タテグロ誕生までの歩み

3代目A30型系「ニッサン・グロリア(1970)」

日産グロリアはもともと、1959年に旧プリンス自動車工業から発売された高級セダンがルーツである。その後、1966年に日産とプリンスが合併し、両社の技術を融合させた高級モデルとして誕生したのが3代目グロリア=タテグロだ。

当時のライバルはトヨタのクラウン。当モデルが堅実で保守的な高級感を打ち出していたのに対し、タテグロは欧米車を思わせるデザインと走行性能で差別化を図った。特に「ロイヤルルック」と呼ばれた直線基調のボディラインは、当時の高級車市場に新たな価値観を提示したといえる。

タテグロ最大の特徴は、フロントフェイスに配置された縦型の4灯ヘッドライトだ。当時は横型4灯や丸目2灯が主流だったため、縦配置は非常に斬新であり、「高級感」や「威厳」を表現するためのデザインだった。

また、ボディは当時としては大型で、直線的な造形が堂々とした印象を与える。これはアメリカ車の影響を強く受けたデザインであり、日産が高級車市場でクラウンに対抗するための戦略だったといえる。

自家用車需要が拡大した高度経済成長期

タテグロが発売された1967年は、日本が高度経済成長の真っただ中にあった。国内総生産(GDP)は右肩上がりで、1960年に国民所得倍増計画が発表されて以降、生活水準は急速に向上した。この時代、乗用車の保有台数は急増し、1965年に約630万台だったのが、1967年には1,000万台を突破。まさに「マイカーブーム」が本格化していた時期である。

さらに、道路インフラも整備されつつあった。1965年に名神高速道路が全通、1969年には東名高速道路が開通し、都市間移動が格段に便利になった。こうした環境が、自家用車需要の拡大を後押しした。

1960年代後半は「3C時代」と呼ばれた。3Cとは「Car(車)」「Cooler(クーラー)」「Color TV(カラーテレビ)」の略で、これらを持つことが豊かな暮らしの象徴とされた。車は単なる移動手段ではなく、ライフスタイルを象徴する存在へと進化していたのだ。

また、レジャーブームも到来し、週末に家族で郊外へドライブする文化が広がった。タテグロのような高級車は、ビジネスシーンだけでなく、家族の「ステータスシンボル」としても重要な役割を果たしていた。

しかし、自動車の普及は新たな社会問題も引き起こした。1960年代後半、日本では交通事故による死者数が年間1万6,000人を超え、「交通戦争」と呼ばれる深刻な状況が続いていた。

タテグロはそうした時代にあって、安全性にも配慮した先進的な装備を備えていた。ディスクブレーキの採用や視認性を重視した縦型ヘッドライトなどは、単なるデザイン性だけでなく、安全性向上を意識した設計思想といえる。

縦目4灯の個性派グロリアが放った存在感

現在でも旧車ファンに強い人気を誇る、3代目A30型系「ニッサン・グロリア(1970)」

1967年に登場した日産の「タテグロ」は、高級車市場への本格参入を象徴するモデルであり、縦目4灯のフロントマスクと重厚なデザインで強烈な存在感を放った。

高度経済成長期で国民の可処分所得が増加し、車は単なる移動手段から「豊かさと未来志向を体現するライフスタイルの象徴」へと変化。モータリゼーションの進展に伴い安全性への意識も高まる中、タテグロは高級感と走行安定性、安全性を兼ね備え、多くの富裕層や企業オーナーに支持された。

1960年代後半は「3C(カラーテレビ・クーラー・マイカー)」に象徴される消費文化の成熟期で、タテグロは家族や会社のステータスシンボルとしても位置づけられた。1970年に開催された大阪万博をはじめとする未来志向の潮流とも重なり、タテグロは時代の価値観や憧れを体現した象徴的モデルとして、現在でも旧車ファンに強い人気を誇っている。