1982年、時代を先取りした「びっくり BOXY SEDAN」
1982年8月、まだ「ミニバン」という言葉すら一般的でなかった時代に、日産が打ち出した新ジャンルの車があった。キャッチコピーは「びっくり BOXY SEDAN」。それが初代プレーリー(M10型)だ。
当時としては画期的だった両側スライドドア+センターピラーレス構造、広大なガラスエリア、多彩なシートアレンジ、最大8人乗りのパッケージ。それまでのセダンでもワゴンでもない、新しい乗用車のかたちを提示した。まさに、乗用車ベースの多用途車=ミニバンの原型といえる存在だった。
1980年代初頭、日本の自動車市場は大きな転換期を迎えていた。高度経済成長を経て自動車は贅沢品から生活必需品へと変わり、核家族化や週末レジャーの普及により、「家族みんなで乗れる車」への需要が高まりつつあった。
しかし、当時はセダンやクーペが主流だった。一方でワンボックス車は商用色が強く、「ファミリーで快適に使える多人数車」は存在しなかったのだ。
そこで日産が掲げたのが、セダンの快適さとワゴンの積載性を両立するという発想だった。そのコンセプトのもと誕生したのが、マルチユースセダン=プレーリーである。時代のキーワードだった「未来志向」「ユーティリティ」「快適性」をいち早く体現したモデルでもあった。
現代にも通じる発想の原点、初代プレーリーの特徴

初代プレーリーの最大の特徴は、両側スライドドアとセンターピラーレス構造(Bピラーなし)を組み合わせた大胆な設計だ。開口部が非常に広く、子どもや高齢者でも乗り降りがしやすい構造は、当時の量産車としては極めて先進的だった。
現代のミニバンでは当たり前のように採用されているが、1980年代にこれを実現したのはプレーリーが初である。
グレード構成も豊富で、3列シート8人乗りや2列5人乗りといったファミリー向けの仕様をはじめ、高級志向の2列仕様や商用の3人・6人乗り仕様まで、幅広いニーズに応える展開となっていた。座席は回転やフラット化が可能で、車内空間を自由に使いこなせる柔軟性を備えていた点も特徴のひとつだ。
エンジンは1.5リッターのE15S型(85馬力)と1.8リッターのCA18S型(100馬力)を搭載し、駆動方式は基本がFFながら、後期モデルでは2.0リッターCA20S型エンジンを積んだ4WD仕様も追加された。
ボディサイズは全長4,090mm、全幅1,655mm、全高1,600mm、ホイールベース2,510mmと、現代のコンパクトミニバンにも通じるバランスの取れた寸法である。
また、低床フロア構造と広いガラスエリアがもたらす開放的な視界は、乗る人すべてに安心感を与えた。居住性を最優先に考えたその設計思想からは、「家族のための乗用車」という明確な目的意識が感じられる。
先進すぎたがゆえに苦戦した販売実績と課題
プレーリーはその革新的なコンセプトこそ高く評価されたものの、量販モデルとしては成功したとは言い難い。車高が高く独特のフォルムに対して「不格好」「やはりセダンのほうが信頼できる」といった声も少なくなく、市場の支持は限定的だった。
さらに、センターピラーレス構造による車体剛性の確保やコスト面の課題も重なり、価格設定はやや高めであった。その結果、1988年に登場した2代目(M11型)ではBピラーが復活し、構造上の安定性と実用性を優先する方向に舵が切られた。プレーリーは、先進性と現実的な使いやすさの狭間で苦戦したモデルでもあったといえる。
しかし、その存在が自動車デザインや居住性設計に与えた影響は計り知れない。広い室内空間、フラットな床、自在なシートアレンジといったプレーリーの思想は、後のホンダ・オデッセイ、トヨタ・エスティマ、日産・セレナなど多くの国産ミニバンに確実に受け継がれていく。
初代プレーリーは、「ただの移動手段」だったクルマに“家族の時間を運ぶ空間”という新しい価値を与えた存在である。8人乗り、両側スライドドア、センターピラーレス構造など、今日では当たり前となった発想を1980年代初頭にすでに具現化していた点にこそ、その真価がある。
販売実績では報われなかったが、その思想は確実に自動車文化の中に根を下ろしている。プレーリーは、時代を先取りしすぎたがゆえに理解されなかった未来のミニバンだったと言える存在だ。