バブル経済が生み出した国産スポーツカー。280馬力に収まらないその実力

ホンダ初代「NSX(1990)」

「日本のスポーツカーは280馬力以下」これは、長らく自動車業界で守られてきた暗黙のルールだ。この紳士協定は、バブル期のスポーツカー技術競争を象徴するキーワードだった。そして日本経済が絶頂期を迎えた1989年、日本の自動車メーカーは次々と革新的なスポーツカーを世に送り出す。

当時を代表するのがホンダ「NSX」だ。1989年2月のシカゴオートショーで発表されたNSXは、F1テクノロジーを取り入れたミッドシップスポーツカーとして世界を驚かせた。

アルミニウム製モノコックボディ、可変バルブタイミング機構「VTEC」を搭載した3リットルV6エンジンという最新技術の数々に加え、アイルトン・セナが開発に携わったという逸話も手伝い、NSXはたちまち話題となる。

日産も1989年8月に「スカイライン GT-R(R32)」を復活させた。「ATTESA E-TS」と呼ばれる電子制御式4WDシステムと、4輪操舵システム「HICAS」を組み合わせた革新的な足回りは、圧倒的な走行性能を実現。モータースポーツでの活躍により、海外では「GODZILLA(ゴジラ)」という異名で恐れられるようになった。

このようなバブル期を象徴するスポーツカーの熱気は、やがて「280馬力戦争」と呼ばれる状況を生み出す。公式発表では各社とも最高出力を280馬力と謳っていたが、これはあくまでも当時の自動車業界の「紳士協定」の建前上の数字であり、実際にはその数字を大きく上回る性能を秘めていた。

実測値では日産の「スカイラインGT-R」が320馬力前後、三菱の「GTO」は300馬力以上の実力を持っていたとされている。

そして、当時のスポーツカーが特別だったのは、単純な速さに限らない。真に評価されていたのは、手頃な価格で最先端技術を搭載し、日常での使いやすさも両立していた点と言っても過言ではない。

例えるならば、欧州製スーパーカーが「乗るアート」だったとすれば、日本のスポーツカーは「実用的なハイテク」だったのだ。

自動車メーカの技術力の結晶、革新性を持った日本のスポーツカー

日産「スカイライン GT-R(R33)」

バブル期の国産スポーツカーは、単なる速さだけでなく、革新的な技術開発の実験場でもあった。日本のメーカーは、厳しい排ガス規制やオイルショックの経験から生まれた技術力をスポーツカーに惜しみなく投入した。

マツダは1989年に「ロードスター」を発売。軽量コンパクトなオープンスポーツカーとして世界的ヒットを飛ばす。「馬力ではなく走る喜び」を追求したロードスターは、重量1,000kgを下回る軽量ボディに「人馬一体」を実現する絶妙なハンドリングを組み合わせ、スポーツカーの本質を問い直す存在となった。

1990年代に入ると、さらなる技術革新が進む。1993年に発売されたトヨタの3代目「スープラ」は、当時の最先端だったシーケンシャルツインターボを採用。低回転から高回転まで途切れることのないスムーズな加速を実現し、その完成度の高さから今なお世界中で高い人気を誇る。

日産も1993年に「スカイライン GT-R R33」を発表し、さらに進化したATTESA E-TSと洗練されたデザインで人気を博した。この時代の国産スポーツカーが世界に衝撃を与えたのは、その価格帯にも理由がある。

当時のフェラーリやポルシェが1,500万円以上したのに対し、国産スーパーカーの多くは500〜800万円台と相対的に手頃だった。そのコストパフォーマンスは、特にアメリカ市場で高く評価され、日本車の新たなイメージを築き上げた。

また、この時代の車はモータースポーツとの関わりも深かった。GT-RはグループAレースで無敵とも言える強さを見せ、スバル「インプレッサ」や三菱「ランサーエボリューション」も、WRC(世界ラリー選手権)での活躍を背景に誕生した市販車として、独自のファン層を開拓するのである。

バブル崩壊による国産スポーツカーの衰退、相次ぐ生産終了

1991年に日本のバブル景気が崩壊すると、株価と地価の暴落は、自動車市場にも打撃を与え、国産スポーツカーにも暗い影を落とし始める。

さらに、環境規制の強化も追い打ちをかけた。1990年代後半には排ガス規制や燃費規制が厳しくなり、高性能エンジンの開発コストは急増。環境志向の高まりと経済不況により、大排気量の高性能スポーツカーを開発する機運は冷え込んでしまった。

マーケティング戦略の変化も、国産スポーツカーの衰退に影響を与えた要素の一つだ。バブル崩壊後、自動車メーカーは収益確保のため、世界市場で売れる環境対応車や実用車に注力するようになった。トヨタは「プリウス」に代表される環境技術へと開発資源をシフト。日産も1999年から始まったルノーとの提携後、経営再建を優先せざるを得なかった。

象徴的だったのは、名車の相次ぐ生産終了だ。2002年には「スープラ」「シルビア」「RX-7」が相次いで生産を終了。同年に「スカイライン GT-R」もR34型を最後に一時的に市場から姿を消した。

しかし、バブル期に誕生した国産スポーツカーは、完全に廃れてしまったわけではない。その人気は生産終了後も衰えず、特に海外では「JDM(Japanese Domestic Market)」として熱烈に支持された。

映画「ワイルド・スピード」シリーズの影響もあり「スカイライン GT-R」や「スープラ」は海外での知名度をさらに高め、コレクターズアイテムとしての価値も上昇していったのだ。

名車復活の波。新時代に蘇った往年の国産スポーツカー

2000年代後半から2010年代にかけて、日本のスポーツカー復権の兆しが見え始めた。リーマンショックからの景気回復と共に、バブル期の名車たちが現代に蘇るプロジェクトが次々と始動したのだ。

その先陣を切ったのが日産だった。2007年、カルロス・ゴーン体制下の日産は「GT-R」を独立したモデルとして復活させた。

トヨタ5代目「スープラ(2019)」

バブル期の「スカイライン GT-R」から進化した新型GT-Rは、3.8リットルV6ツインターボエンジンから480馬力を絞り出し、0-100km/h加速はわずか3.5秒という驚異的な性能を実現。さらに洗練された電子制御システムにより「誰でも安全に高性能を引き出せるスーパーカー」というコンセプトを体現した。

レクサスも2009年に「LFA」を限定500台で発売。1億円近い価格設定と最高出力560馬力の4.8リットルV10エンジンは、日本メーカーの技術力の高さを世界に知らしめた。LFAは、カーボンファイバー強化プラスチック(CFRP)をボディに採用するなど、次世代技術の実験という側面も持ち合わせていた。

2016年にはホンダも続き「NSX」を再び世に送り出す。ハイブリッドシステムを採用した新型NSXは、3基のモーターと3.5リットルV6ツインターボエンジンの組み合わせで総合出力581馬力を発揮。電動化時代のスーパースポーツという新たな領域を切り開いた。

2019年になると、トヨタが17年ぶりに「スープラ」を復活させた。BMWとの共同開発による新型スープラは、3.0リットル直列6気筒ターボエンジンを搭載し、往年のファンから新世代のドライバーまで幅広い層から支持を集めている。

バブル期の国産スポーツカーは、10年に満たないわずかな期間にも関わらず、世界中に日本の技術力と情熱をアピールし、大きな功績を残した。電気自動車(EV) やハイブリッド車(HEV)などの先進車がメインストリームになりつつある現代においても、その実績は評価され続けている。