には、日産の「GT-R」を世界へと通用するブランドに育てたいという野心が込められていた。

なぜ今もハコスカは愛されるのか

日産「Skyline 2000 GT-R KPGC10 型(1970)」

ハコスカの魅力は、単なる性能だけにとどまらない。その直線的で力強いデザインは、半世紀以上経った今も古臭さを感じさせず、むしろクラシカルな美しさとして再評価されている。また、マニュアルトランスミッション、FR(後輪駆動)、アナログメーターといった要素は、現代車には失われた「操る楽しさ」を濃厚に残している。

1970年代に入ると、社会環境は急速に変化した。1973年の第一次オイルショックは日本の産業や生活に大きな影響を与え、燃費性能や実用性への関心が高まる時代へと移っていった。

そうした激動の時代を背景に生まれたハコスカは、単なる自動車以上の象徴となった。経済の成長、社会の不安、若者文化の変化といったすべてを横目に走り抜けた存在であるからこそ、今もなお特別な輝きを放っているのである。

現在、ハコスカは国内外でコレクターズアイテムとして高く評価されており、程度の良い個体は1,000万円を超えることも珍しくない。特に海外では「JDM(Japanese Domestic Market)」ブームの影響もあり、アメリカをはじめとする国々で旧車としての価値が急上昇している。

ハコスカは日本車の“原点”であり昭和の象徴である

日産は、2007年から18年にわたり生産してきた「R35 GT-R」最終生産車のオフライン式を栃木工場にて開催した。

ハコスカGT-Rは、単なる1台の車ではなく、日本の工業技術、レース文化、そして車に情熱を注ぐ人々の結晶である。以降のGT-R(ケンメリ、R32〜R35)へと続く系譜は、すべてこの1台から始まったといっても過言ではない。

また、ハコスカは自動車史にとどまらず、昭和文化の象徴でもあった。70年代の街にはフォークソングが流れ、テレビでは刑事ドラマや特撮ヒーローが子どもから大人までを熱狂させ、映画館では任侠映画や青春映画が人々の心をつかんでいた。そんな時代に登場したハコスカは、歌や映画と同じように人々の憧れや夢を映し出す存在であり、“走るカルチャーアイコン”であったといえる。

モータースポーツで鍛え抜かれた走り、時代を超えるデザイン、そして所有することそのものがステータスであった背景。これらすべてが重なり、ハコスカは単なる自動車の枠を超えて「昭和の情熱」を象徴する存在となった。ハコスカはまさに“走る伝説”であり、日本車が世界に誇る不朽のアイコンなのだ。