日本全体が未来の形を求めていた時代に登場したクジラクラウン

1970年代初頭、日本は高度経済成長のピークを迎えていた。1964年に開催された東京オリンピックと1970年に実施された大阪万博を経て、社会全体が「近代化」と「先進性」に沸いていた時代である。
都市には高速道路が張り巡らされ、マイカーの普及率が急上昇。クラウンはその中で成功者の象徴としての地位を確立していた。
一方で、文化の面でも時代の空気は大きく変わりつつあった。ファッションではフレアパンツやワイドカラーが流行し、音楽はフォークからロックへ。テレビでは『太陽にほえろ!』など、スピード感と都会のクールさを描くドラマが人気を集めていた。
「モダン」「スピード」「クール」といった言葉が、この時代のキーワードだったといえる。
販売不振の原因は“革新”と“保守”の板挟み
4代目クラウンは、それまでの直線的で威厳のある3代目とはまったく異なる流線型のスタイリングを採用した。ボディ全体が丸みを帯び、フロントからリアへと緩やかに流れるフォルムは、従来の「官公庁車・社用車クラウン」のイメージを一新するものであった。
デザインのモチーフとなったのは、エアロダイナミクス。空気抵抗を抑えるためにバンパーをボディと一体化し、三角窓を廃止。その滑らかさが「クジラのようだ」と評され、愛称「クジラクラウン」が定着した。
しかしこの革新的デザインは、保守的なクラウンユーザーにとってあまりに未来的すぎた。「落ち着きがない」「貫禄が薄い」との声も多く、結果的に販売面では苦戦を強いられることになる。
クジラクラウンの販売台数は、当時のトヨタの期待を大きく下回った。1971年から1974年の販売台数は約16万台前後にとどまり、3代目の約27万台に比べて大幅な減少である。
その背景には、いくつかの要因がある。
まず、デザインがユーザー層と噛み合わなかったことだ。クラウンの主要顧客は経営者や官庁関係者など、保守的で重厚感を求める層が中心だった。しかし、クジラクラウンは若々しく軽快すぎる印象を与えたため、従来のユーザーには受け入れられにくかったのだ。
新開発の2.6L直列6気筒エンジンは滑らかだったが、重量増によって燃費は悪化。さらに、1973年には第一次オイルショックが発生。燃費よりもスタイル重視だったクジラクラウンは、時代の逆風を受ける形となった。
こうした背景から、「美しいが売れない車」として語り継がれることになったのである。
クラウンの新たな方向性を切り開いた技術と装備の進化

販売台数は伸び悩んだものの、技術面では非常に完成度の高いモデルだった。車体構造は従来の堅牢なラダーフレームを踏襲しつつ、静粛性と快適性を徹底的に高めた。足回りは前ダブルウィッシュボーン/後4リンク・コイルスプリングを採用し、乗り心地と操縦安定性の両立を図っている。
また、1974年のマイナーチェンジでは、世界初の「自動アイドリングストップシステム(EASS)」を搭載。渋滞時にエンジンを自動停止・再始動するこの技術は、現代のハイブリッド車にも通じる省エネ思想の先駆けであった。
当時主流だった3速ATも改良が重ねられ、静粛性とスムーズな変速性能が向上している。これらの挑戦は、のちのクラウンやマークII、さらにはトヨタの高級セダン設計全体に大きな影響を与えた。
日本の自動車史の深層に息づく、時代を先取りしすぎた美しき挑戦者
1971年に登場した4代目クラウン「クジラ」は、保守の象徴だったクラウンが初めて“革新”へ挑んだモデルだった。その滑らかなフォルムは、時代を先取りしすぎて理解されなかったが、後年になって「最も美しいクラウン」として再評価されている。
売れなかったという結果の裏には、トヨタが未来を見据えた勇気ある戦略があった。
1974年、販売不振を受けてモデルチェンジした5代目クラウン(S80系)は、直線基調の保守的デザインへと回帰。結果として販売は回復し、クラウンは再び高級車市場の王者としての地位を取り戻す。
挑戦は一度失敗しても無駄にはならない。クジラクラウンは、その教訓を今に伝える存在といえる。時代を先取りしすぎた美しき挑戦者として、その存在は今も旧車ファンの間で再評価されている。その姿は、まるで海を泳ぐクジラのように静かだが力強く、日本の自動車史の深層に息づいている。